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戦後生まれの私たちには分からない、戦前の農家の規模について知りたい
- 北陸の富山市出身で、友人の親は農家でした。しかし、その親の農家の規模や位置について全く知りません。
- 友人の父方の実家は400町歩の農地を持っていて、士族だったそうです。また、母方の実家は50石の農家で平民でした。
- 戦後生まれの私たちは大きな農家しか知りませんが、400町歩や50石はどれくらいの規模なのでしょうか。同じような規模の農家がどのような位置にあったのか知りたいです。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D 一反で一石程度の生産 一町歩で10反 ざっくりいえば 50石というと 5町歩程度の農地 400町歩というと、富山一じゃないかな? 戦前の五大地主というのが1000町歩 http://hoppou-bunka.com/top.html 全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主として 以上引用で、伊藤家の上には、山形の本間家しかいなかったはず。 http://r-waka.web.infoseek.co.jp/gounou.html http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-58.pdf 自らの所有田畑約33町歩のうちの約20町歩を率先して解放した。 引用 これからみえるのは、有力農家として残るには、(33-20=12)12町歩くらいは必要だということでないかな。 400町歩でなく 400石で 50石ではなく 50町歩でないかな http://toyatabi.sa-kon.net/toyama/utiyama.html 1千石地主 で 大騒ぎなのに 400町歩だと 4000石となり文化財というか 伊藤家の北方文化博物館に近くなる。
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- tanuki4u
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加賀藩では 1000石以上は 70家ありました http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9 一万石以上、つまり大名並が8家。 最大の家臣は5万石なので、城持ち並です。 ちなみに 一万石が大名と旗本の区切りになっているのは、動員する軍事力からです。 備という概念から来ています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 「備の人員は一般的に300~800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。」引用。
お礼
本当にありがとうございました。 知りたいことは解ったのに、新しい資料が面白くて、ついくて読んでしまい、終りにできなくてごめんなさい。 1000石以上が70家ですか、前田家も大判振る舞いと言うか、家臣を大切にしているというか、かなり多くの扶持をを与えているんですね、従兄の写真も信用することにします。 それからこれは余談ですが、私の定年前の職業は、老人病院のケースワーカーでした。 その時入院してきたおばあさんのお見舞いに、お兄さんがやってきましたが、山梨の甲府近くの町の町長さんでした。 その名刺の名字が、「旗持」とあり、私は内心、(ヘェー、この人の先祖は合戦の時旗を持っている家柄の人だったのかなー?)なんて思いました。 提示くださった「備え」の資料に、「旗持ち」という名誉職があったと知り、ちょっと思い出しました。 もっと余談ですが、そのおばあさん、生存していればもう100歳を超えているはずですが、私が仕事を聞いた時、「学校です」と答えました。 失礼ながら鬼瓦のような若いころからもとても並と思えないような顔立だったので、つい「学校で何をしていました?」(用務員でもしていたのかと思って)と聞いてしまいました。 そしたらおばあさん、怪訝な顔をして当然のように、「何って、先生ですけど」と。 全く失礼なことを聞いてしまいました、ちなみにそんな年齢でも確か東京女子大出でした。 tanukiさんは理工系出身なのに歴史にも知識が深いのですね。 私はPCを始めて5~6年にもなろうというけれど、いまだに知りたいことを検索するのは難しいです。 つい、他力本願でOKウェブを使わせてもらいますが、今回は面白くてやめられません、その内面倒くさくなったら回答しないでください、そしたらベストアンサーを押して終了にします。 ごめんなさいね。
- tanuki4u
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ざっくりとした基礎資料として http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8B%A2%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/6355/1/01_0009.pdf 農業就業人口 1400万(全国) 農業戸数 550万(全国) 越中=富山 人口 70万人 明治17年(農村人口は、75%程度で 55万くらいかな) 石高 80万石 実高(たぶん、江戸後半の数字) 村数 1376 村数(近代の行政組織としての村 ではなく自然村かなと) 一村当たり 500石 400人(80世帯) 【うちは50石で村に2軒ほどだった、向かいの○家は200石で2~3ヶ村に1軒ぐらいだった」】 だいたい、リアルな感じですね。 平均 6.25石で 0.5町歩程度
お礼
またまたありがとうございました。 ご提示くださった資料から派生して、歴史的資料をいろいろクリックして読んでいます。 ここでもとの質問と違った内容を質問してはいけないのでしょうが、ちょっと聞いてもいいでしょうか。 私の母方の実家の従兄のところに、金沢からお嫁に来た人がいます。 その嫁さんの家は加賀藩の3000石の家で、金沢の武家屋敷の門の前で大勢の一族と撮ったという写真を見せてくれました。 3000石なんて本当かしら?と思います。 旗本でも3000石と言えば大身と聞きますし、忠臣蔵で家老の大石内蔵助も1000石無かったように記憶しています。 幾ら前田家が大きいと言っても、家老でもない普通の家臣で3000石は本当でしょうか。 それに最近武家屋敷を観光した時、その嫁さんの名字(mi○oka)らしい表札は見つかりませんでした。
お礼
早速ありがとうございました。 確かにその人の記憶違いでしょうね。 幼馴染でしたので、両方の親もよく知っていますし、遊びにも行きました。 男親の実家は郊外だったので空襲にあわず、女親の実家は中心部に近かったので、空襲で焼けたようです。 男親の実家は大きな藁ぶき屋根の農家で、とても資料にいただいたような瓦葺の家ではなかったと言います。 ただ女親が、「お父さんの家は兄さんに岩瀬のすごい大きな家からお嫁に来ている」と言っていたとか、「小作が家に来たら玄関の土間に、兄さんに『へ、へー』と土下座していた」とか話してくれたそうです。 女親の家の方は、「昔、千石のasano様から婿養子がお籠に乗って来た」とか、「うちは50石で村に2軒ほどだった、向かいの○家は200石で2~3ヶ村に1軒ぐらいだった」とか言っていたと。 400石も50石も、戦後の農地解放があったお陰か、今では誰が地主だったのか小作だったのか解らないくらい、御近所の知り合いの農家はみな裕福そうに見えます。 後継ぎでなく分家して勤め人になった私達の親は、みんな苦労して市民生活を送っているんだなーと話しています。 とても面白い資料をありがとうございました。 質問に関係なく、色々興味を持って読めそうです。