伊勢神宮に仕事関係の奉納行事として2度行きました。
感じた事ですが、ここには暗さというものが無いように思いました。
大きな自然の中に、悠久の時の流れが静かにある、といった感じです。
こうした感覚は、日本仏教の聖地といわれる場所にも見受けられるようですが、やはりどこかしら違うもののようです。
なぜ違うのでしょう?
信仰の面から見てゆけば
仏教の場合には、内部空間へと入っていったところに信仰の対象が存在します。
その中心には仏像という疑似人間的な精神的象徴があります。
それはまた、生死の暗さを超えた存在の象徴として信仰の対象ともなっているものです。
空間的にも、精神的にも、内へ内へと入って行ったところに本質的なものがあるといった感じです。
外部空間の荘厳は二次的なもののようです。
神道の場合には、自然を含めた外部空間の広がりそのものが信仰の対象となっている場合が多いようです。
神そのものの直接の象徴は、幣束という白い紙だけのごく簡素なものだけです。
そこには偶像というものは無く、また必要ともされていない場合が多いようです。
神域における清浄感が、神の存在を示しているようにも感じられます。
建築を含めた空間の広がりにおいて、本質的なものが暗示されている、といってもよいと思います。
無常を嫌った仏教は、内へ内へと入って行ったところに無常の無い安らかな世界を求めていったのでしょう。
神道の場合は、移り変わりゆく大きな自然そのものの中に安らぎを得た世界、といった感じがします。
この二つの宗教の流れは、共に、日本人の心に広く受け入れられてきたのだと思います。
どちらも日本人にとって必要であったのかもしれません。
また別な見方をすれば、人の心の暗さや明るさの反映といったものも、そこにはあるのでしょう。
宗教的な理念や信仰に基づく文化遺産には、日本人の感性が表われていますし、素晴らしいものが多く見受けられます。
それらに接した時の印象は忘れ難いものだと思います。
宗教の本質は理解できなくとも、そうした形の面から大切に受け継がれてきたのかもしれません。
宗教が生んだ文化遺産が、さらに宗教を守り伝えていくといった面があるのでしょう。
そうした流れは、今日まで続いてきたものですし、これからも続いていくものと思います。
仏教は外来宗教ながらも、人の生死の暗さや苦しみの解決といった面から必要とされて伝えられてきたものですし
神道は古来の自然や神への信仰が広く受け継がれてきたものです。
そこには、二つの宗教というものが伝えられてゆく内面的な必然性があったのだと思います。
そうした内面的な必然性に加えて、上記のような文化遺産を守るという外面的な働きがあって、今日に至っているのではないでしょうか。
宗教の内容をどう見るのかはいずれにせよ、この二つの宗教が今も確かにあるという事実には、日本の歴史の重さがあるといっても過言ではないと思います。
以上、参考にしてください。
お礼
たとえ神格者を見失いましても、『文化遺産への信頼』が現代の日本人達の多くを『部分的に』助けてくれているのかも知れませんね。
補足
有り難う御座います。 日本では、古来から【無心】が尊重されているからこそ、『神道への信仰の自覚』が日本人には乏しい、という認識は可能でしょうか?