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死
別になにもしていないのですが、いつも死ということばが付きまとってきて辛くてくるしいです。わたしはいま大学1年ですが、高校3年の夏休みぐらいから日に日に死を考えることが多くなりました…相談できるような人はだれひとりいませんから…どうしたらよいでしょう…本当に辛いです
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いろいろあった、ということはkumudreamさんは確かに辛い思いをしたのだと思います。 何かの拍子に「死」を考える、ということですが、 「死にたい」ということ? 「死んだらどうなるんだろう」ということ? それとも頭の中に「死」という文字がぐるぐる回る感じかな。 どういったものなのかによって解決策は変わってきます。 ただ一つ言えるのは、 kumudreamさんが精神面で参ってしまっているということですよね。 精神科をおすすめします。 肉体疲労で倒れちゃって点滴受けたりすることありますよね。 精神科に行くのも同じことです。 それくらいの軽い感覚で行っていいんです。 もしどうしても親に相談できないなら、 病院に行く理由を明かさなければいい。 金銭面で親に頼らざるを得ない場合でも、 「頭が痛いから病院に行く」とか適当に理由つけておけばいい。 本当に辛いなら、その一歩だけは踏み出してください。 ここで相談できたあなたなら、必ずその力はあるはずです。 一言だけ、きつく言わせていただきます。 辛い辛いと言っているだけでは何も変わりませんよ。 変えたいなら、変えるための努力はあなたがするしかない。 いい方向に進めますように。
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- rewon
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他のカテゴリでした質問を締め切ったほうがいいですよ(^-^) まだ病院へ行かれていないのですね。 勇気を出して!
お礼
病院はやっぱり無理ですよね…どうしても言えないです。ごめんなさい… 分かりました。
- chupaku
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今までいろいろあったんだったら、もうそろそろ良い方向に向かうかもしれないよ。 振り子の法則だから、行くところまで行ったら、戻ってくるしかないからね。 死にたくなるほどいろいろあったと言う人ほど、なんで自分だけって思ってしまうタイプが多いと思うけどね。 皆、楽にばかり生きている人はいないはずだよ。
お礼
そうですね… もっと頑張るべきですね ありがとうございました
- nyannkowannko
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大学1年生では、親の保険証、病院に通うのもできるのか・・・。 こんな事、ご両親には、相談できないでしょう。 身元がわかるのが嫌でしょう。 公衆電話でも、自宅から184を先につけて、 お住みになってる、県や、市、に保健所があります。 保健予防推進担当が専門で苦しみを聞いてくれます、アドバイスもあります。気持ちを聞いてもらいましょう。 病院に行くのが困難ならば、TELがよいです。 死にとらわれたままでは、辛いでしょう。 このようにすれば、あなた自身をみつられないし、個人情報もばれないでしょう。 まずはここからなら、できるのではないでしょうか・・・・。
お礼
電話ですか… 考えてみます ありがとうございました
- kiflmac
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宗教的な事で有ったり、一般的なハードルを下げて言っていると思います。 未遂になった事ありますか?ODをしたり、リスカとか、アムカ程度の死なないって自覚しながら、傷付けて居たり、生温い事で満足していませんか? 私が言いたい所は、世の中に「~したら死ねる」と言った「アイドルの~とやれたら死ねる」位凄い低次元の話を語っている事と変わらない質問だと思いました。 それでも大学に行ってるようですが、何を選考しましたか? 世間体でも何でも、選考した理由が有るはずです。それに向かって生きる活路をゆっくり探してても良い時間があると思います。立ち向かわず、趣きに転ずる成ら、それもあなたの人生なので、何とも言えませんが・・・哲学的な回答で、すいません。 結論だけで言えば、「死」に付いて考えるのは、産まれ「生」を受けた段階で、始まる感情で有り、その時出来る事をすれば、結果は出てから良いのでは良いので今の段階(宗教的な事じゃないよ)を出来る事はしようかな?って感じで良いと思いますよ。
お礼
未遂はしたことないですね… 動物けいですね… ありがとうございました
- nontro_08
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創価学会の者です。 フランスの作家・ユゴーの言葉に、「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」(『死刑囚最後の日』)とあるように、人間は誰でも、死を回避することはできません。しかし、たいていの人間は、死に対する恐怖におののいて、それを避けることばかり考えているように思えます。はかない享楽に耽ったりして、死の恐怖をごまかしたりする。しかし、歳月の経過は冷酷です。あっという間に老齢に達し、死に直面しなくてはならない。 であるならば、死という問題から逃げずに、死の問題に真正面からぶつかるしかありません。そのためには、どうしても正しい宗教哲学(特に仏法)が必要です。 まず、死の本質について知らなければなりません。一般的に言われている「死」とは、「死を迎えれば、その時点で終了し、もう継続することはない、無に帰する」とする断見(だんけん)思想と、「死後は、生命が霊魂となって、永遠に地上を徘徊する」とする常見(常見)思想に基づくものです。しかし、仏法では、そのいずれも否定します。 人間は、死を迎えれば、その生命は大宇宙の空間に溶け込むのです。具体的な姿が見えなくなっただけで、生命そのものは依然として継続しているのです。そして、一定の時期が経過し、再び具体的な形を帯びた生命体として出生する条件が整えば、再び形を帯びて地上に目に見える存在として生じるのです。そしてまた死を迎え、大宇宙に溶け込んでいく。これを永遠に繰り返すのです。始めもなければ終わりもない。すなわち、生には「過去世・現在世・未来世」の三世があるのです。 日蓮大聖人は、「先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(妙法尼御前御返事)と仰せです。死という問題を根本的に解決できてこそ、正しい人生観、価値観も確立され、幸福もあるのです。人間の不幸は、死という問題を恐れて忌み嫌い、逃げ回ることしかできないことです。正しい仏法哲学によれば、死の問題は根本的に解決できます。この世においてだけでなく、三世にわたって幸福境涯に至れます。死は徒に恐れ、嫌うものではなく、次の生への荘厳な出発とすることができます。「生も歓喜、死も歓喜」(池田名誉会長の言葉)の、幸福な生死の継続とすることができるのです。 質問者様にとっては、受け入れ難い論理かと思いますが、ありのままを述べさせてもらいました。
お礼
難しいですね…
- tumaritou1
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今63歳になるものです。私も貴方と同じように『死』と言うものに取り付かれた事があります。14歳から32才までの18年間の事です。 27歳の頃、死に対する恐怖症が高じて、離人症になりまして、森田療法で当時知られていた、鈴木知準先生のところで、2ヶ月間入院治療を受けました。 入院と言っても、そこは共同生活を送る寮みたいなところでしたが、時々行われていた、講話という時間に先生が色々な本を読んでくださいました。主に『道に至る』或は悟りを開く、或は免許皆伝、或は禅の話や、人間の幸福感を、手や足がない人の書いた本で『それでも今は幸福感の中にいる』と言うものが多かったと思います。 ノイローゼの自分と、悟りや道に至る話などは『何処に繋がりが在るのかは、分かりませんでしたので』チンプンカンプンした。 そうして時々「ノイローゼの一年は座禅を10年した事と同じ」或は「ノイローゼは悟りを開かないと治らない」とも言っていました。そうして『神経質な人間が生きてゆく態度』と言うものを教えてもらいました。 ノウローゼを治すために如何いう態度が必要か?という根本を教えていただいたと思います。そういう生活態度を学んで帰ってきて、『その通りの暮らしを守っていた所』その4年後に『自分の中の、無意識の意識と出会うという体験がありました』 その日以来『死の恐怖症』で苦しんだ事も、治った事も全て『忘れ果てて』59歳まで生きてきました。59歳までと書きましたが、59歳の時近所の若い者が『鬱になって心療内科で診察を受けた』と言う話を聴いたからです。 そうして、自分もノイローゼで苦しい想いをした事があったことを思い出した次第です。そうして65歳頃まで学んで、鈴木先生のように、何かを出来ないだろうかと思い、このように書いています。 私と同じように『生き難い想い』で暮らしている人達が、今も沢山存在する事に、驚いています。私が治ってから既に30年以上経っていますが、インターネットなどで神経症などを調べていて『非常に驚いています』 ノイローゼや神経症に対する研究が反って後退しているように感じたからです。神経症の原因が未だ解明出来ていないと『今の精神医学』では、定説になっているようです。 治った立場から『神経症』と言うものを説明して、どうしたら治るのか?或はどうしたら治らないのかを書いてみます。 神経症は、心の矛盾を『自我意識が感じている現象』です。心の矛盾と言っても分かり難いかもしれませんが、自我意識が受けている圧迫感の事です。『漠然とした不安や、心の底に感じる不安感の事です』 この圧迫感とは、もう一つの『自分の心からの圧力』をこのように感じています。もう一つの自分の心とは『無意識の意識』からの圧力です。人間には『意識する自分』と『無意識の自分』が同居しています。 人間の心は『意識』と『無意識』が同居していると言う意味です。そうして二つの意識が『心の根底で相談しながら、どちらの出番かを決めています』この事は分かり難いですので、読んでおくだけで良いと感じます。理解出来ないと思うからです。 そうして二つの意識には役割り分担があります。機能の違いと言う意味です。自我意識は物事を詳細に分析してそうして言葉に翻訳をして、感情にして味わっている『意識』です。 他方の意識は、その自我意識に脳梁を通して『言葉に拠らない情報として』送り続けています。 従って『人間が五官で感じている事は』二つの意識が常に同時に感じている事を意味します。二つの意識は常に同じ現実を現実として捉えている事を意味します。処がその同じ外界の状態を、違うように受止める機能として感じています。 高い所にいる場合、もうひとつの意識は、『瞬時に』その高さの情報を読み解いて、高さの情報として『怖さ』と云う言葉ではない情報として送っています。 狭い場合にも、鋭い刃物を目にした場合にも、スピードを出し過ぎた場合もです。或は空気として、殺気として、或は、気持ち悪いものを見た瞬間では、身の毛もよだつほどに身体も心も刺激しています。 好きな人との出会いでは、この人と結婚をしたら将来がどうなるのかさえ『見通して』知らせています。お互いの『もう一つの意識』が認め合った場合『赤い糸で結ばれていたと感じます』 もう一つの意識は、『無意識の主人公です』ですがその枠だけには収まらない機能を持っています。その機能の一旦を書いてみます。 もう一つの意識の機能とは、『命そのものを働かせている機能です』心臓や肺や、腸やホルモンの分泌等、命を守る働き全てです。心の対する機能も持ち合わせています。心が休まる時は『その機能が働いて』自我意識は休んでいます。 意識地獄の状態とは『その意識が』出番を失われた時です、言い方を替えるなら、意識する自分が、ですぎてしまって『無意識に交替が出来なくなった時です。』 人間の正常な状態とは、二つの意識が上手く交替制と言う形で『同調できている時』です。その交替制が崩れた時に、『違和感』という形で無意識が抗議しています、その抗議を、自我意識は『漠然とした不安』と感じています。 今までの上手く行った状態を取り戻すべく『抗議をしている事』を意味します。 自我意識は、湧き上がる感情を、受取っている存在です。もう一つの意識は『感情を湧き上がらせるための情報を、自我意識に送る役目』という機能を持っている事を意味します。 言葉に拠らない情報で、『自我意識に働き掛けている』という意味です。 不安になり易い人、或は神経質な人とは、この情報を間違って受取ろうとしている人と言う意味になります。 高所恐怖症はその情報の受け取りを拒否している人、という意味です。送る方の心は。情報の受け取りを拒否されたために、その不安という始めは小さな情報を、次には拡大して大きくして送るようになります。その拡大された情報が『恐怖』と云う事になります。 恐怖症の全てが今言った事から起きています。従って『恐怖症の解消』とは、始めの小さな不安という情報を『始めから、小さい内に受け取っておく事』が糸口になります。 では神経症の治りと云う事を書いてみます。それは『症状を忘れている事です』意識に症状が上がって来なくなる事を意味します。その状態がどう言う事からもたらせられるのかを書いてみます。 それは症状を『悪いものと思わなくなった時です。』言い方を替えるなら『症状を治そうと言う気が無くなった時の事です。それは症状を只の雑念と処理出来た時です。 では次に神経症がどうして治らないのかを書いてみます。神経症は『悪く無いものを、治そうとする事から』症状らしきものがでている事を意味します。治そうと言う『心の働き』が症状を発症させて、更に固定させている事を意味します。 その世界は『妄想』といっても可能の世界です。現実には無い事を『頭の中に作り上げて』その作られた世界を、現実に存在する世界と思って『身体も心も』無いものに反応している世界です。 従って本当に治った世界とは、眼の前の世界を『真実の世界』と認める世界です。頭の中の虚構の世界を認めなくなる世界です。この事を仏教関係では『大人の嬰児』という言い方をしています。 その意味は『人生に何も疑いを差し挟まない』という意味です。 神経症とは、人間性の心の深さを疑っている世界だからです。自分で自分の心を疑っていると言う意味です。自分で問題を提起した世界から抜け出す道は、自分で答えを見つける以外はないのかも知れません。この場合の答えが『悟り』と云う事になります。自分の『我』が真実の自分と出会うという意味ですが、その答えは『無意識と意識』の根底に降りている時、ノイローゼの人なら何時か来ると感じます。 鈴木知準先生の言葉をもう一度書いてみます。ノイローゼの一年は座禅を十年した事と同じ、そうしてノイローゼは悟りを開く時治る。と言うものです。禅という方向からのアタックも可能と感じます。 してはいけない事は『症状の改善』という方向からのアタックです。その行為自体を『ノイローゼ』といっているからです。 神経症の改善とは、自分自身の『無意識への信頼を取り戻す事』で解消します。その姿を『心の矛盾の解消』と言っています。
お礼
なんか…よくわからないけど… ありがとうございました
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
死は人間に常に付きまとっています。人間は誰でも、生まれてからすでに死に向かっています。
お礼
分かりました
- chupaku
- ベストアンサー率25% (460/1781)
死んでも良いくらいがんばったら、もう良いだろうの許可が下りて、死ぬことになるでしょうね。 ただ何にもしていないのなら、まだまだ先は長いから、考えていても仕方ないよ。 死ぬときゃ死ぬです。そう簡単に死ねないです。 「青空のむこうに」という本を一度読んでみてください。 一番それっぽいと聞きましたよ。
お礼
いままでいろいろあったんです。それでももう疲れてしまいました…
- ゆきだるま3(@yukidaluma33)
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私もそうでした! 小学校の時から 死んだらどうなっちゃうんだろ?とか 考えるとすごく怖くて寝れなくて親に泣いていった事もありました あなたと同じ年頃の時も 特に秋になるとすごく不安になったりしました 何かで読んだんですが、まだ将来やりたい事がいっぱいあったりとか そういう時に起こる現象だそうです 私は今は46歳・・いい年だし、もう子供も大きくなったし でもまだまだやりたい事はたくさんありますが 最近(40過ぎてから位かな?)あまり不安にならなくなりました まあせいぜい「死んだらきっと空が飛べるようになるんだろうな」なんて そう思う事にしてます(^^; なのでちっともおかしい事ではないですよ! でも、なるべく陽を浴び そして そういう時はなるべく一人で居ないようにする・・ ・・事です
お礼
一人の方がでも楽なんですよね… それに、なんか安心できるんですよね…
- 巧(@TYR_efes)
- ベストアンサー率13% (305/2272)
んー・・・近しい間柄の人のリアルな死に 直面すれば、そういった漠然とした不安は意味を失うと 思います(酔汗) 自分の存在価値云々はふっ飛んでしまうからです。 くれぐれも、焦って妙な宗教団体などに答えを求めたりは しません様に。
お礼
死ですか…
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お礼
それは…どうやって死ぬのがいいかな…とかどうやったら自然に死ねるかなとか死ぬとしたら何時がいいかな…とかとにかくなんでもいいから死にたいな死んだらみんなどうするかな、喜ぶだろうなとか…ですね。 いままでずっと我慢してきたから腹痛でも頭痛でも訴えたことないですから…どうやったらいいのか分からないですし怖いんです。小児科しか行ったことないですし… そうですよね… もっと頑張ります。