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自ら死を選ぶことについて
- 悩んでいることから逃れられるなら選びたい
- 些細な悩みも大きな悩みに感じることもある
- 夢中になれることや趣味が生きる意欲を与える
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質問者が選んだベストアンサー
少し質問の意図とは異なる回答になるかもしれませんが・・・ 私は一度苦しい状況下で自殺を考えたことがありましたが 自殺の仕方や死んだ後の家族を考えると怖くて悲しくて 自分は自殺できない人間なんだとその時思いました。 結局死ぬ選択肢はとらなかったものの 一瞬でも「死ぬ」選択を具体的に考えた気持ちは分かります。 そこから先「死」を自ら選ぶ人は それぐらいの心境・状況で 勢いと決意で死の選択肢を選んだのではと考えます 私は幸い今は死にたいなんて思わない むしろ生きたいと感じてますが 自殺に関するニュースを聞くといつも色々考えてしまいます。 自殺を選ぶ人の多分大半は「助け」を求めている その助けて欲しいことはなんだろう?と 正直言えば実際自分が死にたい人の傍にいても 助けになれることはほとんど無いでしょう。 良いと思って手を出したことが迷惑になるかもしれない やっぱり技術が足りなく助けられないかもしれない 助けを出したくてもその人がうまく声を上げられない人かもしれない それに敏感に気がつくなんてできないだろう と そしてここで質問主さんの話に戻りますが 世の中には「死ぬこと」を選ぶ以外ないくらい 誰にも助けを求められない 自分でどうにも出来ない人は確かに存在します。 彼らにかける言葉 勧める事はなにもないようにも感じますし とりあえずなんでもいい気がします。 綺麗な景色を見に行こう 行った事のない国に行ってみよう 高い金だしてやりたいことをやってみよう 意を決して人助けをあえてしてみよう これを実行して生きる希望がわく人もいれば 何も変わらない人もいるでしょう 「これ」って言葉はあまり無い気がします。 それでも私は 旅行先で見たことの無い壮大な景色を見たりすると 「死にたいと思う人もちょっとは気持ちが変わるかも」 そんな風に思うのですが
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- hyuuma8579
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申し訳ありませんが、私もあなたのお礼文などを拝読しながら、ただ自分の感じたままを素直に述べたままで、何かを押し付けるつもりはありません。 ただ、あなたを異星人だとは思いたくないので強調的に働きかけてみただけです。「この道理がわからないのか、わかるのか」を探るためにね。 ただ、死などというものを扱う場合、あまりに深く重要なテーマなので、広範な考えや意見があって然るべきだろうとは思います。質問の主旨からずれてしまうほどにね。 私も普通の感覚で、あなたに同意を求めたつもりでしたが、やはり別の考え方のようだとわかりましたので、はい、ここまでとします。 再三の愚答お許し下さい。
補足
>質問の主旨からずれてしまうほどにね。 だったら答えるべきでないかと。
すこし雑談っぽい答えになりますが・・・ 生きたくても思うように 生きられず 死にたくても思うようには 死ねない 自然にまかせるのが一番 そんな感じではないでしょうか。 死というものから できる事なら目をそむけたい と 思うのが普通だと思います。 大きな病院に行くと 死ぬ という事を忘れたままで 死を待っている人が沢山います。 そうした姿を見ると 自分はそうなりたくない 死 というものが 自分の思うようになったなら と感じます。 自分の思うように死ねたならと 思います。 でも 実際にそうできる人は少ないと思います。 私も友人を自殺で亡くしていますが 自らの命を絶って 本当に救われたのかというと 到底そんな感じはしませんでした。 私の母方の祖父は90才で亡くなりましたが 少しの間 床に伏してから眠るように大往生しました。 今まで見てきた中で 一番安らかで きれいな死に方だったと思っています。 なかなか こうした死に方はできないと思います。 周りで見守っていた人達にも 寂しさはありましたが 暗さはありませんでした。 自然で安らかな死が一番いいのではないでしょうか。 >「生きるのも悪くないな」と思えるような・・・ なかなか難しいですが 最近の小さな出来事からです 仕事先のお家であった事です 大変広いお屋敷で 奥の方は自然の樹木が沢山ありました そちらへ行くと 木陰で涼しいので一休みしようとしました 蝉が沢山鳴いていて 賑やかでした 大きなケヤキの木の下を通りかかると 蝉が一匹バタバタと暴れて鳴いていました あ~あ と思って蝉を拾ってみました 手の中でもバタバタと暴れて 同じように鳴いていました よく見ると 片方の大きな羽根が取れてしまって飛べないようでした 飛べないなら ケヤキの木にしがみつけさせてあげようと思って ケヤキの幹に そっと止まれるように置いてあげました なんとか 木に止まったのですが 少し経つと 地面に落ちて またバタバタと暴れて鳴いてしまいます しょうがないな 頑張れ と思いながら何度か繰り返してやってみました ようやく落ち着いて木に止まったようなので その場を後にしました 少し歩いていくと また落ちてしまったのでしょう バタバタと暴れる音と鳴き声が聞こえました 蝉には もう 木に止まれるだけの力が無かったのだと思います ちょっと立ち止まって見ていましたが 静かになったので その場を後にしました その時思ったのは 少しでも生きろよ という気持ちでした それは ちょっとした感情でした もう 間もなく死を迎えようとする 小さい生き物に対しての感情です 短い間しか生きられない蝉の命への 憐れみというのか 何というのか・・・ですが 蝉に比べたら (長く生きられる)人間はぜいたくでしょう 死にたいなんて ぜいたくかもしれない 貰った命を大切にした方がいいと思います。 童話みたいな話になってしまいましたが 自然が教えてくれる命の大切さ みたいなものは確かにあると思います。 たまには 人間の世界だけではなく 自然との触れ合いも必要のように思います。
お礼
回答ありがとうございます。 ちょっとした幸せを感じられるって良いですよね。 最近、なかったなーって思います。
- hyuuma8579
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考えるのは、それだけ余裕があるからです。 死を考える場は別にあってもいいのです。宗教とかは重要なテーマでしょうし、身近な人が死んだことで、いろいろ考えさせられることは、実際ありますからね。 私が死を考えるなといった意味は、「無駄なことを考える暇がないくらい一生懸命生きよ」という意味で、死よりも大切な生を強調するために言ったに過ぎません。 それに、やはりおかしいのは、死を逃げ道だと期待したり、確信したりしていることです。 いくら、考える自由が人間に与えられているとしてもおかしな話です。 もし本当にそう思っているのなら、自分が自殺するだけでなく、他人もそうしてあげるべきだということになります。 つまり、自他共に殺すことを薦めることになるはずです。 そうでないなら、一貫性のない、ただのいい加減ということになります。 もちろんいい加減に生きるのも人の自由ですが・・・ 人は、自由という言葉を履き違え、自分勝手なことまでも「俺の自由だから」と屁理屈を持ち出して、自分を正当化してしまいます。 しかし、理性を無視した自由はないのです。 死んで楽しい世界が待っているとか、死ぬことが苦しみからの逃げ道なら、みんなにむしろ積極的にそうするように働きかけるべきです。あるいは、そういう宗教を立ち上げるとか・・・ そうしないと、まるで宝物を自分だけが独り占めにしようとするような自己中人間の心理と変わりませんよね。 私が軽いといったのは、そこなんです! わかりもしない死をどうして淡い期待で捕らえることができるのか? 逃げ道??? 死が逃げ道??? 本気でそう思っているのだとしたら、お目出度いと思います。 人間の理性は、怪しいところには近づかせないとする働きがあります。 死はその最たるものです! 死んでからでないとわからないようなものに淡い期待や幻想を抱くのだとしたら、もはや自由を逸脱しています。 本気なら自殺のみなならず、他人もそうしてあげなければ・・・
補足
>「無駄なことを考える暇がないくらい一生懸命生きよ」という意味で 余裕がなくても、死を考えることが無駄だとは思いません。 生きるためでも、死ぬためであっても。 >それに、やはりおかしいのは、死を逃げ道だと期待したり、確信したりしていることです >つまり、自他共に殺すことを薦めることになるはずです。 逃げ道と期待しているわけではないです。 つらい時の逃げ道として、私は「死」も選択肢にあるだけです。 質問文の中にも記載しましたが、 「推奨もしない、賛成も反対もしない」というのが本当です。 >死んで楽しい世界が待っているとか、 そんなことは言っていません。 あるかもしれないし、ないかもしれない。 今より良いかもしれないし、悪いかもしれない。 だから、不安だし期待もあると言ったのです。 申し訳ありませんが、質問内容から反れているし 個人の意見を押し付けられるのが、この質問の目的ではありません。
- hyuuma8579
- ベストアンサー率29% (326/1097)
「死を選ぶ」・・・と簡単に言いますが、 順序として、死とは何かがわからないのに、どうしてそれを選べるのかが到底理解できません。 厳密に言えば、死後の世界があるのかどうか?あるならどのような世界なのか? 地獄のような世界なのか天国のような世界なのか?人によって同じなのか違うのか? などなど、不明な点がいっぱいありますよね。 それなのにどうして知りもしない死を選べるのかがはなはだ疑問です。 たとえば、生きるのに苦しいからといって死を選んだとして、死後の世界がもっと苦しかったらどうするのでしょう。そこでは、今度は死にもできやしないとしたら・・・ 生の苦しさからの逃げ道として死を選んでいいのは、それが本当に逃げ道になるという知識の前提が必要ですね。 普通は、死を恐れます!何故って死についてわからないし、わからないことには不安や恐怖がつきまとうからです。 「死というものが、こういうものだ」とわかっていたら、生きている間の行動も全く違うものになるはずです。 自分が天国に行けるとわかっていたら、それこそ今すぐ死んでも誰も異論はないでしょうし、予め天国に行けるとわかっている人からみたら、死は、最高の喜びをつかむ特権といってもいいのです。 その逆なら、愚か者もいいとこです。「わざわざ苦しむ世界を選ぶとは」と人からもばか扱いされてしまうのです。 死ぬ勇気という言い方もありますが、それが単なる無知ゆえの愚行となってしまうのです。 しかも、死と生の相関関係があるのかないのか、あるならどういう関係なのか、その関係からどういう生き方をしなければならないのかなどがわかれば、死を選んでいる場合じゃないってこともあるのです。 みなさん、わからない「死」を簡単に扱い過ぎています。 死を軽んずるということは、生き方も同様なのだと私は思います。生き方の軽さが死をも軽んじてしまうことに繋がっているのです。 よくわかりもしないのに、死を選ぶとか、死を考えるのはよしましょう。 自分に与えられた生を、何よりしっかり全うすべきだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >自分に与えられた生を、何よりしっかり全うすべきだと思います。 ごもっともです。 >死を考えるのはよしましょう。 すみません。 人はいつか死ぬのに、 別に考えることを辞める必要はないと思います。
補足
>厳密に言えば、死後の世界があるのかどうか? あるならどのような世界なのか? 分からないから、確かに不安です。 でも、分からないからこその期待みたいなものもあります。 何もなくても良いです。 私が「死を選ぶ」のは、現状から逃げることです。 向き合ったけれど、解決しなかった。 向き合うことに疲れた。もう嫌だ。 そうなった時、自分の逃げ道として「死」があります
依存心を捨てましょう。
補足
すみません、何に対してですか? 人や物、環境、全ての事ですか?
何も現世に未練がないのであれば、死を選ぶことも悪くはないと思います。 それだって、その人の選んだ人生ですので。 生きているというのは、自分で選ぶ自由を楽しむことではないかと思います。 未来に期待を持つことも、絶望することも、自由です。 私は、ここでこの先に見切りを付けたとして、ひょっとしてすごく楽しいことがあるかもしれない可能性が残っている限り、勿体ないなぁ~と思うので、生きる方を選んでいる感じです。 終わらせるのは簡単で、いつでも出来るし、苦しい時間は耐えたらそれなりに過ぎてゆく事も知っていますから。 あと、好きなミュージシャンが、「『生きてゆく』と言うことは、この先で俺たちの新曲が聴けるって事だよ?」と言ったのが効いてますね(笑)
お礼
回答ありがとうございます。 >ひょっとしてすごく楽しいことがあるかもしれない可能性が残っている限り、 勿体ないなぁ~と思う 確かに、もしかしたら、もしかしたら すごく楽しいことあるかもしれないですもんね。 生きていないと、それも分からない。 でも、あるか分からない「すごく楽しいこと」の為に 今、乗り越えようと思えるか、ですよね。 >あと、好きなミュージシャンが、 「『生きてゆく』と言うことは、この先で俺たちの新曲が聴けるって事だよ?」 と言ったのが効いてますね(笑) これ、面白いです。 解散したら、どうなるんだろう?とも思います(笑)
- Chocorly
- ベストアンサー率16% (10/61)
No.3です。補足に回答。 相手と意見が食い違ったとき、歩み寄りが不可能だと感じるのはおそらく以下の2パターンでしょう。 A.本当は歩み寄ることが可能だが、何らかの理由から歩み寄れないと思い込んでいる。 B.人生の根幹に関わることであり、妥協することで自分の人生が脅かされる。 Aの場合、相手とうまくやっていく気があるのなら、さっさと妥協点を探れば良いと思います。 Bの場合、相手は自分の人生を脅かす外敵だと認識し、そのような相手との接点を断ちましょう。 話はそれますが。 No.9の補足に「自分が有益になるということは、誰かに不利益を被るということですよね」とありますけど、このような考え方をあなたに植え付けた人物が諸悪の根源なのではないでしょうか。「あなたが自分にとって有益なことをすると不利益を被る人間」というのがいるとすれば、あなたの不幸を願っている人間だけだと思うのですが。
お礼
再度の回答、ありがとうございます。 >話はそれますが。 「自分が有益になるということは、誰かに不利益を被るということですよね」 という考えは、 今の自分が”利己的”を考えた時に、そういう答えになったので いつ、誰に、どういう関係の中で、どんなことを言われたから、 そういう考え方になったのかは分かりません。。。 >「あなたが自分にとって有益なことをすると不利益を被る人間」 というのがいるとすれば、あなたの不幸を願っている人間だけだと思うのですが。 「お前は有益なことはしてはいけない」と考えている人、 ということですか。 自分にとって有益なことが、 必ずしも、誰かに不利益を被ることには繋がらない。 ということなのかな。。。
補足
そうですね~。 ほぼAだと思いますが、 「本当は歩み寄ることが可能だが、何らかの理由から ”今はまだ”歩み寄れないと思い込んでいる」 と言ったところでしょうか。 じゃぁ、待てば良い。 でも、もう一方には、そんなに待ってられない。という考えがある。 そうすると、Bの「そのような相手との接点を断ちましょう。」に結びつきますか?
- rizakura
- ベストアンサー率31% (11/35)
No11です。 補足に答えます。 今まで生きているのは当然のことだったが、失いかけて初めて生きていることの幸運さ、すばらしさに気づいた、のだと思います。 「他人から見てどんなに不幸でも、『自分自信が幸せだと信じられる』それだけでいい」 とのようなことをよく言っていますよ。 私も使わせて貰っています。 彼も今では車椅子で散歩もしています。 今では「死にたくない」とよく言っていますよ。
お礼
再度の回答、ありがとうございます。 >『自分自信が幸せだと信じられる』それだけでいい こんな風に思える人は、本当に幸せなんでしょうね。 羨ましくも思います。
- rizakura
- ベストアンサー率31% (11/35)
私の知り合いに自殺未遂をした人がいるのですが、 その知り合いはがベッドから動くことも出来ず、リクライニングがなければ座ることも出来なかったのです。 その彼が、 「こうして食事が出来るだけで、最高に幸せだ。」 「今、人生で最高に幸せに感じる。生きているだけで幸せ。」 と、最高に幸せそうな笑顔で言っていました。 その言葉と笑顔は忘れないようにしよう、ずっと憶えていよう、と思いました。
お礼
回答ありがとうございます。 その方は、留まらなかったのですね。。 動くことができなかったのは、後遺症ですか? 確かに、普通に食事ができることは幸せかもしれません。
補足
>「今、人生で最高に幸せに感じる。生きているだけで幸せ。」 すみません、不謹慎かもしれません。 死んでいたらどうなったか分からないのに どうしてこんなことが言えるんだろう?と思うのです。。。
「大丈夫。」「待ってるよ。」「そういえば、来週○○があったよな、あれ一緒に行くか(死ぬ前なのに、わざと予定をつくろうとする)」などです。
お礼
回答ありがとうございます。 この言葉たちは、自分に言い聞かせる感じでしょうか。 先の予定を入れても、それは私には意味のないことだった(気持ちが変わらなかった)ので 違うかもしれません。。。 ただ、「待ってる」は良い気がします。 嘘つきたくないし、相手を裏切りたくはないです。
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お礼
回答ありがとうございます。 >自殺の仕方や死んだ後の家族を考えると怖くて悲しくて 自分は自殺できない人間なんだとその時思いました。 そうですよね。 なんか怖いし、何故か申し訳ない気持ちもまだありますよね。 私も、ここで思いとどまることが多いです。 その先まで考えてしまう時は 周りへの愛情が憎しみにまで変わってしまっていることがあります。 >綺麗な景色を見に行こう 行った事のない国に行ってみよう 高い金だしてやりたいことをやってみよう 意を決して人助けをあえてしてみよう これ、ずごく素敵ですね。 オーソドックスなやつだと 富士山からのご来光とか、屋久杉とか、そういうことで良いんですよね。 テレビで綺麗な海とかみると、あの国に行ってみたいって思います。