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論理的思考と意識

私は、物を考え創造するには、まず対象を分析しそれから発想が出ると思っていました。しかし、ある夢を見て自分の中にもう一人先行する意識があるのではないかと思うようになったのです。  その夢は、 ウレタン状の大きな四角いマット(縦横10mほど)その上部で十人程度のプロレスラーが2チームに別れて闘っている。マットの上辺には幅深さ1mほどの溝が中央を横断して掘られている。この溝を見て私は「何だろう?」とおもう。次ぎにカメラが変わり、プロレスラーの足元から見上げる角度になる。先ほどの溝はカメラのレールだった。と解する。・・・    この中で不思議なのは、マットの足元から見上げる位置にカメラを置くために、カメラレールを入れるというアイデアは分析と創造性が必要です。しかし、夢の中の私自身は、自分の脳味噌で考えたことにもかかわらず、その意味が理解していない、理解は後から追いついてくる。 あたかも、自分の意識以前に別の創造性を持った意識が先行して物事を考えている感じなのです。    これは意識をどのように解釈すればよいのでしょう。 単純に無意識のなせるワザというには高級すぎると思うのです。

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回答No.5

No.3です。 >言葉以前の体験とはかなり原初的なものではないでしょうか? >感覚的な物ではないのです。今キーボードを叩いている私以外 >に、同じ程度の分析力を持った何かが脳の中に存在するのです。 Gendlinの言う言葉以前の体験、「気持ちや体験の流れのようなもの」は、言葉とは全く違う次元の現象です。それ故、「分析力」を持っていませんし、(言語で表現されるような)意味も含まれていません。気持ちの流れや体験のようなものに注意を向け、それを言葉で表現しようとしたその時に、意味が生まれるのだと、Gendlinは言います。 たとえば、shizumoさんは、 >夢の中の私自身は、自分の脳味噌で考えたことにもかかわらず、 >その意味が理解していない、理解は後から追いついてくる。 と書かれています。「理解が後から追いついてくる」ということは、溝を見た瞬間は理解がなかったということになります。溝を見た瞬間にあったのは「溝のある光景(イメージ/視覚を中心として構成された感覚)」であり、理解ではありません。カメラが変わってプロレスラーの足下から見上げる角度になったときにあったのも、「下から見上げた光景(イメージ)」であり、そこには理解はありません。「溝はカメラのレールなんだ」という理解は、この二つの光景を順番に見たshizumoさんのこころの中に、その瞬間に生じたのです。 ・・・この話は、世間一般の時間に関する考え方からすると変な話なので理解しにくいものかも知れません。時間に対する一般的な考え方では、「過去に見た光景の中に意味があって、それが現在明らかになった」と考えます。つまり、「過去→現在」という流れです。しかし今私がここで説明しようとしているのは、「二つの光景を順番に見終わった後に、そこから遡って以前に見ていた光景の意味が生まれた」という時間の流れ、つまり「現在→過去」という時間の流れがあるのだという物事の受け止め方です。このような時間の流れは、「現在における解釈が過去を決定する(構成する)」ということを示しており、構成主義の考え方に近いものです。「現在→過去」という時間の流れがありうる(というか、厳密にはたぶんそれしかないと思いますが)という話は分かりにくいので、例を挙げます。あなたは以前Aさんと付き合っていたのですが、振られてしまいました。あなたは常々、そのことをふり返って、「悲しい出来事」と思っていたのですが、今朝のテレビで、AさんがDVであなたの後に付き合った人に重症を負わせたというニュースを見ました。ニュースを見た後あなたは、Aさんに振られたことを「助かった」と思うようになりました。・・・いかがでしょう。現在の状況によって、自分にとっての過去の意味は大きく変化しうるのが分かるでしょうか?過去には「意味」が含まれておらず、過去をふり返っている今この瞬間に「意味」が毎回新しく創造されているのです。 前述の通り、理解は後から生まれるという物事の理解方法があるとしても、その理解からすると、最初にshizumoさんがマットに掘られた溝を光景を見たのは何だったのかという問題はまだ残っています。後から「足下から見るためのカメラレールである」と理解するのに先立って、そのような理解が引き出されるような光景が、shizumoさんの意識のコントロールが及ばないところで展開されたことをどう理解すればいいのかという問題です。これは難しい問題ですが、動物(例えば犬)がどうやって生きているかを考えるとヒントになるかも知れません。犬は言葉を持っていないため、「考える」ことはしないし「理解」することもありません。でも、状況に応じて適切な行動を取ることができます。食べ物以外のものを食べませんし(ときどき草を食べたりはしますが)、自分より強い犬がやって来たらしっぽを下げます。「考える」とか「理解する」というような意識の働きがなくても、生き物は環境に対して適切に対応できるのです。恐らく人間も、意識の働きがないところで、いろんな作業をしていると思われます。意識の働かない部分で生じている環境との相互作用を、言葉を中心とした意識の働きによって解釈されるとき(構成されるとき)、創造的な意味として感じ取られるのではないでしょうか?

shizumo
質問者

お礼

実に興味深い考察です。時間の流れが意識の中では逆にも起こりえると言う説は大変面白いです。言葉と意味と意識の兼ね合いですね。それはまた理解する事とも違う。 意識とは何かと言う最大の謎ですね。 有り難うございました

その他の回答 (4)

回答No.4

まったくのシロウトなんですが。 自分も同じような経験があります。 論文を書いている時期だったんです。 ある日、夢の中に昔読んで、その存在さえ忘れていた本の一節が現れた。あ、これだ、と思った瞬間、目が覚めました。飛び起きて、本棚の奥の方で埃をかぶっていた本を出して、その場所を確認すると、やはりありました。確かにその視点を導入すると、パースペクティブの転換ができて、おもしろいものになる。 無意識のうちに記憶を探っていたんだなぁ、と思いました。 こんなありがたい無意識の働きは、あとにも先にもこのとき限りなのですが。 以来「夢」や「無意識」について興味を持って、何冊か本を読んだのですが、意識-無意識というのは、氷山の水の上に出ている部分と水中の部分のように、スパッと分かれたものではないことがわかった。 無意識というのは、単純に「意識されない」部分ではない。 意識をどう措定するかによって、無意識の定義も変わってきます。 フロイトは無意識を「隠されたもの」としたのに対して、ユングは「意識的な心理現象の中につねに顔を出」しているもの、そしてこの無意識への通路になるものが夢である、ととらえたようです。 ユングの考え方をごく雑ぱくに紹介すると、彼は、心には四つの機能がある、と考えた。 時計の12の位置に思考があるとすると、6の位置にあるのが感情、3の位置に直観があり、9の位置に感覚がある。 人は生まれながらにこのうちのどれかひとつが、分化、発達していると考えた。 このうち思考と感情は両立することができないから、思考が優勢機能として分化した人は、感情は劣等機能として、未分化のまま無意識に沈んでいる。そして、感覚か、直観が補助機能、として働いている、と考えたわけです。 たとえば論理的に考える思考タイプの人にとって、感情機能は未分化です。で、それが表れる時は、コントロールが効かず、爆発してしまったりする。つまり、外側から見て「感情的」な人は、むしろ感情タイプではないんです。意識だけではなく、無意識の部分も含めて、心全体をとらえようとしたところに特徴があると思います。 ここらあたりの考え方を糸口にしていくと、質問者さんの夢も、またおもしろく解釈できるのではないかと思うのですが。 自分が書いたことはごく浅い理解に留まったものなので、興味をお持ちでしたら、ぜひユングなどお読みください。また、誤った点、理解の不足している点があれば、どうかご指摘ください。

shizumo
質問者

お礼

有り難うございます。随分昔にユングは一度読みましたが、理解できませんでした。 改めて読んでみます。

回答No.3

はじめまして。shizumoさんは、とても面白い「問い」に気づかれましたね。これは心理学の問いであり、哲学の問いです。 Gendlin(ジェンドリン)という哲学者兼心理療法家が、1962年に、『Experiencing and the creation of meaning』という本でこの問題に一つの答えを出しています(邦訳は絶版ですが、筒井健雄訳、1993、『体験過程と意味の創造』、ぶっく東京、です)。 簡単に内容を紹介すると、人間には言葉以前に気持ちや体験の流れのようなものが存在し、その流れのようなものに照らし合わせながら、言葉が生まれてくる、というようなことを述べています。この、「気持ちや体験の流れの様なもの」とは、恋をしたときの“胸キュン”や、親しい人を亡くしたときの“胸を締めつけられるような感じ”、怒られたときの“身体が萎縮してしまうような感じ”などのことを指します。いま例にあげたような場面では、からだに感じられる感覚のようなものとして意識されることが多いのですが、よくよく注意を向けてみると、普段の生活の中でも、からだの感じとして結構感じられているものだということが分かると思います。日常で「胸に手を当てて考える」と言ったりすることがあるのは、からだの感じとして感じられている「気持ちや体験の流れのようなもの」に注意を向けて、それにぴったりあてはまるような言葉を探してみるということです。 人間には、言葉を中心とした意識の世界とは違った次元のものとして、からだで感じている気持ちや体験の流れのようなものがあり、後者に注意を向け、ぴったりな言葉を探し出していく過程が、新しいアイディアが創造されてくる過程であると、私は理解しています。 分かりにくければ、コメント下さい。私に分かる範囲で答えます。とことん追求したければ、前述のGendlinの本や、構成主義哲学の本を読んでみて下さい。

shizumo
質問者

お礼

下からの続きになります。 しかし、今回の夢は単に相互関連のない物を、結びつけた物ではないのです。機械を設計する場合、クランク軸と回転A軸が干渉するから、それを避けるためにL型クランク軸を使うことで、干渉を避ける。といった高次の計算と分析とによるものです。言葉以前の体験とはかなり原初的なものではないでしょうか?感覚的な物ではないのです。今キーボードを叩いている私以外に、同じ程度の分析力を持った何かが脳の中に存在するのです。この夢の場合、明らかに見ている私(今、キーボードを叩いている)は、溝とカメラの因果関係を知らずに見ていました。溝はカメラレールであると、結論はさきにあったにもかかわらず、です。 これはベンゼン環のヘビやミシンのやりの穴のあいた矛先と同じ物でもない気がします。

noname#5246
noname#5246
回答No.2

意識と切り離せないのが言葉だ、というのが 構造主義を経てきて分かってきたことです。 フロイトはそうした言語の問いが顕在化する以前に 夢判断というものから精神分析をしましたが、 とすると、夢には「言語」に制約を受けない部分があるといえるのかもしれません。 第一に、夢を認識するためには「眼が覚めてから」ものごとを 自分で意識して(言語を使って)総合していくしかありません。 (夢そのものを体験している最中は文字通り「夢中」) つまり夢の中のその現在というのは論理的思考というよりは 断片的な映像であって、 眼が覚めてから「あれはああいうことだったな」と結論付けてるのではないでしょうか。 いろいろ考えれば逆の方向で論じることも出来そうやね。

shizumo
質問者

お礼

下からの続きになりますが、通常の夢は脳の中で普通では関連づけのない幾つかの物を、「意識がないので」勝手に関連づけ目覚めてからの結論というのはわかります。「引き出しを開けると、玉子がたくさん詰まっていて、気がつくと海の上を歩いていた」というような例は、日常で、引き出しと玉子と海の上を歩く、はお互い関連性がありませんから、意識としてはあえてそれを関連づけることはありません。「無意識的」に関連がない物と見なしているのです。 LEM睡眠を楽しんでいたある時、奇妙な形をした宇宙船がビジュアルとしてでてきました。目を開けるとそのデザインの原因が分かりました。寝る前の視線上にあったもの、 机の上のカップ麺のカップ、やや後にあるうちわをさしたペン立て、離れたところにあるTシャツ、が混然と混じって、脳が宇宙船をかってにデザインしたのです。 通常、この三つは用途も種類も距離も離れているため、同格に扱うことはありません。しかし、意識のタガがとれたとき、第2の無意識が(第一の無意識は、この三者は相互関連がないと自動的に意志着せずとも、判断してくれる)三題話しのように、勝手に組み立ててしまうのです。

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.1

おはようございますshizumoさん。 そうですよね。僕もずっと不思議だなと思っていました。で、 最近読んだ本で知ったんですが、 僕らの脳ってのは、「勝手に考えてる」らしいんですよ。 「創造」といっても要は「何かと何かを組合わせる」ことですから、脳の得意分野です。 特に眠ってるときは邪魔(大量の入力もですが、それより意識{オレ}が邪魔?)が入らないから、仕事もはかどるのでしょう。 僕もよくそうゆう夢を見て、忘れないうちにノートに書き付けます。で、あとで読みかえすとしょうもないことが書いてあります・・・。

shizumo
質問者

お礼

私は寝入りの時に、ビジュアルが次々と浮かんできます。 (いわゆるLEM睡眠です)それはいつでも目を開けることができる状態で、ビジュアルを小声で説明することもできます。この状況では、勝手にイメージを出してくる脳と、それを客観的に見る私とが2者混在しています。 ビジュアルは決して私が制御している物ではありません。 この経験で、sowowさんの言う「脳が勝手に考えている」 というのはよくわかります。私は脳の暴走といってますが、今回経験した夢はちょっと違うのです。

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