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短歌の新旧仮名遣いについて
短歌では新旧仮名遣いの混同はいけないと言われていますが、その論拠がもうひとつわかりません。特に文語を新仮名で表記する場合、例えば、「閉づ」「恥づ」「出づ」なども「閉ず」「恥ず」「出ず」と表記するのが正しいことになりますが、それでいいでしょうか。辞書では文語イコール旧仮名遣いになっていると思いますが(「閉ず」などの言葉は載っていない)、短歌などの特殊事情でしょうか。根拠を教えてください。
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文章校正に詳しい高山盛次は、その著「赤いランプの終列車 私流・日本語探検」において「出づか出ずか」の項を立ててこの問題に触れています。 「この問題に関して朝日新聞は出づは文語体の動詞の下二段の終止形だから、現代仮名遣いを適用することはできないとする。 「待望の新刊出ず」という文は「ず」が否定の助動詞と受けとられるおそれがあるからだ。したがってこの場合は文語体の仮名遣いを守らなければならないという立場だ。 閉づなども閉ずと表記すると閉<とじ>ずと読まれるおそれがあり認めない。口語体の動詞には、出ず、閉ずは存在しないという考え方である」と語り、高島俊男「お言葉ですが…」の「「づ」を守る会」提唱に賛同しています。 ちなみに「岩波 漢語辞典」では、「出」の訓読みについて「でる・だす・いづ・いだす (名)いずる」として、終止形では索引でも「いづ」で立項してます。
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- OKAT
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「文語」と「口語」という使い分けには、わたしは反対です。「文語」とは書き言葉であり、「口語」は話し言葉を意味します。文語とは「古語」の意味で、「口語」は「現代語」の意味で使われるのが普通のようですから、今はその習慣に従っておきましょう。以上は前置きです。 「現代仮名遣い」の施行以後、「古語」では旧仮名遣いを用い、「現代語」では現代仮名遣いを使うのが普通になっています。 ただし、それ以前のことにも触れる必要があります。明治以後「小説」では「口語文体」が、二葉亭四迷などの努力によって成立しましたが、相変わらず旧仮名遣いが使用されていたのは、ご存じのとおりです。同様に「新体詩→現代詩」の世界でも「古文調」から「現代語」に変わっても仮名遣いは「旧」のままでした。短歌や俳句では、「伝統的」なものである故に当然古文体が多く、それはずいぶん長く続くことになります。 それが、現代仮名遣いが制定されてから、新聞雑誌は言うに及ばず、教育の世界も一変させたのです。たとえば、漱石や芥川の作品が教科書に採録される時、現代仮名遣い(当用漢字も)に直されました。一部この動きに反対した作家の中には、旧仮名遣いや旧漢字体で作品を書き続けた人もあり、文芸雑誌の中には、それを受け入れたものもありましたが、やがて流れに押されていくようになり、公式の文書や法律などが新たに作られる場合は現代仮名遣い・当用漢字に変わっていきました。天皇の詔勅も、ほぼ昭和21年5月3日を境に漢字カタカナ交じり文の漢文訓読体から漢字ひらかな交じり文に変化します。(ただし日本国憲法はすでにできあがっていたため旧仮名遣いです)法律文も明治に作られたものはそのまま漢文訓読調です。 さて、問題の短詩型文学ーとりわけ「短歌」では、古語(当然旧仮名遣い)から抜けきっていません。 例外的には、「サラダ記念日」などありますが、現代の代表的歌人、塚本邦雄の作品 王も王妃も生まざりしかばたそがれの浴場に白き老婆は游ぐ この「生まざりしかば」の部分は、完全に「古語」でその用法も「ざり」「しか」などの活用形が使われています。同様に、これは別の人の 在りし日の父母のこと思ひ出づ… のように「出づ」となるのは、全く問題ありません。「思ひ」「出づ」らの古語を「思い出ず」と書いては意味をなしません。 前置きが長い回答ですみません。
お礼
有り難うございます。このままこの問題は葬り去られてしまうかと思っていただけに嬉しく思いました。歴史的経緯についても教えていただき感謝です。ただ、古語は旧仮名で書くべきというご意見なのでしょうか、それなら現代語の部分は新仮名でということになりますが、そういうことでしょうか(短歌は一首の中に現代語も古語も混じるのが普通ですから、それだと当然新仮名旧仮名が混じることになりますね。現在の短歌界ではそれが認められていないのです)。 この問題についていつまでも拘るようですが、当方の疑問点は解消していません。繰り返すことになりますが、短歌では何故仮名遣い表記を同一作者の作品においては統一しなければいけないのか、ということです(本来「閉づ」という言葉である筈なのに、新仮名遣いの者はわざわざ「閉ず」と書かなければいけないのはなぜか、ということです)。 本欄のやりとりを踏まえた上で、専門歌人で、日本語に詳しい方の解答を切に望みます。
いろいろな考え方があると思いますが、私の考えを述べます。仮名遣いというのは、話し言葉ではなく書き言葉です。もちろん歌は音にもなります。そして音と字の関係で意味に奥行きが出てきます。この奥行きというのは整合性が必要なものです。字の使い方に整合性が必要なこととも関係してきます。下手なたとえをすればローマ字とひらがなを同時に使うような表記法だとほとんど奥行きがなくなってしまうことと同じです。新聞で読んだことですが、用字と発音がくいちがっているほうが意味が明確になるというような意見がありました。すこしづれるかもしれませんが、てにおはのをがおと書いてあったら大変読みにくくなることとも関係があることかと思います。繰り返しになりますが単なる発音記号は表記には使えないということではないかと思います。この意味で新仮名遣いは旧かな遣いより「浅い」という意見も成立するように思います。
お礼
有り難うございます。確かに「表記法」として一首の中にローマ字ひらがな等々の安易な混在が許されるということは大問題です。ただ単なる表記ではなく、「言葉」として一首の中にその表現の効果としてローマ字ひらがな等々が結果として混在することになることは大いにあり得るし良いこととも言えます。つまり「閉づ」なども単なる表記以前に「言葉」である筈ですから、大方の歌人は金科玉条のごとく仮名遣いは統一しなければならないとして、新仮名の一首では「閉ず」と表記しなければならないように言うのは筋が通らないように思われるのですが・・。「出づ」とすればいいものを、「出(で)ず」とも読めてしまう「出ず」を書くような結果にもなるのではないでしょうか。おっしゃるように新仮名は浅いということになるかも知れませんね。
- f272
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> つまり本来ダ行である筈のものが新仮名ではザ行になるという矛盾があるが、それでも新仮名の場合は「閉ず」と表記しなければいけないのか そのとおりです。それが現代仮名遣いですから。 > 仮名遣いの統一の重要性の根拠をお訊きしているわけです(単に「見苦しい」というようなことでなく)。 それは,本当に見苦しいということなんじゃないのかな。 突然,万葉仮名とかローマ字で書かれている文章が混じっていたらやっぱり違和感があるよね。それと同じことなんじゃなかろうか。
お礼
有り難うございます。「見苦しい」と言うことですが、短歌一首の中に言葉としても文語あり口語あり、表記としても漢字あり仮名(平仮名 片仮名)ありローマ字あり(時に外国語あり)、記号(・()「」等々)ありなのに、なぜ新仮名旧仮名についてだけは(例えば本来存在しない「閉ず」を使ってまで)統一しなければ「見苦しい」ことになるのか、どうもはっきりわかりません。
- bakansky
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> 「閉ず」などの言葉は載っていない そんなことはないと思います。手元にある国語辞典で 「閉じる」 を引いてみましたら、解釈の末尾に 「[文語] と・づ ダ上二」 と出ておりました (「角川国語辞典」 というハンディーな辞書です)。 「上二段活用」 なので、「ぢ ぢ づ づる づれ ぢよ」 となるようです。 「恥じる」 も同じで、「出る」 については 「出る」 で引くと、これは活用が異なっていて、「い・づ 下二」 とありましたから、「で で づ づる づれ でよ」 という活用。 短歌についてはあまり知識がありませんが、現代の短歌は現代の生活の中で現代人が詠むものであり、昔の 「和歌」 の形式を受け継いではいるものの、その内容は現代生活にマッチしたものであることを考えると、新仮名遣いで詠んでも、ちっとも構わないと思います。むしろ、和歌の詩形を用いた定型現代詩の1種であるとみなしてよいのではないでしょうか。 しかし、オリジナルが旧仮名遣い (というか、本来の日本語の仮名遣い) のものは、勝手に現代仮名遣いに直してしまうなどは、作者に対して失礼な振る舞いであるとは思います。 また、あくまでも古い仮名遣いをなさる方は、それはそのようなものとして、その意思は尊重されるべきだと考えます。 しかし、おっしゃるように、混合は見苦しいとは思います。 ご質問の趣旨を取り違えてしまっていたら、お詫びいたします。
お礼
早速有り難うございます。しかし当方の質問をもう一度読んでいただければ有り難く思います。「閉づ」は当然辞書にあります。「閉ず」という表記が辞書には無いと言っているのです。つまり本来ダ行である筈のものが新仮名ではザ行になるという矛盾があるが、それでも新仮名の場合は「閉ず」と表記しなければいけないのかとお訊きしているのです。そして、仮名遣いの統一の重要性の根拠をお訊きしているわけです(単に「見苦しい」というようなことでなく)。
お礼
明快なご回答ありがとうございます。否定の意に取られかねない「ず」は「づ」とする方がよい(というよりそうすべき)という論、ごもっともと思いました。改めて、新仮名遣いを設定したときの表音本則を見ると、「ぢ」「づ」を含む語は「じ」「ず」と表記するが、語意識の働く語彙については「ぢ」「づ」を許容する、となっているようですが、許容するでなく、そうすべきということですね。 更にハ行などについてはどうでしょうか。口語「訴える」「永らえる」などの文語「訴ふ」「永らふ」は、誤解される恐れはないので新仮名遣表記は「訴う」「永らう」としてよいということでしょうか、それとも新仮名表記の者もその部分については本来の古語の表記のとおり「訴ふ」「永らふ」とすべきということでしょうか(辞書には「訴う」「永らう」と表記する言葉はない)。いずれにしろ短歌は文語を基本としているわけだから、新仮名表記でとおすことには無理があるということになりそうですね。歌人の見解をぜひお聞きしたいと思います。