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自らを助く者だけを神が助けたがる理由は?
これじゃ信仰の価値もが感じられなくなりませんか?
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質問者が選んだベストアンサー
>>ふと気付いたのですが、若しかして、 「自ら」の語が指している対象を私は誤解しているのでしょうか? そうですね。たぶん、「ある神(たち)とそれを信じる信者」vs「無神論の人々」という図式で「自ら」は神と信者の双方をまとめて対象としていたのではないでしょうか? それが質問が進んだとき、前者をまとめて考えるのではなく、「神(たち)とその代理人である宗教専従者」vs「一般信徒」という図式の話に変わったのだと思います。 なお、この信仰心は、いろんなシーンで「試し」を受けます。妻が熱心に活動すると、夫は教祖に嫉妬したりしますし、経済的にもいわゆる「お布施」とかいろんな名目でお金が出てゆきます。私の友人も一千万円をお布施しましたが、さらに、それを毎年する方とか、桁の違うお布施をする方もいるようです。 まあ、そういう方たちの話をきくと、有名な神様とか守護霊との対話など神秘体験をされているようですので、本人は納得ずくでしょうが、それでも、親戚や家族から「家事をちゃんとしろ!子どもの面倒をみろ!俺が帰宅したとき家にいろ!」なんて言われたりしますからね。 なお、No.6さんへの補足の >>『「自らを助く」苦行を怠る人々にも、「大乗の舟」への搭乗の為の「解を分け隔てなく与え」てくれる』 という解釈で宜しいのでしょうか? これは「公平の原則」が適用されるはずです。怠けても努力しても同じ結果であれば、不公平ですよね。「大乗の舟」に搭乗はできるとしても、一等客室になるか、船底の三等客室になるかといった区別はあるでしょうね。
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in_go-ing です。 > 「勝利は相手の一時的な不調の御蔭で、敗北は自己の責任だ」という考え方にも通じますでしょうか? はい。『善事は神の所為、悪事は自己の所為』と同じことだと思います。 でも、勝った時くらい自分を褒めてやっても“罰”は当たらんでしょう。誰か忘れましたが、オリンピックの女子マラソンで「自分を褒めてやりたい」とか言ってましたよね。これを“驕り”とは言えないでしょう。へそ曲がりの私だって“褒めて”やりたくなりましたもの。 まぁ、『格言』や『箴言』、『教え』なんてそんなものです。自分で好きなように解釈して肝に刻めば良いだけです。
補足
有り難う御座います。納得出来ました。 『自らを助けた勝利者への「祝福」を、その勝利者が自分で自分に提供する』為に、「褒め言葉」を拵えてあげても、 たとえ他者達を非難しませんでしたら、良いのですね。
- toka
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No.1の補足見ました。 「自己の努力による成功の仕組みに気付いた、西洋近代的な自我の持ち主」であっても、老いや病気といった生命の危険を避けることは、できません。 そこに信仰の生まれる余地があります。信仰の助け(死んだ後にも何かが残ることを信じる)をもって老いや死を受け入れるのです。 そのような大きくかつ誰もが避けえない問題に対しては、神様は分け隔てなく解を与えます。
補足
有り難う御座います。 冷静に振り返りまして、私自身の解釈が多くの誤解を含んでいるのか、と思われましたので、此の貴重な機会に修正を致しませんと、勿体無いですから、追加の質問をさせて下さい。 『「自らを助く」苦行を怠る人々にも、 「大乗の舟」への搭乗の為の「解を分け隔てなく与え」てくれる』 という解釈で宜しいのでしょうか? 御教授を御願いします。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>>>『自己の努力による成功の仕組みに気付いた、西洋近代的な自我の持ち主達から、信仰心を提供させた理由は、一体何なのだ』と思われますでしょうか? >>つまり、現代人達もが何かに縋りたがる甘えの訳を、 私は尋ねております。 うーん・・、No.1の回答の補足では、神(あるいは代理人)の立場にあるものについての追加質問であり、No.4の補足では、我々人間の立場にあるものへの追加質問であって別の質問だと読めますよ。 まあ、それはおいといて。 現代人たちといいますが、日本人の多くは無神論者ではないですか?だから「現代人達もが何かに縋りたがる」というとき、「何か」はまず「お金」(生命保険?)がくるのではないでしょうか?そして、お金がどうしても足りないとか、お金で解決できない問題となったとき「困ったときの神だのみ」で「縋りたがる」のは、人間としてまあ普通のことではないかと思います。 また「なむ○○とか、毎日、何度もとなえておけば天国に行ける。救われる」的な他力本願の宗教もありますが、それは信者たちの知力が足りないとか、洗脳されているとか、怠け心にマッチするとか、いろいろだと思います。 なお、人間の力ではどうしようもないことは、いくつもあります。どんなにがんばっても昔の人間のように、千才を越えて生きることはできません。幸福の科学の祈願を受けたら、大きながん細胞が一夜にして消えるなどの奇蹟がよくあるわけですが、だからといって祈願したからといって200歳まで生きることはないし、祈願してもガンで死んでゆく信者さんもいますからね。 人生は諸行無常であり、昨日まで元気だった人が地震によるビルの倒壊で、もう今日は生きていないとか、日本という国はあったけど軍備拡張した中国軍に攻めとられ「2020年には日本という国は世界地図から消えてしまった」ということも大きな可能性のあることです。そして、そんな個人レベルの努力では、どうしようもないことに対して、神に縋るというか、祈る、他力に頼るのはこれも普通のことだと思います。
補足
すいません。仰る通りで主語が違いますね。 ふと気付いたのですが、若しかして、 「自ら」の語が指している対象を私は誤解しているのでしょうか? どう思われますでしょうか?
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>『自己の努力による成功の仕組みに気付いた、西洋近代的な自我の持ち主達から、信仰心を提供させた理由は、一体何なのだ』と思われますでしょうか? これはキリスト教の聖書でなんだかわけ分からなく記述されている「信仰」のことを指しているのでしょうか?あいにく私はキリスト教徒ではなく幸福の科学の信者です。そして、ナグ・ハマディ写本に書かれているように、イエス・キリストの事実上の妻が、高級娼婦であったマクダラのマリアであり、お互いに愛し合っていた仲だと思っています。(マクダラのマリアは高級娼婦だから高価な香油を入手できたのでしょうね)同胞でもあったグノーシス派を皆殺しにするような組織のいう「信仰」は現世利益っていう部分も多いように感じます。 つまり「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとする」という言葉がありますが、自分たちの組織が信徒に要求を押し付けるために「信仰心」という言葉を利用しているように思えます。 なお、私にとっての信仰とは、現在の科学では証明できない「あの世の存在」と「転生輪廻」つまりは「魂の永遠性」を信じることです。ただし、もっと科学が進歩すれば、霊界の存在が解明されて、それは信仰ではなく単なる事実に変わるのかもしれません。
補足
回答を賜り、誠に有り難いのですが、 追加質問の意図と食い違っております。 つまり、現代人達もが何かに縋りたがる甘えの訳を、 私は尋ねております。 従いまして、可能でしたら、もう少しの追加説明を御願いします。
> これじゃ信仰の価値もが感じられなくなりませんか? はい。もともとありません。十分“自助努力”したつもりでも「ダメなものはダメ」なんて経験はありませんか?「まだ足りないんだ」なんて言う人もいますが、対岸からじゃ分かりませんし、何とでも言えますね。結局“神様”に頼ろうという心がいけないということになります。だからそもそも“神様”は不要なのです。 『善事は神の所為、悪事は自己の所為』なのです。これは「良いことがあっても驕るな、悪いことは自己を省みて反省しろ」って事だと理解していますが、結局“神様”はそこには居ないのです。
補足
有り難う御座います。 私の拙い理解の矯正の為に伺わせて下さい。 「勝利は相手の一時的な不調の御蔭で、敗北は自己の責任だ」 という考え方にも通じますでしょうか? 回答を頂けると嬉しいです。
- Vwiyoonn
- ベストアンサー率35% (162/455)
神が必要としているものはなにかを考えればその理由がはっきりするでしょう。 神が求めているのはより多く、なおかつ深い自らへの信仰です。 と、なれば、「~だったらいいなァ」なんてぼんやり空を見上げて鼻くそほじってる輩(ああ、自分だ)と、目的をかなえるためにはいかなる労苦も厭わない。って人物のどちらの願いをかなえたほうが、神にとってより好ましい信者を獲得できるかといえば、後者であろうことは想像に難くないと思われます。 加えて、後者の願いが自力でかなった際、恩着せがましく自分の力あっての成功であるといいはることによって、より効率的に信仰心を高めることができる訳で、自らを助けようとする者にこそ神は信仰されたがっている訳です。 さらには、前者においては自分が怠惰な能無しであることをさしおいて、願いがかなわなければ神の能力が足りないせいだと神にとって痛いところをついた挙句、べつの神にのりかえたり拝金主義に転んだり挙句の果てには現代文明の安逸に溺れて「も、神なんて要らねんじゃね?」なんてほざくなんて具合に、神をないがしろにするのは火を見るより明らかですし、かといって気前よく願いをかなえたらかなえたで「んじゃ、さ、留守の間に部屋掃除しといてくんない?」なんて具合に際限なくつけあがり、神を後光のさしたルンバ程度に扱いかねず、そんな具合では良質な信仰を得られる可能性は低く、そうとなれば神としても「こいつを助けてもせいぜい三日手を合わせるのがいいトコだしなー」と、さしのべた手がひっこんでしまうのもむべなるかな、というところでしょう。
補足
有り難う御座います。 人間側の視点をも盛り込んで頂き、非常に分かりやすいです。 因みに追加で伺わせて下さい。 『物理的に同一の分量の精進を重ねても、元のスタートラインの位置が食い違っていましたら、遺憾乍ら必然的に結果(功徳?)の大きな格差が露顕しますが、妄想的な被害の責任を何処かへ転嫁したがる方々の無邪気な甘えを戒めませんと、 更なる悪化の恐れを払拭し難くなり得ますので、 其の展開の回避の為に、神からの皮肉な「えこ贔屓」の存在を自覚させている』 と考えていたのですが、誤っていますか?
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
怠けていて自業自得で苦しいことになった者を神は助けたいとは思わないでしょう。 質問者さんが神の立場であったなら、努力しないで苦しい立場になった人(アリとキリギリスの物語のキリギリスのような人)を救いますか? 怠けものばかりの世界になれば、神はその世界を滅ぼし、ゼロから再スタートさせるようです。
補足
有り難う御座います。 でも少しの疑問点が残りますから、追加で伺わせて下さい。 『自己の努力による成功の仕組みに気付いた、西洋近代的な自我の持ち主達から、信仰心を提供させた理由は、一体何なのだ』 と思われますでしょうか?
補足
有り難う御座います。 返事が酷く遅延しまして、申し訳が御座いませんでした。 御指摘の通りに、様々な回答を賜っている内に、 質問の本来的な動機を見失って、 違う方向の追加質問を出させて頂く展開に陥る、という可能性もが御座いますね。 投稿の前に十分な推敲を行ないたい、と考えてはいるのですが、 そもそも分からないが故の質問に留まっておりますので、 自分の意志を貫けませんから、重要な教訓になった、と思いますが、 「謙譲」の思想の文化圏で育ってきた日本人達にとりまして、 「主体的な判断の維持」は難しいのでしょうか? 締め括りに相応しい質問かと私が勝手に考えましたので、 御教授を賜れると幸いですから、宜しく御願い申し上げます。