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意識はあるが記憶がない状態と無意識は区別できるか
意識はあるがその場で認知した出来事を記憶することができなければ、後日その経験を思い出すことはできません。その状態は意識がない状態いわゆる無意識と区別ができるでしょうか。 もしできないとするなら、無意識とは記憶がない意識状態ともいえます。 例えば、生まれる前にあの世で生活していたとしても、あの世の経験は現世の脳にはインプットされていませんので記憶がないのは当然ですが、それはもしかすると記憶のない意識状態だったかもしれないとは言えないでしょうか。 だとすると出産(受精でもいいですが)と意識の発生のタイミングは必ずしもイコールとは言えないのではないでしょうか。 あくまで主観的にみた場合です。
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こんにちは。 >私にお風呂の中で意識があったかどうかを主観のみを用いて説明してみてください。 つまり1の 1,最初ぱちっと目が覚める、ただ景色が目に入ってきてそれがなにかという判断はない。未知のものとしての風景が見えてる状態。 といったつもりなんですが、書き方悪かったかも。これは主観を連想させる説明であって、そのものズバリじゃないですから。 ーーーーーーーーー もっともっとダイレクトに、限界まで主観的に言うなら「・・・」とでも書けます。これでいいでしょうか? ・・・が主観と思われるかどうか微妙ですが。 「てん」です。僕としてはこれが一番実感に近いですねー。でもそれこそ主観の表現なので、いろいろある気もしますが。 というかこう書くと身も蓋もないので、チョット言葉で説明してました。 ・・・をもうちょっと説明すると、意識と意識を中心に形成される自我は最小限の点にまで縮小後退し、無限小の小さな点として「意識が意識としてただある」という実感(あとから思い出せないところを思い出すと)、が近いので。 前に書いたように殆ど記憶もなく実感もないところをむりやりですが。 記憶のない状態を説明する、ということはひとつの矛盾で、成り立たない質問なので、余りあれこれ言うことはできません。 上の説明も、正確に言うなら、類推です、残念ながら。(情動的な類推というべきかも) ただ説明というのは、みんな知らずに擬似的なものをその正確な説明だ、と主張する風習が社会にあるので、本当の現実など決して説明できませんが、でも社会慣習に習っていうと、上のが主観的な説明です。 この類推を、人は主観と呼ぶので。 ーーーーーーーーー 主観という言葉の常識も無視して馬鹿みたいに正確に言うなら、お書きのように、その真っ最中は記憶がないので覚えてませんので何も言えません。上の説明も擬似的感想です。 それがあったら、みんな生まれる前を覚えてますし。 というかここの質問自体無意味なものになります。定義と質問内容が相反してるので。 主観でも客観でも、ドンピシャを言語的に表現するのは無理です。 脳ではそれは無理、とも言えると思います。 言葉は象徴、シンボルです。主観すらです。そのものズバリではないし、そのものズバリは、宗教用語などを除けば、言葉で表現されたことはないと思います。 だから宗教的な言葉には、体験しないと意味のわからない言葉が沢山あります。 自分の知る対象や、自分の一部分として脳で捉えられる状況の中には、質問されていることはそもそも含まれないと思うので。だから記憶が残らないわけですし。 言語表現の壁があります。主観は当然ながら、体験談ですから、経験したことがないもの記憶のないものは言葉にもなりません。 その前後の主観的変化を捉えたのが上の・・・になるんですが。点がまだあるだけ、この表現も偽物です。 また質問文の状況は、主観客観を超越した状況のはずなので、それを考えても、論理的な類推に頼るほうがいいと思うんですが。 すべての人間が受動的にこの状況に陥れば記憶を持てないのですから。 その記憶を失う状況では集中は高くても、その集中の高い世界を構成する意味が存在しないから(当の本人が知らないから)、自我も記憶も主観も客観も成り立たないのでー。
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- SakuraiTomoka
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『生前の不在を打ち消せる否定の根拠を、果たして生きた人々が掌握し得るのか否か』 という事情が重要なポイントになるのでしょうね。
お礼
残念ながらアインシュタインの等価原理のようにはいきませんでした。 また機会がありましたらお付き合いください。 ご回答ありがとうござました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.24小うるさい爺に懇暖にご対応、感謝します。 でも言語は私はどうしてもこだわります。それは多分、自分の人間性として表面のことや整理すること、そしてちゃんとしたことが大事なんでしょう。 そして生活体験が少ない、内容が割合として少ない。言語の外の世界を頼れない、おぼつかない。と思っているのだと思います。私がです。 記憶と意識。これは私もすごく関心があります。 意識は知覚と経験として意識され(明らかになり)、記憶としてと意識され(明らかになり)、蓄積されます。 意識は記憶であるということもいえそうですね。 記憶も、そして知覚と経験、ないしは行為などのない意識というのは、一部私たちにも想像がつくのでしょう。 しかし存在たる意識、「脳死」状態や意識混濁状態では存在たる意識はどうなっているか。 それは個々人という存在の性格の探求になると存じます。 それが私たちSelf-Realization Fellowshipというヒンドゥ哲理が伝えてきている実際の経験での知識です。 ですから無意識ってないのです。全ての内容物を取り去る、つまり無念無想で意識を意識するということになります。 内臓の動きもとっさの対応も意識は働いており、そういうところの意識が無意識だったという思いもあるのです。 大部分が海面下にあり、ほんの少し現象や知覚として水面に出ている氷山に類似しているのが意識だと存じます。 それは広大な存在だと存じます。 私たちのこの地上界経験での意識は水面の突端の意識経験の内容を私たちは意識があるとか、無意識だといっていると存じます。 しかも意識辞退よりも、むしろ意識の経験内容しかわからないままで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 最近、天気が良くて心地のいい日などに外を歩いていると、自分の精神?と春の空気感みたいなものが同じではないか、或いは同じであってもいいのではとふと思ったりします。 心の壁(私という自意識かも)みたいなものがすべて取っ払われた時、私は春の風になるのだろうかとポエジーなことを考えてみたりしてました。 その時、記憶はどんな意味を持つのだろうと思います。 それこそ私が存在しない時、記憶を蓄積する意味があるのか? もしかすると記憶というものがあまり意味を持たない世界(状態)があるのではないかと感じています。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#21 【普段のコミュニケーションにおいて】普段ということが問題でしょうね。普段にもいろいろな人のいろいろの場面あるでしょう。 【専門家としてその分野の言葉を適切に使えなければ評価が落ちる】のではなく、相手にならないだけです。 【この哲学的、宗教的な分野において言葉の厳密な定義は意味を成すのかと】思われるならばそれ以上は何も申し上げません。 【聖書を丸暗記】する人がいるのですか?でも研究しているとある程度は記憶に残りますので何かの時に聖書に戻ることができますね。私は西欧的聖書文化にはあまり馴染めませんが。 【聖書の丸暗記】とこのことばのしっかりした共通の意味の共有とはどういう関係があるのですか?そんな事は意味も何もどうでもいいことでしょう。誰が【布教活動でメシを食うつもり】なのですか? 【言葉を追いかければ追いかけるほど真理からは遠ざかる、と私の直感はのたまっております。】それは結構です。そういう側面もあります。無論私も論駁するつもりもありません。 【当分私はあいまいな言葉で皆さんを翻弄していきたいと思います。】どなたも翻弄はされないで、その人なりの意味にとってお相手するだけか、意味が通じないだけですね。
お礼
まぁ私はこれからも好き勝手にやらせていただきますので、気が向くときがあればまたお付き合いください。 ご回答ありがとうございました。
- SakuraiTomoka
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此の質問の全項目を拝見しましても、奇しくも、遺憾乍ら、 『質問者様が規定されている「意識」が何なのか』が明らかにはなっておりませんね。 「意識」という用語の使われ方にも多様性が含まれておりますので、 別の方が仰る内容から窺われます通りに、此の儘では収拾がつきません。 先ず、どの程度の情報を御存知でいらっしゃるのかを、 2つ前の方の箇所の補足欄へ入力なさると、 非常に有意義な回答を続けて頂けるのではないでしょうか? その際にも、御手数をお掛けしますが、明確な感謝の言葉を添えてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 普段当たり前のように使っている言葉、現象も見方によってはまるで違う見え方がしませんか? というのがこの質問の別の意図です。覚醒状態も条件次第では無意識になりうるんじゃないでしょうかという質問です。思考実験とはそういう意味です。 厳密な定義は辞書を引いていただければと思います。
- SakuraiTomoka
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『五感という別媒体からの情報を、同じ言語表現に置換させる』、という作業には、 途轍も無い分量の徒労が伴なうのでしょうが、 安易に諦めますと、新しい発明は続いていき難くなりますね。 ですから、より多くの方々に回答への参加を続けて頂きたいものですが、 質問の表現の更新をなさった方が捗る、という可能性もが予想されます。 従いまして、並行で関連の質問をも提出なさるのも、宜しいのではないでしょうか? 因みに此処の文章の中へもヒントを盛り込ませて頂いておりますから、考えてみて下さいませ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 このQ&Aで新たなお題を頂いていますので、そのうち自分の考えがまとまれば投稿したいと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.17では、shift-2007さんのコメントに誰でも思いつく事項を書きました。 20代大学の図書館に勤務しながら、江戸の職人とよく歓閑談しました。 プロとアマ: 55も上の方ですが家具職の彼にはかんなは217種、鋸も74種。 プロはここではこのかんなしか使わない。なんでも通用させてしまうのはプロではない。 そんなことをいいました。 図書館学と法学、そして社会福祉を勉強しました。 法学は当為による社会国家の規範です。 これは定義体系として矛盾がないということが建前(たてまえ)です。 正に日常言語は歴史と社会、思想と欲望の生物的生態ですが、法学は知と合理による定義体系です。 その中の用語一つも、素人が勝手に使うと馬鹿馬鹿しい意味になります。 十数年前からある国立の学部長をしている人も、法律の時効などのことばを時に使うことがあると、下らん奴だなと思わざるを得ませんでした。 道具と方便は違う。 道具を間違って(場違いに)使う者はど素人でしかない。 法律用語をそんなふうに使えば、その論文と主張は何の意味もなさない。 道具たる言語概念は疎かにするものではない。独自な使い方は結構だが、間違った、或いは曖昧な、或いは混同した使用は何の意味もない。 私も実は言語では今は思考や思索はしない。しかし多くの人の論文とか、このカテの登場者は言語で死甲の演繹をしている。 そこで言語を確固として意味なく使っていたら、致命的であります。 shift-2007さんにこう申して、もうあまりこのカテには登場しないことにしたいと存じます。 時折は登場しますが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 普段のコミュニケーションにおいて厳密な言葉の定義が問題になることはまずないでしょう。 犬と馬の区別がつかないとしても修正は簡単です。 定義が問題になるのはより専門的な領域においてだろうと思います。 専門家としてその分野の言葉を適切に使えなければ評価が落ちるだろうとは思います。 ただ、この哲学的、宗教的な分野において言葉の厳密な定義は意味を成すのかと私は思います。 聖書を丸暗記したところで大した意味もないでしょう。布教活動でメシを食うつもりもありませんし。 言葉を追いかければ追いかけるほど真理からは遠ざかる、と私の直感はのたまっております。 なので当分私はあいまいな言葉で皆さんを翻弄していきたいと思います。
- SakuraiTomoka
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16番の続きです。 率直に申します。 『「脳死」罹患者にも、意識は存在し得ません。』 つまり「間身体的」にしか意識さえもが成り立ち得ません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 意識という言葉の定義上はそうなのですが、知覚にあがってこない意識というものが恐らくあるだろうと思うのです。実際、脳科学的には意識を定義できていないようですから、ないとは断言できないと思います。
- sheep67
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追加です 3番目の答えのように、その記憶のない状態について返事できる人間が一人もこの世にいないのであれば、 風呂にいってる僕と、今これを書いてる僕は全くの別人だ、と言ってもいいと思います。 別人という言葉が正確かどうかはおいておいて、ニュアンスです。 だって体を共有しているだけで、他に何のかかわりもないんです、この2人は。 それは、同一人物だという証拠があるかと考えるなら、少なくとも主観的には何一つ無い、一切心情的にも意識的にも、全く一つもつながるものがない以上、記憶もなく何も覚えていない以上、 主観的には別人だ、と考えるのが、結構妥当なように思われます。 多重人格とも違いますが。 それは、違う人間・・・というとやはりちょっと違いますが、大は小を兼ねながら、大と小は同じではない別物だ、という、超越と内包の同時に成立している状態を直接に表現する言葉がないので、とりあえず違う人間、と表現します。 そんなイメージです。安っぽく言えば、違う人間です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私もよく夢の中で別人になることがありますので、私のアイデンティティーは途切れていると感じます。 精神と記憶を分けて考えることができるなら、例えばある人の精神だけが入れ替わった時、その人は別人といえるだろうか、記憶は同じなのだから客観的にも主観的にもアイデンティティーは疑いようがない。 なんてことを考えてしまいます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
その反面 太初にことばありき ことばは神とともにありき ことばは神なりき すべてのものはこれによりできた このことばに命がありき そしてこの命は人のひかりなりき 日本語でも 言霊(ことだま)という。 日常の現実生活でも 人の関係ではことばは非常に大切である、支離滅裂ではかかわりはできない。 方便は方便であるが、方便にもいろいろあり、ことばという方便を大切にしないわけにはいかない。 ことばには 音声、文字表現などとともに、内心の観念。そして無言のことばが存在する。 私もことばはメディアであり、方便であると存じますが大事にしております。
お礼
ごもっともです。 ご回答ありがとうございました。
- SakuraiTomoka
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再度の御邪魔を致します。 目に見せられていない場合にも、色彩は皮膚によって認識されていまして、 既に鍼灸の臨床現場で、其の現象が技術的に応用されております。 しかも人間の場合の展開と同じく、 言語記憶に関係せずとも、 動物達もが鍼灸治療に「適切な」反応を示してくれ得ます。 従いまして、たとえ言語記憶が伴なっておりませんでしても、 対象への意識に基づく行動は普通に叶っており、 其処から窺われます通りに、 『脳神経細胞叢が生きているからこそ、対象への意識が可能になり得る』 と言えましょう。 つまり『生前に「無意識」が存在していない』とは言い切りませんが、 『其の頃に「意識」が存在している必要性は無い』筈です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >目に見せられていない場合にも、色彩は皮膚によって認識されていまして、 >既に鍼灸の臨床現場で、其の現象が技術的に応用されております。 >しかも人間の場合の展開と同じく、 >言語記憶に関係せずとも、動物達もが鍼灸治療に「適切な」反応を示してくれ得ます。 ここまでは分かるのですが、 >対象への意識に基づく行動は普通に叶っており、 どうしてこういう結果になるのでしょう。 鍼灸と意識とは別の話ではないですか? >脳神経細胞叢が生きているからこそ、対象への意識が可能になり得る なぜこのような結論へ至るのでしょうか。 皮膚の反応と脳神経、意識があるないとは別の話ではないですか? >其の頃に「意識」が存在している必要性は無い 必要性というのもこれもまた別の話では?
お礼
記憶がないのだから言葉にしようがないですよね。 もともと文書化しろという方が無理なのです。 ただ、今回の質問の意図としては記憶がない状態の意識は無意識と区別がつかないということがはっきりすればそれでいいと思っています。 記憶が伴わない意識状態を想定できると考えているからこういう質問をするのですが、それはまぁ宗教的な体験領域の話なのでそれこそ主観でしか理解不能な領域でしょう。 いろいろお付き合いいただきありがとうございました。