ああ、わかります、ご友人の言うことも。
例えば、ご自分の一日を朝から晩まで文章にするとしたら、それは出来ますよね。では同じ事を家族の誰かについてしなければならないとしたらどうでしょう?どうしても何をしていたかわからない空白の時間が出来ますね。家族の場合は聞けばいいのですが、もう死んでしまっている歴史上の人物においては訊くわけにもいかない。
その部分で、小説家は空白という手法が(滅多に)使えないのに対して、学者が書くものは「それはまだわかっていない」ということは出来ます。小説家は空白に出来ない以上、何かを想像して・推理して・思考して書くしかないわけで、そこで「事実じゃない」ことが数多く存在する可能性があります。
おそらくご友人はそういうところがイヤなのでしょう。
わかる気もします。
わたしは歴史小説も好きですし、トンデモ本も実は好きなのですが、こういうものは頭に残りやすいですから「危険だな」と思うことがあります。小説にもいろいろあり、自分で力の及ぶ限り調べて事実に近づいていこうという姿勢の方もいますし、面白い思いつきに引きずられがちの方もいます。
小説だけを読んでいると「今一番確実とされているラインはどのあたりにあるのか」ということがわからなくなってしまうということはあると思います。
しかし一見事実のみを並べているように見える知識本でも、学者さんの意見もやっぱり想像(創造)の産物であることは同じなんですよね。
同じ資料を見ていても、解釈の違いというのはどうも大きいようですし。文献で見る立場、発掘物で見る立場、見方はいろいろあると思います。意外に事実っていうのは難しいんですよ。
なので、やはり一番いいのは小説も知識本もどっちも読むということではないでしょうか。
ご友人も……そういう風におっしゃっていると、知識本に書いてあることが全て事実だと思い込んでしまうことになるかもしれないし。
知識本だからって事実とは限りませんよ、とお伝えください。新しい資料が出たらひっくりかえってしまうものはいくらでもあると思います。そういうことに固執して、いい作品を読まずにいるのは勿体ないことかもしれません。
で、質問者さまも小説だけではなく、知識本もお読みになるとまた違った側面を知ることが出来て(小説には盛り込めない内容がきっとあると思います)、楽しいと思うのですが。
では失礼します(^^)/~~~。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 おっしゃる通り、小説本も知識本もどちらも読む事にします。 さまざまな内容を知ることが出来ますよね。 ありがとうございました。