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日本語とはどういう言語か
- 日本語とは、言葉の生成によって心の動きや世界の風景を表現する言語である。
- 日本語の特徴は、中心主題相と指定相・断定相の相の働きによって意味を表現することである。
- 日本語は、主題と論述から成る文を用いて意思を表現し、文法規則を遵守する言語である。
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又素人の感想です。質問、多少の弁明が含まれています。ご容赦を。 (1)音素の意義素で言語を論理的に解明される姿勢は 凄いとおもいます。論理的に解明するとは 公理が明確(定義)になってることは必須条件です。例えば それは公理が複数であれば 夫々独立でないといけません。 そこで 音素の意義が 言語の観測手段になっているか、少し危うい感じをうけます。音素の意義で 同定相と否定相、認定相と推定相、中心主題相と周縁相、指定相と人為相 は公理に反しているかもしれない と思います。あるいは認定相、同定相、不定相など抽象すぎて その中には多義的意味が含まれている 感じがします。あるは 展開されている意義素の系は他言語まで広がる と想定されていると理解しますが 例えば 英語との対応が取れているのでしょうか。 (2)日本語だけではなく 勿論 コミュニケーション言語は 主語はあるでしょう。ただ 話ことば書き言葉のなかでは主語が省かれている 語の場合は なにか そこに共通の背景があるのではないか という単純な思いです。勉強不足で申しわけありませんが、アルタイ語族は全て日本語と同様 主語なしでしょうか。 以上 大変失礼しました。
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ども、ちとヘソ曲げてました。 来るものは拒まず、去るものは追わず ではなかったか? なのになのに予告なしに 暮れに締め出されると… ハァ??? 我が身を顧みろといわれりゃ、文句も言えないけど…ブツブツ 「自己疎外的精神」 おっと、気をとりなおして 日本語とはどういう言語か。 「万能調味料」 http://vizlog.visualzoo.com/archives/2882 これで、どぢゃ。 PS 日本語と関係ない話だとおもう?
お礼
★ ハァ????? ☆ ヘェ? ★ 「万能調味料」 ☆ これだけでは分かりにくかった。 ◆ デリシャス・オン・ミート(「お肉にかけても美味しい」)から、オール・パーパス・シーズニング(「万能調味料」)へ。キッコーマンの海外「しょうゆ」事業展開。 ☆ せめてこれくらいの見出しを出して回答としていなくっちゃ。くちゃくちゃ。 りとうきすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ Q:《日本語》とかけて何と解く? A:ととのいました。――しょうゆ。 Q:そのこころは? A:お肉にかけても美味しい「万能調味料」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ブツブツ ☆ って文句言ってんぢゃん。 ★ 「自己疎外的精神」 ☆ うんにゃ。手抜きシェフぢゃわい。酒か? ★ 予告 ☆ はあったよ。あんたの中に。 ★ へそを曲げて ☆ もいたけれど こころざしが曲がってしまった。けっきょく日本人の社会は 無理が通れば道理が引っ込むで 道理を貫徹する者はきちがいに見なされてしまう。それもこれも 日本人の使っている日本語は 万能調味料であるゆえ。 おあとがよろしいようで。――お囃子が鳴る。・・・ * つまり さいしょに《こんにちは》と言ってあいさつしたときに そのハ格による主題提示をとおして互いのあいだに世界が世界として 全世界・全宇宙としてマ(間合い)がひろがる。万能調味料。 all-purpose seasoning 。富士山の日本晴れ。そのようでいてください。 ● 《 A-ハ B-ガ C-ナリ 。》 ○ こんにち‐ハ 〔お天気‐ガ よろしいようで〕。
- ok9608
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私は 言語学については 全くの素人です。感想を以下述べているだけですので議論にはならないと思います。 (1)Bragelonneさんの示されてます2重構造の部分が大きな特徴ではないか とおもうのです。三上章が示したように 日本語には 主題はあるのですが 主語がなくとも通用するのです。なぜ このような言語になったか 理由があると思います。外部とは比較的戦いもない社会とか 食糧にも困らない湿潤温暖な自然環境が影響しているとおもうのです。ことさら主語を明確に主張しなくともコミュニケーションがとれ、生延び得たのではないか、とおもうのです。このことが必然的に起きていくなら 日本語以外の アイヌ語 沖縄、台湾、ハワイあるいは マダガス島 などでも同様の答えは出ているのでないかと思うのですが。 (2)Bragelonneさんの提案されている、意義素を抽象的意味に対応させ 日本語の単語の由来、意味などを理解し 日本語の特徴、性格などを結論づける方法ですが 有効な手法であるためには 前提が必要かとおもうのです。 ・全ての意義素の抽象的意味は全ての言語の意味を網羅していることの証明がされていること ・一つの意義素は一つの抽象的意味に対応していること(多義にわたる意味、矛盾する意味 などは分析をあいまいにす るとか 矛盾を生ずる) まだ他にも前提条件はあるとおもうのですが、全てを示してもらえればより理 解が出来ると思います。 (3)取るに足らない特徴かも分かりませんが、日本語は敬語(尊敬語・謙譲語・丁寧語)の使い方が複雑ではないか と思います。過去最大遡っても2000年ほど前からと思いますが 天皇家を中心にそえた階層化社会を反映しているかもしれない と妄想しています。 (4) ソシュールの言語恣意説は全世界の言語が対象ということですが、これはBragelonneさんのように 一部分の否定が証明されれば 破綻します。しかし、その対象域を変更して言語は恣意説で説明できる部分もある、とします。すると恣意説派、反対波とも納得する人が多数でてくるのではないでしょうか。その逆も言えると思うのです。言語は必然説で説明できる部分もある、と。どちらも有益な説であって否定して葬りさるものではないとおもいます。 言語は 論理的に数学のごとく系の構築ができない と証明されない限り 論理的研究は続けるべきだと思います。しかし 部分的に有益な説がでれば 否定するのではなく ファイルにしまっておけばいいのではないか と思います。 (5) 文の場合、例えば 複数の文から成る小説のような場合 大部分は恣意的だと思います。人間の思考が恣意的であることを反映していると思うのです。単語は恣意的部分と必然的部分の混成とします。意義素は 必然的に抽象的な意味を持つとします。これはホモサピエンスまでの人科の獲得してきた歴史を示しているようにも感じます。最初の人科は 単語をもたない 意義素のコミュニケーションであって 次に必然的単語を獲得し、続いて恣意的単語を発明し 文法の獲得 恣意的文の獲得であります。類猿人とか 他の動物においてもあるレベルに達しているのではないか とも思います。すると意義素の解明は他動物とのコミュニケーションが取れる可能性を秘めているとなります。これらは私が勉強不足で知らないだけかもしれません。 以上 無意味なことを述べたかもしれません。お許しを。
お礼
なお 不定相/ t(d) / は 不定の相で何ものかを特定しています。 ご議論に沿って考えてまいります。 ★ 日本語には 主題はあるのですが 主語がなくとも通用するのです。 ☆ のっけから申し訳ないですが 主題を表わすだけではなく 主格を表わすかたちにもなっているわけですから 主語(主格となる文の成分)がないのではなく ときには省略されているということだと思います。 主格( S )と述格( V )との連絡は 文には必ずあります。(感嘆文でも 主題が特定されていて それが 暗黙の内にでも 主格語となります)。でなければ 意味が通じない表現となり 文ではなくなります。 三上章は 《象は鼻が長い》の文を例にして ハ格は 属格( genitive )としてのノ格に通じるということを言っていたと思います。その後発展させているか 定かでないことについては申し訳ありませんが ハ格は 主格にもなり得ますので ノ格のみだとは言い切れません。 ★ アイヌ語 沖縄、台湾、ハワイあるいは マダガスカル島 ☆ 沖縄語は 日本語の姉妹語です。同族です。アイヌは 明らかに言語類型がちがっています。(人類の始祖がつながっていて 言語として大きく同族ではないかと言われると困りますが)。 台湾の先住民の言葉やハワイはそしてあの遠く離れたマダガスカルも いわゆる南島語族(アウストロネシア)に属していると言われています。ハワイ・イースター島からインドネシア・フィリピン・マレーシァそしてマダガスカルまで広がっています。オーストラリアのアボリジニ―は 別系統のようです。 で このオーストロネシア語族が 日本文・韓国文の文型を保っているかと言えば 否とわたしの見る範囲では答えます。言いかえると 和文・韓文が原初のかたちを そのいわば非線形の文型において保ち 英文がいちばん線形的なかたちと成ってしまっていると見ます。その中間に世界の諸言語が位置するという見方です。線形的な文型――つまり S-V-O 形式のことですが――は けっきょく文に欠かせない意味連絡という基礎の部分のみを残したというかたちではないかと考えます。 ★ (3) 敬語 ☆ にかんしましては 文型の成立のあとだと見ますが 次のように――おっしゃるような趣旨において 《めし(見し⇒召し;召しあがる・飯など)》を例にとって――考えています。お手数ですが。 【Q:ほにゃらか形而左右学 敬語(2)】その回答No.9です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5771150.html ★ (4) ソシュールの言語恣意説は全世界の言語が対象ということですが、これはBragelonneさんのように 一部分の否定が証明されれば 破綻します。・・・ ☆ それでじゅうぶんだと思います。例外があれば それがなぜ如何にして例外であるかを証明しなければならないし その証明責任は 恣意性の説を提出した側にあるとわたしも考えます。 ★ その対象域を変更して言語は恣意説で説明できる部分もある、・・・言語は必然説で説明できる部分もある、と。どちらも有益な説であって否定して葬りさるものではないとおもいます。 ☆ 言語記号の恣意性の説は 全か無かです。恣意性を破る事例(語例)が一部としても有意に出れば それでおしまいです。なぜなら――丸山圭三郎によるとですが―― 動物が本能によって《身分け》して生きているのとあたかも同じように ヒトはその世界全体としてこの身分けを超えて今度は《言(こと)分け》して出現したのだと言います。その言葉は 基本的に(つまり擬音語・擬態語などを例外として)いっさいが恣意性のもとに(つまり 語はこの語とあの語との差異とその関係の構造のみから成るかたちで)出来たのだと言っていますから。 質問者の提出している仮説は ひとつにこのソシュール・丸山の説を批判することが目的であり あるいはほかにとすれば 《音素=意義素》という仮説が 全体にわたって・原初の言葉において あてはまるかどうか。ということになります。一つ目だけでじゅうぶんなのですが そのためにも 或る程度は基礎固めをしておくべきかと考えます。 ★ 5) 文の場合、・・・大部分は恣意的だと思います。・・・ ☆ この場合の《恣意的》がよく分かりませんでした。推し測って § 2の説明をおぎないます。 音素/ n / は 舌先を歯茎のところにつけて調音します。同じように発音する音素/ t / が歯茎に軽く舌先を添える程度に比べると ねちっこいかたちです。それゆえ 対象との同定をあらわし / t / のほうは 不定相になったでしょうか。/ r / は自由に舌を添えたりそらしたりします。
補足
ok9608 さん ご回答をありがとうございます。 必ずしもご議論の順序に沿わないかたちですが お応えしてまいります。 § 1. 文の生成(ことばの起こり) 次のように仮説します。初めは 発声の自己運動のごとくに・ただし己れの表わしたいこと(主題=T)を 次々と表出して行ったと。 ○ T1+T2+T3+・・・+Tn(=P)。 Tn が Tn(=P)というごとく・またそこで句点を打つというかたちになるというのは 主題(T)が 第一のそれ(Tn)から何かを問うというかたちになったところ おしまいに一つの答え(つまり論述=P となる主題=Tn)を出した。という意味になります。 ○ やま+と⇒ やまと 〔=場の特定〕 ○ やまと+は⇒ やまと‐ハ 〔=主題を提示しましたよ〕 ○ やまと‐ハ は(あは= Ah! / Oh! )〔=論述(答え)を出した〕 ○ やまとは は(愛)‐し。 〔=さらにシ(子音 / s / の意義は 指定相)で締めくくった〕 ⇒ 基本文型の成立:《A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。》文型 ○ やまと(A)‐ハ し(其)(B)‐ガ うるはし(C)。 § 2.子音における音素(≒シニフィアン)=意義素(≒シニフィエ)という仮説 2‐1. 母音のように声とならないかたちで 口のいろんな部位を使って調音する子音。(ただし いわゆる濁音になると 声に出る)。この子音の基本は ハァーッと吐いたり吸ったりする息の音 / h / とそれを喉の奥で緊張点をつくってさえぎるかたちで発出する音 / k / またその有声音(濁音) / g / のふたつです。あたかもハ行の子音は 天下泰平で カ行のそれは 反省家でもある異端児・反逆児です。 2‐2 順定相 / h / と反定相 / k / ・音素 / h( F )・b / = 意義素として(1)順出・順定相( ha ハ) ⇒(2)中心主題相(ha ハ=ハ格=中心主題を提示する格) ⇒(3)〔対極相〕副次主題取り立て相;周縁部分相(ha 端;he 辺・ヘ) ⇒(4)順出→頻出→反復・習慣相(hu 経; -hu(-bu) 倣‐フ・学‐ブ) ・音素 / k ・g /=(1)反出・反定相(ka カ‐;‐カ;彼;処) ⇒(2)関係主題相 (ga ガ=ハ格の提示する中心主題に関係する主題を取り出して提示する格) ⇒(3)反省・思考・疑問相(ka ‐カ〔疑問・詠嘆法〕;kä 気) ⇒(4)移行・変化・過程相(ku 来;yiku 行ク) これらの結果 全体として 意義素をともなうと仮定する子音組織は 次のようです。 2‐3 自然生成相 / r / と人為相 / s / ・/ r /:代理一般相:基本子音( h ・ k )を一般的に代理する ⇒(1)自然生成相:ha-ru 晴る;he-ru 辺る⇒減る;na-ru 名る⇒成る ⇒(2)親愛称の相:ha-ra はラ⇒原;aha-re あはれ; ka-re 彼れ ・/ s /:指定相(代理に非ず):基本子音をさらに特定して指定する ⇒(1)指定相: sa・si・sö 其;zö ゾ(=断定法) ⇒(2)人為相: su す(為);na-su 名す⇒為す;ko-saseru 来させる 2‐4 認定相 / m / と同定相 / n / と不定相 / t / ・認定相/ m /:ma⇒me 目;mi-ru 見る; mö⇒mi 身; mu-ku 向く; ahare-mu あはれむ ・同定相/ n /:(一般同定)na 名;na-ri 也;(聴覚で同定)ne 音; na-ku 鳴く・na-ru 鳴る;(同定から比定へ)ni-ru 似る; ma-na-bu まなぶ;na-ra-hu 名(似)らふ⇒倣ふ・習ふ ・同定の対極相=否定相 / n / :-na ‐な(禁止法);na-si 無し; nu ぬ(打ち消し法) ・不定相/ t /; ta・te 手;to-ru 手る⇒取る;ta 誰 2‐5 意義素の中身としてのひとつの相が その対極の相をもけっきょく同じ音素において担うという事態に注目することができます。 ・/ n /:同定相←→否定相 ・/ m /:認定相←→推定相 (nara-mu 成ら‐ム:推定相から 未来時相にも あるいは 意志相にもなりえた。意志相は 認定相と絡むか)。 ・/ h /:中心主題相(hi 日)←→周縁相(ha-si 端;he-ri 縁) (ho-ku 祝く←→ ho-ke 呆け・ぼけ)
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
新年早々、探求心旺盛なご質問者様に、感服する次第で御座います。 さて、質問の意図がさっぱり判らない者が、回答を書き込むのは、一種の「アラシ」のようなもので、本来控えるものでしょうが、新年のお屠蘇気分に免じて、本来の回答には当たらない書き込みをさせていただくことをご容赦下さい。 質問の中心は、言語ではなく、日本語の特徴ということのようですが、日本語の特殊性を知るためにも、言語一般の普遍性を確認する必要があるかと思います。確かに、日本語と英語・中国語では、脳内の使用範囲に若干の違いがあるとのことですから、日本語の特殊性は確かに探求の素材となることでしょう。しかし、それでも言語一般の普遍性を抑える必要性は、まったく重要性を無くすとは考えられません。 以下、四点ほど確認させていただきます。 1)個々の単語と、その意味することは、一対一の対応で、ソシュールの言葉を借りると、コインの裏表のように繋がっていると、お考えでしょうか。 そうでなければ、個々の単語と意味の関係を探求しても、たいした結果は得られないでしょう。しかし、個々の単語が、違う文節に置かれると、違う意味になることが説明できませんし、この事は色々な言語で頻繁に起こることです。 2)1)と関連しますが、言葉の音自体に意味を喚起する内容があるとお考えですか。 此処でもソシュールの表現を借りれば、「言語の恣意性」どの程度で、肯定されるのか、否定されるのか、と言う事です。 否定の程度が低ければ、歴史を通じて、個々の言語、そして日本語が変化していくことが、説明できないのではないでしょうか。 3)文法に関して、文法は、言語を生成させる場合に、物理法則同様の影響を与えて、言語を形成してきたとお考えでしょうか。私見では、文法とは、出来上がった言語を後からそれらしく解釈したものではないかと思います。ここにも確かに程度の差はあって、ちょうど個々の単語があまりにも長くなりすぎないのと同様、選択されるか、排除されるかの要素として、文法が言語の形成に関わったとしても、それは文法というより、分かりやすいかどうかの経済性のような気がします。ご質問者様は、文法をどうお考えですか。 4)言語と一般的に表現しますが、話される言葉と、かかれる文字についての違いに関して、どのようにお考えでしょうか。日本語の特殊性とは、話されることか、書かれる文字のことか区別されていますか。 これを区別しないと、耳から聞こえる音と、目で見る文字が、どのようにして同じ意味として一致するのか説明できませんし、同じ起源を持っているとは、歴史的事実からみても考えられません。猿の鳴き声にまでさかのぼらなくとも、文字の歴史は、高々5,000年ですが、音の歴史になると、一説では、400万年、一番少ないものでも、10万年ですから。 さて、ここまで書きたいことを書き綴ってきましたが、この一年、私も言葉をどのように覚えるのか知りたくて、ラジオやネットを通じて、外国語に挑戦していました。外国語を勉強するのではなく、母国語を覚えるように、外国語をできる限り聞こえる環境をつくってきたわけです。覚えやすい言葉は、やはり、頻繁に使われる言葉ですが、それ以外には、微妙な違いで、意味が繋がる言葉も、ある意味頻繁に反復される言葉と同様記憶しやすいようです。子供のように柔軟な頭なら、すでに話せるようになっているのかもしれませんが、年寄りの固い頭では、少しも上達しないのが悩みの種ですね。 そういえば、以前から、カタカナ語がなぜ覚えにくいのかも、今回の実験で理解出来ましたし、英語の接頭語や接尾語を覚えると習得に役立つ理由も分かったような気がします。それと、もともと話し言葉にある動詞と、外来語の関係は、中国語と日本語の関係を理解する上では役立ちそうな気がしました。 改めて、書いた文章を校正すると、問題点が沢山出てきそうで切りがありません、書きたいことを書き込んだだけですので、御礼は不要です。今後とも、探求頑張ってください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづ 趣旨説明に次のような音素の持つ特徴を おぎなっておきます。ご批判への答えにもなるからです。 ☆☆ 趣旨説明へのおぎない ~~~~~~~~~~ 1. 音素の / r / は自然生成相という意義素でもあると仮定している。 ひとつには 親愛称の相となる。 ・奈良・野良のラ。 ・我れ・彼れのレ 我れらのラなど。 2. 真秀ろばのバは マの転と考えられる。 3. 息の音でもある音素の / h / :中心主題相である。 3-1.その主題相が主観においてよろこばしいものとして認定される場合: ・秀(ほ)‐出(い)で⇒秀(ひい)で。 ・ほ‐め⇒褒め。 ・ほ‐き⇒こと(言)祝(ほ)ぎ=寿(ことぶき)。 ・ほこ‐り(誇り)。 3-2. 同じく / h / :中立としての中心主題相の場合: ・ほ-り(欲り);ほり-す⇒ほっす(欲す)。 ・は‐ゆ(生ゆ=生える・映える・栄える) 4. / ’/ (=ア行の子音。無しですがあると仮定して。)=自称相: ・’a-ri 有リ。 ・’oenoe-oenoe 己。 ・’oehoe オホ(大・多); ・・〔その動詞化⇒〕 ’oehu 生フ(=大きくなる) ’oyu 老ユ(老いる)⇒ ’oya 親 (註) oe は / オ / と / ウ / との中間の音です。 o Umlaut です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 次の批判点についてです。 ★ 1)個々の単語と、その意味することは、一対一の対応で、ソシュールの言葉を借りると、コインの裏表のように繋がっていると、お考えでしょうか。 ☆ すなわち 《語と語義との対応》では必ずしもなく 音素=意義素 つまり音素がすでに何らかの意義を持つという仮説です。 いただいた批判点については けっきょくこの《言語記号の恣意性》説に対して反証することから始まると思われます。ので よく出す語例ですが かかげます。 ナ行のひと音とカ行(ガ行)のひと音との組み合わせは どういう意義素の組合せになるか? / nVgV / ( V は母音のこと)という《形態素》になるわけですが その音韻の秘密はいかに? ここで / n / は否定相をにない / k ( g ) / は 変化移行ないし過程の相という仮定です。《否定と変化》とは 《消滅》ということです。けっきょく実際の語例では 《障害の消滅ないし除去》という意味合いを帯びるのですが 《障害》という部分は 文脈だとか情況から付け足されてくる意味であり 音韻じたいにはないものです。ではどうぞ。 (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・ 心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・ これが消滅する というシニフィエ(意味)となっている) (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) どうでしたか? シニフィアン(≒音素)とシニフィエ(≒意義素)とのあいだに必然的なつながりがありますよね? / nVgV / =《障害の除去ないし消滅》という相認識。 もし投稿を続けられるようでしたら 前回に中断したところから始めるのがいちばんよいでしょう。 【Q:name と名前 は同じ発想か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5761266.html そのNo.12でのやり取りからふたたび始めるというのが いちばん生産的であろうと考えます。
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日本文の二重構造について おぎないます。 ○ 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。》文型 _______________________________ ・文型:《 A-ハ B-ガ C-ナリ 。》 ・内容:中心主題‐ハ格 関係主題‐ガ格 論述主題‐法活用(断定法) ・文例:やまと‐は 〔すがた‐が〕 ま秀ろば‐なり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・文型:《 A-ハ B-ガ C-スル 。》 ・文例:やまと‐は ひとびと‐が まほろばと呼んだ。 ・内容分析 ⇒(α)主題層: 《やまとと言えば その昔そこに住むひとびとは その山々のすがたを めでて まほろばと呼んでいた。》 :(文型として:主題を次々に提示しつつ文をつくるかたち。 第一中心主題=ハ格。関係第二主題=ガ格・・・とつづく。) ⇒(β)論理層(意味の連関として言いかえると): やまと‐ヲ ひとびと‐ハ(/‐ガ) まほろばと呼んだ。 : O(対格)・・・S(主格)・・・・・・・・・V(述格・動詞) ( People(S) called(V) Yamato(O) " mahoroba "(Compliment). ) :(文型として:S-V-O の直線のかたちで意味の連絡を示すかたち。 主題ごとの連絡を すべて V(論述格)に収れんさせるかたち)。 ⇒(α+β):やまと‐ハ やまと‐ヲ 人びと‐ガ・・・と呼んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 中心主題を提示するハ格は 自動詞(この例では ‐ナリ)に対応して 主格( S )にもなれば 他動詞(同じく 呼ぶ)に対応して 対格( O )にもなる。すなわち つねにこの対応の潜在性を持つので 二重構造をやどしている。 ☆ ほかの仕方で説明をします。 【J】 《 A-ハ B-ガ C-ナリ 。》 とき‐ハ 〔とき‐ガ〕 金‐なり。 (《 A-ハ B-ガ C-ナリ 。》の文型の中に 《 S-V-O. もしくは S-V-Compliment. の文型を宿す)。 【F】 《 A‐ハ ――――――――――― 》(≒主題層) 《 ・・・/ S V Compliment.》(=論理層) Le temps, c'est de l'argent. (英逐語訳: The time, it-is money. ) (《とき それは 金なり。》というかたちで言っている。《とき》と 《それは》とのあいだに 或る種の断層があるかに感じる。それは それが 日本文に見られる二重構造の痕跡であるようだ)。 【E】 《 S V Compliment. 》(=論理表示層) Time is money. (意味連絡の直線一本であるようなかたちだ)。 ☆ 英文についてただし書きがあります。じつは 動詞の《 V : is 》は 実際にはもともと 《 it-is 》というかたちであり すでに主格( it )を持つものです。 【E‐a 】 Time it-is money. と言っています。だとすれば 仏文【F】のように二重構造の痕跡をさらに薄いかたちで残していると言えるのかも知れません。《 Time 》と《 is ( it-is ) 》の間に 一呼吸を置くと そこに或る種の断層が出来るでしょうか? ところが何はさておき 日本文では 主題を提示する層(α)と論理を表示する層(β)との二重構造をそっくりそのまま保つかたちで その言葉が話されている。こう言えるのではないでしょうか。(この二重構造をよく保つ言語は 世界でも あとは韓国語くらいであるようです)。言いかえると 直線的な論理形式の一本に収れんして行った英文とそして日本文および韓国文とのあいだに さまざまな中間の形態が 言語によって かたちづくられている。世界の諸言語における日本語の位置は こう想像されます。
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お礼
この要請にこたえられる言語と 応えられない言語とがあるようです。あるいは 一部分では応えることができる言語というかたちです。 ツングース諸語やチュルク系の諸言語 つまりアルタイ系と言われる諸言語ですが 申し訳ないですが すぐに思い出せません。分かっていることは 日本語ないし朝鮮語がいちばんゆるいと言いますか 柔軟性があると思います。 あるいは別様に言えば 主格( S )‐対格( O )‐述格( V )の意味連絡が 語順によって(つまりさらに言えば英語のように語順のみによって)決められているなら 文の成分の省略は きわめてむつかしいように考えられます。 主題提示という性格を削り落してしまったからだと考えます。 Paul hits Peter. Peter hits Paul. もちろん二つの文は意味が違います。ところが 日本文では 主題を提示するという性格を保っているので パウロ‐が / ペテロ‐を ペテロ‐が / パウロ‐を といったそれぞれ一つだけの語句(つまり 主題提示)で話しを済ませられます。つまり主語が分かっていれば ペテロを打つ。 // パウロを打つ。 といった主語抜きにもなれます。 言語家族という見方は もうわたしはあまりしていません。言語の系統論という言い方もします分野ですが この語族の内部でも ずいぶん違いがあるようだからです。もしくは 語族と言っても その中の諸言語の違いの仕方が 同じではないと分かって あまり強固な集団としての単位体ではないようだと知ったからです。 その理由の説明は 次に書きました。込み入っています。 【Q:手本の対義語】その回答No.14&16 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5168258.html アルタイ語族などについて要領をえなかったかと思いますが 以上のように考えています。
補足
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1‐a ) 同じ音素が互いに対極の相を同時に帯びるのは なにゆえか? 音素/ n /が同定相を帯びていると同時に 対極なる否定相をも帯びるという事態について次のように考えます。 たとえばAという人が外出するとき代わりに留守番する人(=Bとします)のことを もともとは 《留守》と言いました。つまりこの留守という語は 留守番係であるBの存在を同定していた。ところがB の存在の同定は Aの不在つまりその在宅の否定を含意すると見たからでしょうか けっきょく その含意のほうを意味するようになった。このような事例によって 説明されうるかと考えます。 言語習慣とは そういうものだという捉え方です。 或るモノを《 na 名》というふうに同定していたところ どういうわけか その《名》で表わされるもの以外の対象がむろん名以外のものとして同定されて さらにそのあと この初めの《名》としての対象が 否定されるかたちに転じてしまった。それが 《 na 無》であると。 ただしたとえば 《そうだ‐ね》とか 《いい‐なぁ》というときの 《ね ne 》 や 《な na 》 は もともとの同定相によるものと考えられます。同定して いわば相手や自分に対して 念を押している相を表わす。 つまりだから 念押し法の《na な・なぁ ;ne ね・ねぇ ;no の・のぉ 》 だと考えられる反面でしかも その対極の 禁止法(する‐な!)や疑問法(する‐の?)の用法にもなります。 (1‐b ) 日本語とそれ以外の言語との対照は どうなっているか? 挙げようと思えば 一部分において例証できますが これは わたしは途中でストップしてしまいました。わたくしの世代では 愛嬌で言っていればよいと思ったのでした。いまは出来るだけ基礎固めだけはしておきたい気持ちはあります。 / n /は 英語 name(名 na )や number(数値;日本語 値 ne))あるいは no / not(日本語:ぬ=打ち消し法)のようにあたかも対応するかのように現われる例があります。 完了(過去時相)は go - went - gone のごとく活用するとき 子音として / t / か / n / が担います。言おうと思えば 冬が来タの / t / と夏は来ヌの / n / です。こじつけるなら / t / は不定相として 放出の相を派生させ 手放したという意味合いが 完了の相を担ったでしょうか。 / n / は 否定相ですから 過ぎ去った相に当てられたのでしょうか。 もうひとつ条件として 日本語以外の言語では 音韻変化を大きくこうむっていると見られます。変な例で話すなら 日本語のやまと yamato から > yama-n-to > ymanto > maunto > mount のごとく(これは でたらめですが)成り得るかと思うほどです。 スペインで訛った日本語で ミレ と言えば 相手は見てくれるはずです。mire ないし mirar (見る)という語です。英語の mirror 鏡や admire (そこを見る⇒称える) mirage 蜃気楼 miracle などと同じ語根で 子音としては / m /=認定相を言いたいのですが どうもこういう例示をあまり調べる気になりません。仏語も英語も その語根を《見る》には使っておらず つまり《見る》といった基礎語彙でも変化があるようだからです。 (2)文の成分を省略するとは どういう事態か? 文の生成は 主題( T )を一つひとつ言い出して行くというかたちからだと仮説します。最後に論述のための主題( Tn = P )を言って――そこでひとまとまりの思想が言い終えられることによって――締めくくられます。 ○ T1+T2+T3+・・・+Tn(=P)。 あるいは言いかえると まづ初めは 自問自答のかたちだったかも知れません。 ○ やまと‐ハ? ● やまとはって? ○ いや やまとは どうなんだ? ● いや そりゃあ いいところだよ。 ○ どういいんだい? ● そりゃあ 国のまほろばって言うから。・・・ ○ ・・・ すなわち 主語なら主語の省略というのは すでに分かっている場合にそれをもう言わないだけではなく 主語にせよ目的語にせよ述語にせよ それらの文の成分を あくまで主題としてポーンと一つひとつ言い起こして 文をかたちづくるからだと思われます。言わずに済ませるだけではなく 尋ねられている主題の成分をとりわけ伝えたいという要請があってのことだと考えられます。