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親の生き方について。
親の生き方が未だに定まりません。それに対して、怒りを通り越して悲しくなってしまいます。 私の母は、私が7歳のころ、父と離婚し、それから私と、私の4つ下の弟を女手一つで必死で育ててきました。母はよく愚痴を言ったりしていましたが、女手一つで育てる覚悟をしてくれたことに感謝の気持ちを持っていましたし、生活を支える大変さや苦労は計り知れないという思いから、育ててもらっていることそれ自体を有り難く思っていましたので、多少の愚痴くらい、聞いてあげるのが家族として当然だと思ってもいました。 しかしながら、そのような私たちの想いや、母の状況を踏まえても、母の愚痴は、常に不平不満を言っているように私たちには聞こえるようになり、時には、「あんたたちがいなければ、私はもっと楽に生きれたかもね。」とか、「私は一人で必死に生きている!がんばっている!」とか、確かにその通りかもしれませんが、聞いている私たち子供にとっては、さすがにちょっと傷つくなあ・・・とか、私たちはがんばっていないのかなあ・・・と感じることもたびたびありました。(愚痴はもちろん、ここでは書ききれないほどたくさんありますし、もっとひどいものもありました) 父が飲む・打つ・買うの人でしたので、母はたくさんの苦労をしてきました。それも理解しているつもりです。ですが、父が居なくなってさみしい思いをしたり、不安に思ったり等、子供は子供として、母一人という家庭の中でたくさんの想いを経験してきました。(厳密に言うと、祖母が家事などの家庭内のことを代行してくれていましたので、母はその点は安心して働けていたので、本当に一人で頑張ってきたわけではありません。男性の存在も、ほぼ耐えることなくありました。)言葉は時に言いすぎることもありますし、言葉尻だけを取って腹を立てているわけではありません。 ただ、母の口から出る愚痴は一貫して、「自分だけが苦労し、自分だけが頑張ってきた。あんたたちが何をしてくれたの?心配はもちろんしてくれたけれど、何かしてくれたわけでもなく、私のしたことに責任を取ってくれたわけでもない。」という表現に私たちきょうだいには聞こえます。 母の生き方については、いまさら諭すつもりはなかったのですが、私たち二人が成人し独立した今でも、母が不倫をしていたり、金銭的にも不安定な生活を送っていたりと、人生を生き方定めることなくいること、さらに昔とさほど変わらない内容の愚痴を言うことが、私はたまらなく腹が立つのです。 私も思春期の頃は、そんな母にさんざん反発し、親を責めて来ました。ただそれによって何も得られるものはありませんでしたし、自分がさらに苦しく、悲しくなるだけでした。親の生き方を改めるなどすべきでないし、出来ないし、したくないという結論に達してからは、自分がその生き方をどう思うか否かは別にして、反論することはやめようと決めていました。 しかし、こないだいつものように母の愚痴を聞いていたら、私も酔っていたせいか、感情がコントロールできなくなり、思っていることを全部吐き出してしまいました。母は完全に拗ねてしまいました。 私はその生き方が過去のことならまだいいと思います。私は過去を許すために、過去に向き合うことができます。ただ、未だにそれが過去になっていない。むしろ、現在進行形ということは、私は過去と現在、両方に向き合わなければなりません。本当は許せないことが、現在も進行形で続いているのです。 それを見守り続けなければならない子供の想いを、母は知る由もありませんし、母の幸せのためにという視点で何度訴えても、「あんたたちはまだ責めるんか?」と聞く耳を持ちません。その部分においては、医意思の疎通が図れないのです。もちろん、親にそんなことを言う私の方が間違っているのは分かっています。 ただ、正直、もう辛いです。そんな母の生き方を見るのも、その生き方が導く人生の愚痴を聞くのもうんざりします。縁を切るわけにいかない親子の関係というのは難しいです。自分が生きたいという生き方と、母との生き方はなかなか相いれません。母の生き方とは本来、関係の無いものかもしれませんが、私は未だに母の生き方からくる考え方に強く影響され、情緒面が著しく乱れます。 親のことを、これからどのように捉えていけばよいのか、この年になっても正直分かりません。聞きたくない愚痴。見たくない人生。未だに続いています。どのように考えれば、私は楽になるでしょうか。何かいい視点があれば、ご意見いただけるとありがたいです。
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お礼
回答ありがとうございました。おっしゃる通りのことを思って生きてきました。 ただ、母が聖人でないのと同様に、私も聖人ではないのです。混乱してしまうだけの背景があります。 私の人格は別だとは、見てもらえない人生を30年近く送ってきたのですから。母によって。