《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?
ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう?
▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13
・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.
・μείζονα ταύτης ἀγάπην οὐδεὶς ἔχει ἵνα τις τὴν ψυχὴν αὐτοῦ θῇ ὑπὲρ τῶν φίλων αὐτοῦ
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問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。
(1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか?
(1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか?
(1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか?
(1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか?
(2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)
(3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか?
(3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。
すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。
これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。
(3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。
▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11
・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep.
・ Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός ὁ ποιμὴν ὁ καλὸς τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν ὑπὲρ τῶν προβάτων
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☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど 《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν ψυχὴν αὐτοῦ τίθησιν )で同じく表わされている。
よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか?
(3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。
▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。
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☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか?
(3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか?
▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~
イエスは答えられた。
「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν ψυχήν σου θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ) と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
(3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか?
▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~
わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι τὴν ψυχήν μου つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
▲(同上 10:18) ~~~~
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
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☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか?
(3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか?
(4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?
以上よろしくご教授ください。
お礼
有り難うございます。 お話は理解できました。でも馴染み、こなしていくには多少時間が必要かと存じます。 なにしろ言語という生物の問題でもあり、こちらの頭の理屈だけで繋ごうとすることには無理があるかもしれませんね。