私は、東金崖線の地形を研究している者です。人に教えられて、この質問を知りました。
#2のご回答者がいろいろ考察されて、仮説を出されていますが、話がとんでもない方向に行ってしまいそうですので、現在の知見をご紹介いたします。
1.九十九里崖線と牛久・東金崖線は、#1の補足意見のように別物です。
牛久・東金崖線は東金の八鶴湖附近で九十九里崖線により侵食されて切るられています。
2.九十九里崖線は、縄文海進最高水準期の海食崖です。九十九里平野沿いの地層が硬くないため岬の部分が侵食されて、平面形が平滑な海岸線となっています。
ただ、九十九里浜平野に流入する河川の谷沿いには海が侵入しています。しかし、東金崖線が存在する、茂原~東金にかけての沿岸では、その発達は小規模です。
3.質問者・回答者共通の誤解ですが、牛久・東金崖線は、海食崖ではありませんし、#2のように海食崖起源の崖であるともいえません。
この崖は、九十九里側の小河川群の谷頭侵食により形成された河川侵食崖で、その結果、東京湾側の河川の分水界が九十九里川から東京湾側に移動して、以前の標高100m+の下総台地が標高40m程度の低い上総丘陵に変わっているので、「地形の逆転」現象の例とされています。
用語で言うと、「透水性ケスタ崖」というべきでしょうか。
牛久東金崖線が、海食崖であるという意見を述べた論文は今まで1つもありませんが、何故か、インターネット上では、そのような妄説が散見するようですね。
4.東金崖線の形成時期ですが、勿論#1のご意見のように、10万年以降の地形です。
10万年→2万年まで、海面は相対的に低下し、下総台地面から太平洋側にかけては、比高200m程度の斜面ができていたはずですが、その後の侵食でその当時の地形も地層も残っていないので何とも言えません・・・・ずいぶん探しているのですが全然見つかりません。
2万年以後6000年前頃での縄文海進期には、海岸線の前進によって、九十九里崖線が作られ、浅い湾が形成されました。
ここから私の仮説です。この九十九里崖線を作った海岸線の前進に対応して、小河川が発達して多数の谷津をつくり、その谷頭部で、地質構造の結果、地層の透水性の差から、標高40m附近に平面で直線的に谷頭の泉が並ぶようになり、泉の上に直線の崖ができました。海進最盛期まで、崖の発達が続き、東金崖線の崖が作られたと考えます。
その後、海岸線が後退していき、その後に平野が残されて、現在の九十九里平野となったわけですが、海岸線の後退に対応して、小河川の谷頭侵食も止まり谷津田化し、崖は成長をやめて化石化していきました。現在、東金崖線の成長はみられません。
というわけで、内容は違いますが、崖線の年代は、ナンバー2のご意見と一致する約6000年前ということになります。
5.なお、補足しますと、牛久・東金崖線は、牛久~権現森山間の南部と、権現森山~東金間の東部の2区間に分けられ、上の話は東部の崖線の形成史です。
南部の形成史は、調べた方がおりません。
お礼
ありがとうございました。 東金崖線は、海食崖ではなくて、「透水性ケスタ崖」だったのですね。なるほど。 関東農政局というお役所のHPのページに、海食崖と書かれていたので、盲信してしまいました。 http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/ryoso/shizen/01_2.html