こんにちは。
鳩山以降の民主党政権の失態続きは目も当てられませんが、それとはまったく別に、
人の認識や所作などにつき、むやみに軽々しく馬鹿にできるものではないと思いました。
「諸行無常」、そして「歴史認識」。
仰る通りとても難しいもののように拝察致します。
舷に徴しとまではいかずとも、少々身に覚えが私にもあります。
春から秋にかけての波風の穏やかな週末、家族と共に洋上から釣竿を垂れるのですが、
ある日の帰り際、どうも下の子の竿の糸が伸びてどうやらエンジンに絡んでいたらしく、
どれどれ?と私が水面を覗きこんだ瞬間、ライフ・ベストのポケットの中から
私の携帯電話が波間に落ちていったのです。
まさか、の出来事でした。
即座にエンジンを急停止させて、主人の静止も聞かずに自ら潜った理由には、
絡んだ糸を水中で切るためだけでなく、
「ひょっとして釣り糸に携帯電話がひっかかっているかも?」との馬鹿げた淡い期待もありました。
何とか糸は切断できたものの、携帯電話などやはりひっかかっているわけもなくて、
魚探を見たら軽く200メートルを超す水深でしたし、今も海底に埋もれていることでしょう。
私の携帯電話など幾らでも買い替えでき、その晩すでに格好の笑い話にはなりましたが、
中には本当に取り返しのつかない縁のあるものだったり、諦めがついたりつかなかったり、
そしてまた、住む国や個々人によって、思い入れも千差万別だと思うのです。
道理に合わないからとはた目には一刀両断愚か者とみなされようとも、
もしかすると本人自身も馬鹿だなあと自認しつつも潜らざるを得ない理由があるのかもしれないし、
記憶の徴をつけてしまうことだってありえると思われます。
そしてその徴を宛てに戻る、潜る、立ち位置に立つことなど、
いったい誰が軽々しく非難出来るというのでしょうね。
川(河、江)の流れが、そのまま時の流れのようでもありますね。
krya様は、その川の流れは直線的だと思われますか。
それとも、循環的、円環的なものだとお考えでしょうか。
中国故事からは日本的な「はかなさ」の情緒は感じ難いのが興味深いところなのですが。
もしかすると、川の流れや時間に逆らってもなお、
徴をつけてしまう、消し難いことすらあるのかもしれませんね。
川は──川なれど、川面を流れる水というのは、決して同一のものではないと知りつつも。
お礼
有り難う御座います。 私たちはどこに、何で徴しを付けたらいいのでしょうね。そんな思いから、私は川から目と意識を離して、自己を生きようとしております。 あと何年、その試行が重ねられるか。 マシュマロ2さんのご助言も更にいただきながら。
補足
mashumaro2さん、よくおいでくださいました。 『鳩山さん以降の件』 失態やら、素人っぽさのお陰で、自民党時代よりなにかと情報が流れているような気がします。唯一の怪我の功名でしょうか。 『海釣りの件』 私も魚は大好きです。はらわたと皮が、烏賊げそ刺し。貝類。日本酒は中学から大好きです。ここ三十年は渓流のが。 東京湾の湿地帯、河川敷育ちで河童です。泳ぎだけはできます。潜りは得意です。五月から九月初めまでは一日、川と河川敷などで過ごしていました。 成人してからは山に変わり、夏の二ヶ月は山に入りました。 信州の人が、○○さんに立候補すると宣言して家に入ってきました。卒業生なんですね。 そして信州が近くなり、ここ四十年ほど川の魚がよくなりました。でも烏賊と貝と酒はすきですね。 『川(河、江)の流れと時━直線的・循環的、円環的』 個人の人生では二度と帰らぬ過去。 いくらそれを想起や回想をしても過去は過去ですよね。 そして時間は個人でも創造界でもスパイラル螺旋。そして恰も循環円環であるかのようですね。 そして最初の発端としての当為の命題やそれを含む基盤が目指す価値と理念は元に戻っていく。 人間の意識、存在。これって孤立的には成り立ちませんし、存在存立がありえませんね。 全てが相対的で関係的ですよね。 その相対的関係も諸関係もすべて一時として止まらない。 川の上(ほとり)に在りて曰わく 逝く者は斯かくの如きかな 昼夜を舎(お)かず【子在川上曰 逝者如斯夫 不舎晝夜】 “川”。自己自身の意識や心理、そして感受するための諸条件などもみな所詮は、川の水ですね。 『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。』 自己自身もいえ自己を含む一切が。夢、夢。紡ぎと編集ですよね。 そういう事態と情況を自覚して、所詮はべてが架空(その架空の中の架空存在としては現実)だと意識していることが大事ですよね。 だから歴史認識とか自己認識って、本当は存立しえないのかと思っています。 これは中学のときに漠然と思っていましたが、インドの一部の哲理に触れて、確信に根拠を得てきました。 ですので、この経験界に捉われない面としての存在性に自覚できないと、過去を現在の目と意識で見たり、思考しますね。歴史も自分も。 米英戦の敗戦(国連軍ではなく、そして終戦ではない)の後、戦前の反省が多くなされていますが、反省の仕方を反省しなければいけませんよね。 私はゲルマンの移動や十字軍以来、そして大航海時代の進出(侵略)主義の展開が彼らのいう、第二次大戦とか、太平洋戦争だと存じております。 歴史家の醒めた分析が必要なことなんでしょうが。