こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
平城京の前は藤原京で、
690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、実際には、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
遷都日時については、一説に持統天皇は694年(持統8)12月6日の昼前に飛鳥浄御原宮を発ち遷行された、とされる。
また、藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。
平城京は、
710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都であった。扶桑略記によれば、711年(和銅4)に宮が焼けたとされている。
長岡京に遷都。
その後、桓武天皇はは、784年(延暦3年)から794年(延暦13年)まで山城国乙訓郡に長岡京を建設。
785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮と長岡京は淀川で通じていることから、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。
さらに、桓武天皇は、
784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の793年(延暦12年)の1月、桓武天皇は臣下を集め、平安京へ再遷都を宣言した。
平城京は、710年~784年の74年間となります。
従って、今年2010年が平城京遷都1,300年に当たります。
お礼
早速に詳しく回答を有難うございます。 天皇の名前が多くて分かりずらいのですが、 平城京の前は藤原京で、後は長岡京ですね。 平城京は74年続いたのですね。 有難うございます。