- ベストアンサー
日本文化におけるジェンダー(性)の特徴の由来は?
主に戦後ですが、宝塚の男性役、演歌で男性が女性の立場の歌を歌い、女性が男性の立場の歌を歌い、ヴェルサイユのバラのヒット、芝居における女形など、性が入れ替わる文化に特徴があります。最近ではオカマバーというのもあります。 これはどういう風土や歴史に由来するのでしょうか? ヨーロッパでヴェルサイユのバラを上演するとレズととられてしまうので、できなかったそうです。 日本は同性愛が受け入れられやすい素地があるのでしょうか。 それとも同性愛とは無関係でしょうか。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>日本は同性愛が受け入れられやすい素地があるのでしょうか。 古今東西を問わず、キリスト教が普及する以前は「同性愛」を排除することもなければ、さほど「同性愛」を特別視することもなかったと考えられます。 歴史的、社会的に考える限り、人間が共同体(社会)を形成したと同時に、人間の性行動を規制するようになったと考えるしかないのですが、それは、セックスが女性の妊娠する可能性を秘めた行為である以上、男性の性欲を野放しにしておけば、共同体の秩序を保てないことを、ほかならぬ男性自身が弁えていたからでしょうね。 その意味では、共同体が特に「同性愛」を積極的に忌避したり、排除したりしなければならない本質的な理由を見出すのはとても難しいと思われます。 なお、現代人のわれわれは、いろんな歴史的経緯もあって、愛、性的快楽、結婚を平気でごちゃ混ぜにして考えるようになってしまいましたが、よくよく考えてみれば、それぞれに独立した、別個の意味や価値を持っていますよね。 古代ギリシャでは、これら三者の関係がきちんと区別されていたのだが、キリスト教の普及によって、三者がごちゃまでになってしまったという説が有力です。 もともと、愛は美しい者、立派な者、尊い者を讃えたり、憧憬したりすること、性的快楽は娼婦とのセックスで充たすもの、結婚は子孫を残すためのものと考えられていたようです。 日本でも、古事記や万葉の時代は言うまでもなく、明治になるまで、ずっとキリスト教とは無縁に過ごしてきましたから、伝統的には、古代ギリシャ人と同様、三者を区別して捉えてきたと言えるのかもしれません。 たとえば、性的快楽については、相手が必ずしも娼婦でなくとも、同性、異性を問わず、互いの粘膜組織が触れ合うことで生理的な快感が得られますし、男性のペニスは必ずしも女性のヴァギナに挿入せずとも射精の快楽は味わえますから、アナル・セックスが普通に行われてきたとしても何の不思議もないはずです。 まして、女性にはセックスで臨まぬ妊娠を強いられることへの不安や抵抗があった以上、高精度の避妊手段がなかった昔の時代、われわれの予想をはるかに超えてアナル・セックスが行われていたと考えられなくもないと思います。 ちなみに、西鶴の『好色一代男』のヒーロー世之介の場合、情交相手の女の数は3742人、男の数は725人とありますから、当時の男性のセックス相手の男女比は、約「5:1」だったと推定できるのかもしれません。 一方、西洋では、たとえば19世紀における最高の詩集『悪の華』(ボードレール)には、もともと『レスボスの女たち』(Les Lesbiennes)というという題名が構想されていたのですが、これには「石女(うまずめ)」という意味が暗示されていたらしく、ここにもオナニーをタブー視するのと同様、同性愛をその不毛性・不妊性故に忌避するというキリスト教的発想が端的に見て取れると思います。 >日本文化におけるジェンダー(性)の特徴の由来は? 洋の東西を問わず、「ジェンダー」発生の根本原因は、第一に、人類史のある時点で、セックスとは女性が妊娠する可能性を孕んだ行為であると気付いたことであり、第二には、男性が私有財産という観念に取り憑かれると同時に、自分で子供を産めないクセして、こともあろうに《わが子》を欲しがるようになったことでしょうね。 処女崇拝や婚前・婚外セックスの禁止をはじめとする、女性に対する様々な差別意識の淵源をたどると、最終的にはこの2点に帰着するはずと私は考えております。
その他の回答 (2)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
私の解釈ではヴェルサイユの薔薇は女性性の喪失をする代償として、愛を得ようとしたんじゃないかと思います。 男が生まれると 「万歳 赤飯を炊け」で女が生まれると「はぁぁぁ」というのは、他の世界でもそうだったようです。 映画なのですが、男の子が生まれたら暖かい毛皮で包み、女の子が生まれたら氷の上に置く という風習がある部族の出身の夫婦が、部族から離れてくらしていて、男の子が生まれたのですが、歯が無かったことで、妙だと思って、生まれたばかりの赤ん坊を氷の上に置いたというストーリー。 女の子は生まれてすぐ、試練を受けさて辛い目にあうことに耐久性を持つように育てる。 そうしないと生き残れないから辛い目に合わして慣れさせるんでしょうね。 男の子が生まれたら、大切に育てるわけです。 なぜなら獲物を取ってくるのは男の子だから。 で、ヴェルサイユの薔薇も、父親は跡継ぎになる男の子を望んでいたが、女の子が生まれ、父親をがっかりさせたと思ったオスカルは父親を喜ばすため、男の子の振る舞いをしたんじゃないかと。 父親の期待に応えることで愛されようとしたし、注目されることで安心したのだと思えます。 しかし、女性性を喪失していたオスカルも恋をした。男として育ったオスカルの恋の相手は男だったので、彼の期待に応えたい。 しかし、男として望まれている自分も捨てられない。 どっちを取るか 権威を取るか、一線からひいて女としての幸福を選ぶか。 このコンプレックス(こんがらがり)が女性たちの共感を産んだのではないか と。 だから女が女に恋する という物語ではなく、女であることにより対等に扱われない抑圧された自分を代弁し、女だって勇ましく男と渡り合って第一線で活躍でき、能力に差はないことを示すオスカルを支持し、同時に愛に満ちた女としての行き方もやっちゃう。 よくばりなオスカルは、自分の果たせない欲望を満たすアバターみたいな存在。 オカマバーというのは、男は青、女は赤、男が綺麗なものを身に着けるなど女女しい、男らしくない、男ならキリリとしていろ という風潮に反発するものだと思う。 男だってピンクに心が和むし、フリルのあるブラウスを着たいし、いいじゃないか、男が既製の男らしさじゃなくって、ニュージェネレーションのユニセックスな存在でもいいじゃないか という風潮じゃないかと。 歌舞伎の世界は男のみの世界なので女を演じる人も男っていわゆるぅ 相撲と一緒の世界。 一応天照は女なので、その天照の相手は男ってなっているんじゃないかと。 それが歌舞伎や相撲の舞台に女が入れない理由だったと思う。男女差別じゃあない。 陰陽。 日本では森蘭丸とか怪しげな人がいたようですが、結構同性愛はあったようです。 武士の世界で正義をまっとうすることは気高く美しく、それを一緒に成し遂げるということは甘美な世界になるとして、上司と部下が一緒の志を目指すうちに、心が結ばれていくらしいです。 女は倫理的に正しいとかに興味は無く、現実的なので、正義を希求するということをしない。 男の世界なわけで、当然 仲間と一緒に最高の正義や善を目指すってことの方が肉欲より心が躍動するわけだが、それが恋に似ている感情になり、どうしても分離していることが辛くて、同化したくなり、肉体関係を男同士で持つってことになるわけです。 恋よりすっげーものらしいです。 だから、奥さんが「いかないでー」とすがっても振りほどいて「やらなければならないことがある(正義を貫く)」って言って出ていっちゃうわけです。
私は主に、男女の性関係から社会の構造を見通すと言う立場で勉強中の者ですが、 お邪魔させていただきますね。 >日本は同性愛が受け入れられやすい素地があるのでしょうか。 おそらくそうだと思われます。 身近なところ?では、横溝正史さんの「犬神家の一族」で、 すべての事件の鍵が、家長の佐兵衛と恩人の神主の間の衆道関係と そこから派生する愛人関係にあります。 思い切り横道かも知れませんが、 私にとって「日本における同性愛」を強く認識させられた小説であり、 同性愛を探る糸口となった作品でしたので思わずあげてしまいました。 少年愛、はまさに「大人の男への変容直前の一瞬の美」を愛でることにほかならず、 (刹那の輝き、一瞬で失われるもの、に美を感じるのは古今東西の感性でもあります) 戦場の命の預け合いに代表される強い信頼関係が衆道(男色)の発生源のひとつでもあり。 「そのものでない者」が演じる事にまさに「艶」を見出すのが、 古くは歌舞伎や能であり、新しくは宝塚(BL、GLも、でしょうか)なのでしょう。 面白く読めて納得させられてしまうあたりでは、 桐生操「やんごとなき姫君たちの寝室」のプラトニックラブのあたり (西洋の話ですが、この感覚はおそらく日本にも通用するのでは?と) もうひとつは、他の方から教えて頂いた本の横流しですが 白州正子「両性具有の美」 愛と性のせめぎ合いや、その根源については 三島由紀夫の「仮面の告白」あたりが面白いかと勝手なお薦めです。 私個人としては、異性愛も同性愛も単なる性嗜好に過ぎないと考えております。 こう考えられるのも、この国の性文化のおおらかさが根底にあるからかもしれないな、とも。 勝手気ままに書き連ねてしまいました。 もっと良い回答が寄せられますように。。。。