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大奥の雨漏り、誰が直した?
大奥の雨漏り、誰が直した? といっても将軍やお局衆が屋根に登る訳もなく職人の手を借りたのだと思います。 男子禁制とはいうものの、季節毎の庭木の手入れ、台風が来れば屋根瓦の補修、日々の薪割りや米穀の運搬といった具合に男手なしでは大奥は維持できなかったのだと思います。 大奥で誕生する生命が我が子であると確信できる体制を、宦官を置かずに整える将軍の苦労と工夫たるや並大抵でなかったと推測します。 大奥に職人と呼ばれる専門技術者が出入りするには如何なる手続きが採られていましたか。また、日常の男向きの力仕事は如何にして捌いていましたか。 よろしくお願いします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、回答から先に述べますと「男の職人」が屋根を直したり、壁を直したり、庭木の手入れをしていました。 とは言っても、「誰もが」ではなく、 大奥には、「広敷向」という男性の詰め所があり、大奥の事務や上級御年寄りなどからの買い物代行などをしていましたが、 この「広敷役人」にあらかじめ「登録」された・・・「鑑札」を持った職人が出入りしていました。 では、「鑑札」は・・・と言うと、誰でもがもらえたわけではなく、ある程度の「信用」や職人を何人も抱える大工の棟梁であったり、庭木の剪定なども街で名の知れた職人にだけ「鑑札」は発行されました。 (よもやま話) 大奥は、 「御殿向」 公方さま(将軍)の大奥での寝所である御小座敷、御台所の寝室である新御殿や御切手の間、側室や御世継以外の子女の居室、奥女中の詰所などからなっています。 *将軍さまのことは、江戸時代「将軍さま」とは呼ばず「公方さま」(くぼうさま)または「大樹さま」(たいじゅさま)と呼びました。良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、これは単なる視聴率を上げるための所業。 *公方さまは、通常は中奥の「蔦の間」で寝起きをし、子作りに励まれるのですが、時には大奥で寝起きをすることもありました。 *御切手の間とは、老中などから「許可」を受けた者が大奥に入るときに「通行手形」を改める者の詰所です。 *奥女中の詰所に詰めるのは、「お目見え」(公方さまに顔を見せられる位の役職者)以上の者で、多くは、公方さまが大奥に入られた時に「身の回りの世話」をする者とか、御台所の「身の回りの世話」をする者たちの詰所でした。 「広敷向」 大奥の事務や警備等を担当する男性役人の詰所。唯一、男性の入ることのできた区画ではあるが、「御殿向」や「長局向」(ながつぼねむき)には基本的には入れませんでした。 *広敷用人・・・大奥の御台所や上臈御年寄など、大奥の上級お女中から頼まれた仕事をする。 *御用達・・・・用人に指示により、出入りの商人から買い物を調達する掛り。 *広敷番・・・・大奥女中が城外への出入りとして使う「平川門」の警護や御錠口(御殿向と広敷向との境にある扉)の警護や七つ口(長局と広敷との境の扉で朝五つ<午前8時>に開き、夕方七つ<午後4時>に閉められたことから七つ口と呼ばれるようになった)ここは、「鑑札」を持った出入りの商人が売りに来た場所、そこの警護。 *広敷伊賀者・・大奥の上級者たちがお寺参りなどに出掛ける時の「警護役」。 「長局向」 大奥の御台所や上級者以外の居住区画。2階建になっており、下級お女中たちの寝所などがあった。 また、大奥は男子禁制とは言っても、大老や老中、若年寄りなどの役職者は、御用があれば大奥に入りました。 さらには、警備上の理由で、月に一回は「老中見回り」があり、三ヶ月に一回は「御留守居役見回り」がありました。 男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目を使ったりしましたが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていました。 大奥に百姓が入り込んだ・・・。 将軍家綱の時代、どうして入り込んだか不明ですが、ある時、葛西の百姓が御台所の寝所まできて、緞帳(どんちょう)を揚げて覗き込んだ時がある。しかし、御台所は少しも慌てず、 「誰か私の枕元に来ていたようだ。捕らえよ」 と言って平然として隣の部屋に寝ていた奥女中に叫び、大騒ぎになった。広敷の役人を呼び百姓を取り押えてもらったと言う。
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- ?橋 昌也(@fudousin)
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No.7です。「ちゅうろう」の「ろう」の漢字が変換されず中?になっているようです。
お礼
文字化けの件は分かりました。 どれも甲乙なく、具体的でよく分かりました。皆さん、有り難うございました。
- ?橋 昌也(@fudousin)
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No.2です。お礼ありがとうございます。この手の質問にはbungetsuさんが詳細な回答をすると思ったので、簡単な回答にしましたが、誤解があるようなので少し補足します^^; 大奥の女性たちが屋根の修理をしたとは書いていません。お年寄りの差配下にあるお女中などが出入りの職人をつかって直したと答えたつもりです。大奥には別式女という護衛専門官もいたようなので、力持ちの女性もいたとは思いますが、彼女たちが屋根を直しはしないでしょう。 一般的に表(江戸城の公的なスペース)から言えば、将軍の私的な生活空間を奥(中奥も含む)と呼んでいます。広義の意味での大奥には玄関の南北に接する御広敷も含まれますが、狭義での大奥にこれは含まれません。 質問者様は屋根の修理より、大奥のセキュリティー(特に生物学的雄に対する)に興味がおありのようで、宦官にも蘊蓄がおありのようですが、中国文化を摂取しまくったこの国が何故に易姓革命という概念と宦官制度のふたつだけ受け入れなかったかについては私見がありますが、長くなるのでやめておきます。 セキュリティーの実際について言えば、中奥から大奥への渡りはbungetsuさんの説明のように、上御鈴廊下(下御鈴廊下という中奥台所から大奥へ食事を運ぶ非常口もありました)を行くと御錠口があり大きな杉戸で両側から施錠されています。これは、将軍は通れますが御台所は通行できません(奥から表にでれない)。生涯に一度だけ「御表拝見」という儀式があり、そのときだけ通れますが、御台所のなかにはこの行事を行わなかったものもいますので、一度も将軍の住居を見たこともなかったものもいました。 将軍が夜を共にするのは、基本的には正室と8人いる中?のうちの何人かです。これらのものが将軍以外の男と会うということ自体、まずありませんし、会う場合も単独でということは絶対に認められません。奥医師の診察は頻繁(御台所は月に5回)にありましたが、これも複数による診察です。また、中?同士が相互の室を監視しあったでしょうから、世の中に絶対はありませんが、まず間違いが起こることは考えられません。 また、大奥の女性(将軍の相手になるという意味ではなく奉公という面)の意識というか存在意義というか一般からの当時の見方というのは、今でいうキャリアウーマンに近いものがあったようです。その話は質問と離れるので割愛しますが、その意識もセキュリティーという面では影響があったかもしれません。
お礼
1.NO.2のお礼欄の真意をお伝えします。 >>実際には御年寄が部下の多くの女中を差配してそうした雑務一般もこなしていたわけです。<< これから屋根瓦の補修を女中衆が担っていたと読み取った訳ではありません。「雑務一般」の中には力仕事もあったであろうという推測から「そうするとお女中衆の中には力自慢で選抜された者も混じっていそうです。」の発言になりました。 舌足らず、書き足らずで失礼しました。 2.お察しの通り、今回の質問は別のある関心から派生して登場したものです。 朝鮮絡みの本を読んでいて或る記述から、それなら日本ではどうだったのであろうと思うことがあって今回の質問になりました。もっと間口を広げて言うと、色んな事例からいって日本人は元来、温和なのではあるまいかとの思いがあります。 異状な環境では異常な精神状態になるのが正常ですから戦時には残酷な行動があったかもしれません。しかし、国民性は異状時よりは、むしろ平時にこそよく表れるように思います。ひとつの具体例として宦官なんてものは支配者の側が忌避していたのではあるまいかとの思いがありました。難しいことを言い出すと宦官には側近の世襲を防止する効能があるとも言われているみたいですが私にはよく分かりません。 他の事例と併せて考えると日本人はどうもあまり生臭い話は好まないようにみています。 3. 易姓革命と宦官制度には一家言おもちと見受けました。機会があれば、その節はお聴きしたいと思います。 4.現代では奥方が一人しかいないのに仕事が終わっても直ぐには家に帰りたがらない人がいるそうです。正室の他に中臈が8人もいるのに「表」と「奥」の間には渋谷もなし、新宿もなし、新橋もなしで公方様もなかなか大変だったと思います(?)。 その他、幾つか新情報が含まれていて参考になりました。NO.8の中ろうの件は拝見してあります。 有り難うございました。数日待って、No.9以下がなければ締め切ろうと思います。
- 川原 文月(@bungetsu)
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bungetsuです。 >>「老中見回り」の巻 こりやぁ、外部から大奥への侵入を心配するよりは、大奥の内側から外への警戒体制を整える必要がありそうです。 なるほど、そういう考え方もありますね。 しかし、外との出入りは「平川門」だけに限られていましたので、広敷番人が見張っていました。 でも、屋根を伝って脱出を試みる・・・これは面白そうですね。 >>「百姓侵入」の巻 この事件が公表されていたら尾鰭がついて、鼠小僧次郎吉以上の人気者になりましたねぇ。 その百姓は直ちに首を刎ねられましたので、どこから、どうして、何のために入り込んだかは謎のままです。 >>文月著「兎小僧太郎吉伝」が出版されそうです。 大奥へたびたび侵入して、密かに「枯れた」お女中を楽しませた・・・こんな筋書きはどうでしょうか? >>総じていえば結局のところ、通常思いつく程度の警備しかしていなかったように思います。 大奥では、「御火の番」という下級お女中がいて、日に3度大奥の隅々まで、 「お火の番、さっしゃりませ~」 と、触れ歩いていました。 >>宦官を導入しなかったのは何故なのか、少し興味があります。 >>宦官ねぇ、そこまですることはなかろう、といった国民性なのだと推測します。それが何に起因するのか、この先は今回の質問からは逸脱します。 日本では「儒教の精神」、「信」「義」「礼」「智」「仁」の中でも、特に、「信」が重んじられ、人を信用することだったのではないでしょうか。つまり、大奥に居てもお女中連中と「間違いを起こさない(であろう)」と信用されていたのではないでしょうか。 中国(特に清の時代)でも儒教の精神はあったと思いますが、日本ほど人を信用する・・・と言う精神が薄れていたのでしょうかねぇ。
お礼
咄嗟の思いつきですから当てにはなりませんが、日本では儒教の訓えが比較的歪まずに浸透した印象をもっています。特に朝鮮と比べたとき顕著な気がします。 お説の通り儒教の他、神道、仏教も微妙に影響しているし、江戸時代までは他民族を支配したことも支配を受けたこともないので同朋意識があり、余りあくどいことはせず、ほどほどのところで手を打つ寛容さがあったのかもしれないと思います。 再度のご回答、有り難うございました。数日待ってNO.7以下が寄せられなければ締め切ろうと思います。
- Pinhole-09
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雨漏りや屋根瓦の修理は、屋根に上るだけなので、まだ よいのですが、大奥御殿の室内へ、職人が入るのも珍 しくはありません。 襖の張替など、特に毎年の畳替えには大勢の職人が入ります。 不祥事の起こらぬよう監視の御広敷役人(添番という)が 見張っています。 大奥担当の男の役人、御広敷役人には御広敷用人を頭に 添番その下に侍衆、ついで伊賀者がいます。 添番は大奥に出入りする者の監視役で、皇宮警察官と いう所です。 女手では出来ない力仕事など雑用をするのが伊賀者です。 老人の伊賀者が多いともいいます。? 添番は老中など高位の者が所要で大奥に入る時、かみしも 姿で刀を捧げ持ち付き添うので、この名でよばれます。 大奥内で仕事をする、種々の職人の監視も当然で、約八十 人いるとの事。 修理の段取りは御年寄が使番をやって、御広敷用人に依頼 をし、そこから小普請方へ行き、身元の確かな職人が鑑札 を貰って工事に来ます。 小普請方のなじみの職人です。 畳替えの時など、奥女中達が男前の職人達を隙間から のぞき見するので、年寄達は取り締まりに苦労しました。
お礼
新情報、添番と伊賀者が登場しました。 ところで添番を監視する添番、年寄を取り締まる年寄は必要ないのでしょうか。猜疑心の発達した人間は安全策を講じても新たな心配が生じます。結局、落ち着く先は暴君しかないようです。 またまた、ところでです。菅直人が徳川直人だとします。国家の財政即ち徳川の財政であるとき、財政再建は一気に進むのでしょうか。蟄居と謹慎が連発されそうですから公務員改革は進みそうです。他の面ではどうでしょう。 有り難うございました。一通り出揃った模様です。数日待ってNO.6以下が寄せられなければ締め切ろうと思います。
広敷役人が補修を担当していたと思います。 「井関隆子日記」に依れば、天保の火事の時、息子の親経は大御台所広大院担当の広敷役人であったため、役人達が出入り口を木槌で壊して女中達を逃し、親経は逃げてきた女中に広大院の安否を訊いたが不明なため、顔見知りの女中を捕まえて案内させたとあります、その際に「大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどない」となっているところをみると、たまには大奥に入ることもあると読み取れ、必要が在れば男子でも大奥に入っていたと言うことでしょう。
お礼
「井関隆子日記」は読めなくはなさそうですが、あまり出回ってはいなそうですね。 勝海舟の座談に、天樟院と和宮(のお付きの者)が張り合って浪費をするのに勘定方が音を上げて愚痴を零すので、彼が買って出て丸く収めた話が出てきます。 西郷すら尻尾を巻く偉い人物が来たといって歓迎されたという自慢話です。これで見ても条件次第で大奥へ自由に入れる立場の人間がいたようです。 有り難うございました。
- ?橋 昌也(@fudousin)
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御年寄という役職がありました。 これは、大奥の実務全般を統括する大きな権限をもった幕府の正式な役職で、格式は表の老中に匹敵とは言えないまでも、高いものでした。実際には御年寄が部下の多くの女中を差配してそうした雑務一般もこなしていたわけです。 男子禁制とはいうものの、表から正規に入る場合は非常に厳格で決まりがありましたが、勝手口(裏)からの出入りはそんなに厳しくはなかったようです。最も多い需要は賄いや着物、小間物などでしょうが、そうしたものを扱う商人は多く出入りしていましたし、実はカネを取って町人に大奥見学をさせるというツアー(?)も行われていたようです。将軍の手のついたものやつきそうなものたちと、その他の実務担当の女人とのガードは違ったという感じでしょうか。
お礼
そうするとお女中衆の中には力自慢で選抜された者も混じっていそうです。 懐に匕首を呑んだ御用聞きが訪ねて来るなんて事件はなかったのでしょうか。長い間のことですから公表されないだけだったかもしれないと思いました。 有り難うございました。
- hatuyukisou
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普通に男性の職人なり大工が直しにいっていたのでしょう。 当然ですが、将軍やお局衆が着物の裾をからげて屋根に…なんてことがあるはずありません。 大奥には「広敷」といわれる一角がありました。 ここには男性役人が多く詰めています。警備のためもありますし、雑用のためでもあります。 大奥の食事なんかもこの広敷を通って運ばれたようです。 当然、自由に出入りできるわけではなく、「御広敷御錠口」によって出入りが管理されたようです。 ですが、将軍の御台所の飼う猫が迷子になるたび、この男役人達総出で猫を探したなんて話も残っていますから、実際には出入り絶対禁止!というほど厳しくなかったようです。 病気や怪我の者がいれば医師も立ち入りますし、将軍が病に倒れ、その看病はもう女では無理となると、女衆を全て奥へと追いやり、男手で看病したということもあるそうです。 なので、雨漏り、警備などは男手を普通に利用していたと思います。
お礼
そうすると、関係者以外無断立ち入り厳禁と標識があって、警備員が詰めている程度の感覚でしょうか。 基本的には今日のコンピュータ管理部門の警備と大差ないように思いました。 ところで「広敷」役人そのものへの心配はしなかったのでしょうか。その辺りが日本人の良さでもあり、甘さでもあるかもしれないと思いました。 有り難うございました。
お礼
「老中見回り」の巻 こりやぁ、外部から大奥への侵入を心配するよりは、大奥の内側から外への警戒体制を整える必要がありそうです。 「百姓侵入」の巻 この事件が公表されていたら尾鰭がついて、鼠小僧次郎吉以上の人気者になりましたねぇ。 誰が侵入したか。何のために侵入したか。如何にして侵入したか。色々と想像が膨らみます。そのうち、文月著「兎小僧太郎吉伝」が出版されそうです。 総じていえば結局のところ、通常思いつく程度の警備しかしていなかったように思います。知識は伝わっていた筈なのに、手っ取り早く全ての心配が一気に解決する宦官を導入しなかったのは何故なのか、少し興味があります。 基本的にいって、日本人は元来、性温和なのだと思います。暴君といっても虚実織り交ぜて信長の話が少し伝わっている程度ではないでしょうか。宦官ねぇ、そこまですることはなかろう、といった国民性なのだと推測します。それが何に起因するのか、この先は今回の質問からは逸脱します。 ご丁寧に、有り難うございました。