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正常とは?
- 正常とは、辞書の定義では「正しいとされる状態にあること。また、特に変わったところがなく、普通であること。また、そのさま。」とされています。
- しかし、正常というのは誰が決めるのか疑問です。多数決なのか、それとも権威のある人なのか、明確ではありません。
- いくつかの事例を見ても、正常と異常の境界は曖昧です。例えば、電車でのレイプ事件に居合わせた人たちが助けなかった場合、それが正常と言えるのでしょうか?また、星新一のショートストーリーに登場する税務署の職員の行動も、正常と異常の判断が難しいケースです。
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こんにちは。 ものごとは すべてとどのつまりでは 主観です。 そこに還元されるわけではないのですが しかも 主観から出発します。 つまりいわゆる客観としての事実についても 特定の人が認識し良し悪しや適不適などを判断します。 ですから 世界は言わば一人ひとりの主観から成っています。 この主観〔が表わした見方考え方〕が 人びとのあいだで共同化されうるかどうか・どれだけ共同化されたか これによって 《ふつう・通常・正常》かどうかが定まって来ます。 この共同主観が コモンセンスであり常識とよばれる思想・思潮・風潮です。 したがって時代や地域によって 常識は異なるという事態を これまでの世界史では まねいています。 これの解決は ひとつに そもそも常識は 人がその考えを変えることがあるように 動態であると捉えることだと考えられます。 ということは ふたつに 常識が過程であり 長い目で見れば過程的に形成されるものであるとき 言論の自由にもとづき人びとのあいだで成される議論というものが――つまりは 互いの自由な批判が――大事だとなります。 互いの批判という過程において それでは どちらが共同主観でありうるか。 幸か不幸か これも人びとそれぞれがその主観において判断し 社会的に決まります。 あとは付け足しもしくは繰り返しのようになりますが: ひとつに。したがって 常識や多数意見が そのあとの歴史過程において 間違いだったと認められるようにならないとは限らない。 もうひとつには では ひとはその主観においてにしろ 何が他の人びとにとっても 良いなら良いとして共通の内容となると考えるのか。この問いについて 簡単な目安としては むしろ人の知覚や感性が取り上げられます。なぜなら ひとはウソをつくときには こころにやましさやむなしさを感じるものだからです。偽りを述べるときには 顔をあからめます。しどろもどろになったりします。 いわゆる良心の呵責を感じます。そういうばあいの見方考え方が 人びとにとって共通の良い内容を持つとは まづ考えられませんから 案外 感性がむしろ理論家であると言えるときが少なくありません。 あとは 経験合理性にもとづく無理のない推論に従っているか。これが――これだけでは かなしいかな 万能ではないのですが―― 一般的な目安です。ということは 三人寄れば文殊の知恵ではないですが さらにこの結論をめぐって 互いに自由に批判し合うということ そういう――つまりは民主主義としての――言論の過程にしたがうということになるかと考えます。 * 思想としてもゴロツキやチンピラがのさばっている事態は 思考としての妥当性が判断の基準に成っていないことを表わします。社会力学によってのみ・つまりどういうわけか(つまり 昔からの惰性において)有力であり思潮として優位性を持つという事態によってのみ いわゆる《常識》になっています。これが 現実だと言われてもしかたがないのですが そのように言う人も多くいて しばしばこの風潮が勝っています。 悪貨が良貨を駆逐するというふうにたとえられています。 既成事実をつくれば それ自体ですでにその中身は 社会において共同主観として受け容れられているのだと強弁することが起こります。お偉い人たちは その既得権益を守るためには 既成事実をつくっておけばよいという考え方になるようです。慣例に従うべきだと唱え 前例にないことはすべきではないと主張します。なぜなら 前例のあること・慣例となっていることは それなりに共同主観であることを示し常識であるのだからと。 世の中 うまいこと からくりが出来ていますね。 * 趣旨説明の中の事例は まさにいま作られつつある既成事実であり 被害者にあっても主観が共同化された(つまり加害者の主観に合意した)と周りの人びとは判断したか? んなことはない。(勇気がない。つまり魂が去勢されてしまったからでしょう)。 あるいは 既成事実におけるものではありながら組織として規則にうたった権限関係 これが共同主観となっているとまづ考えられます。そのとき 上下関係にものを言わせて 多少そこにわがままな感情や意見をはさんでも その程度の社会力学上の力関係なら やはり常識の範囲内だと言おうとする場合もあるかも知れません。ただし 心やさしい職員も 規則をやぶるという恣意的なことをしてまで 共同主観を実践しようとするのは 叱りを受ける覚悟の上だと見るべきです。
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- fukuza
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まず観念的な話の領域になります。 女性を助ける助けないは、正常と異常を区別するものではないと考えます。 助けた人は、勇気ある人。助けない人は、(色々な理由で)普通の人だと思います。 正常は、異常でないことで普通の状態も含まれると考えます。 異常の方が問題で、私としては悪と断定します数値で表現すると80%以上の人が迷惑だと 感じることです。 正常と異常は、誰(個人)も決められません 道徳,習慣,歴史、法律を含めて皆が決める ことだと思います。
- pluto1991
- ベストアンサー率30% (2015/6674)
哲学ですね~。 物事には「今ある姿」と「あるべき姿」があります。 「今ある姿」=現実の姿 「あるべき姿」=真実の姿 です。 わたしは毎日ハダカで学校に行きます。(今ある姿) でも、それは正常ではなく異常なカッコですね。 正常なのは服を着て学校に行くことです。(あるべき姿) 服を着るのが正常。などと「正常」を決めたのはだれか? それは自然の摂理だったり、実は日本固有の文化だったり、物理学的に普遍の法則だったり、いろいろあるでしょう。 「あるべき姿」=真実の姿、を思索、探求するのが哲学だとおもいます。
- やっちゃん(@510322)
- ベストアンサー率40% (1435/3579)
正常と異常の境界線・・・、難しいですよね。 確かに世間の一般的モラルや考えから判断すると、傍観者や人へのおもいやりが異常とみなされることが 多々あります。 正義が異常とみなされる、理不尽でやりきれないことでしょう。 しかし、自分が判断して、正常だと思うことは、自分の信念に基づいて行ってください。 そういう信念に基づいて行った行為は、必ずや後々の人生にプラスとなってかえってきますから。 正常、異常は自分の信念に基づいて決めてください。 決して社会の考え、辞書によって決めないでください。 決めたことによって苦しむ方は、沢山いますから・・・。 あまり良い回答ではありませんが・・・・。
- bepaikx
- ベストアンサー率24% (15/61)
正常、異常とは、その言葉を共有する人間の間での曖昧な目安 自分が、思うとおりに決める
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