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レーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

レーニンは、日露戦争をどのように見ましたか? 1905年に日露戦争はロシア帝国の敗北により終結しました。 これ以降、ロシア帝国は弱体化に拍車がかかり、ロシア革命の遠因に なったとされています。 さて、革命の父と言えばレーニンですが、レーニンはこの日露戦争を どのように評価しているのでしょうか? 日露戦争に対して、レーニンはどんなコメントをしていますか?

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  • KITAIKKI
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回答No.3

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。  ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。  レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったことに対して、無邪気に喜ぶというものではありませんでした。同時に反政府的思想を持っていたにもかかわらず、敗北という現実の前に止めようのないナショナリズムが湧いてきた、トルストイのような複雑な感情も持ち合わせてはいませんでした。  レーニンは日露戦争開戦直後からこの戦争の本質と推移、そして戦後の変革を冷静に見つめ、これをいかに自己の思想闘争に活かし、なおかつ利用しようかということを分析し研究していたといってもよいでしょう。  日露戦争は当時のヨーロッパやアメリカのインテリゲンチャと同じく、弱小国対強大国の戦いといった単純な見方ではなく、帝国主義的的植民地主義者たちの闘争であって、アメリカやヨーロッパ諸国の反動的ブルジョアジーたちの間に将来起こりうるであろう、新しい形の戦争の初期段階的なものであるとみなしていました。  日露戦争開戦直後の小規模な戦闘でロシア軍が敗北を続けたとき、ロシア社会主義民主労働党中央委員会での労働者への呼びかけの中の一節です。 「戦争が始まった。日本人はすでにロシア軍に一連の敗北をもたらし、いまやツァー政府はこれらの敗北復讐を果たすために全力を注いでいる」とし、これらの結果がロシア人労働者、農民たちに新たな苦難を招き、人民やその家族に大きな惨禍をもたらし、さらなる税の過大なる負担を強いるであろう、と続けています。  そしてレーニンはそこにツァー政府の将来的な破滅と崩壊を予想し、革命の実現という現実的な姿を見たのです。  レーニンは前述したように戦争中、各戦闘の経過と結果について詳細に分析・研究を行っています。そしてその結果の原因の主なものに必ずツァー政府における官僚や軍人の腐敗性と、農民大衆の無教養や無気力などを挙げて、「露日戦争の仮借ない教訓によって、惰眠をむさぼるだけの広範な農民大衆を目覚めさせる」と結んで、巧妙にアジテートしています。  さらにレーニンは機に乗じて日本をたくみに利用しており、あるときは帝国主義者、あるときは進歩的勢力と呼び、自身のイデオローグに効果的に組み込んでいる点でもしたたかな人物でした。  日露戦争に関してのコメントしての集大成というなら、「新しい大戦争、専制制度に立ち向かう人民の戦い、自由を求めるプロレタリアートの戦争が近づいていることを意味していることに、この戦争の全世界的・歴史的意味がある」というのが、最もふさわしいかもしれません。

その他の回答 (2)

  • eroero1919
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回答No.2

日露戦争で有名なのが明石大佐です。明石大佐はロシアに対して謀略戦を展開しました。その中のメインのひとつがロシア革命を主に資金面で支援したことです。レーニンは明石大佐から相当な資金援助を得て活動し、ロシア国内はかなり厭戦気分が蔓延しました。一説には、ロシア革命そのものが明石大佐の支援がなければ成功しなかったともいわれています。 だから、レーニンが日本に足を向けて寝ることはできないはずですよ。

  • k16399638
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回答No.1

レーニンの言葉で記憶に残っているのは、 「うら若き少年のような日本が、腐った帝政ロシアに大打撃をあたえたことは、すがすがしい風の息吹を感じさせるような出来事だった」 大意このような言葉を残しています。