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救済
救済 この語がむなしく響くのはなぜか
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仏性や神との接触によるインスピレーションを救済というのであって 世俗的な意味の救済とは異なるからかと思います。 例えば、社会の問題の解決の為にリスクをしょって起業する方は難題の連続で世俗的な意味では幸福とはいえません。しかし、聖なる苦悩により仏性や神からと思える閃きを得ることができ、その結果、イエスのような最後になっても生命との連帯感を感じ内面的には幸福といえると思います。 反対に、自己中心的な安易な企業活動は世俗的な幸福や安心感は得られかもしれませんが、わざわざ仏性や神との接触を必要としませんから刹那的な内面にならざるえません。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
ほかに連帯、慈善、犠牲(solidarity, charity, sacrifice)などにも共通するむなしさであるとすれば実質的に含んでいるキリスト教文化的背景まで移植しきれない訳語の空疎感があるためでしょう。救済といっても例えば英語でrelief, salvation, help, mercy、仏語でaide, secours, sauvetage, assistanceなどのように使い分けがありますが、これらの国の社会活動の基盤と、共同体の形成基盤が、王政のもとに組織された宗教的な統治に根ざしていますから、救済それぞれの単語に適したそれぞれの行為もまた、人間の行為というものを透かして宗教的な力学や要請が底を支えるようにして概念形成されたものだろうと思います。 ところで、最近ふと川端康成の「雪国」を読みなおしていましたが、主人公が雪晒しの縮を訪ねに行くあたりからの終盤への動きだしで、天の川と火事という昇華的描写の中、最初に登場した娘への円環的な始末のつけかたがありますね。小説世界の小説的救済といったような構造をなぞって、この投稿の冒頭の連帯、慈善、犠牲とはまったく違うわたしたちの文化的背景によって炙りだされる感覚があります。救済という言葉には掬い取れないものでありながら、救済の語がむなしく響くところには掬い取られている感覚であろうと思います。
お礼
それで、ズバリお聞きしたいのですが。 救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが、そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。 この空想というのは下の質問で述べられているように現実からの逃避にすぎないのでしょうか?
補足
この下の質問に触発されて思わず質問してみたのですが(笑)。質問タイトルの救済は宗教が約束する人間最高の状態、宗教的至福を意味するサルベーレとかエルレーゼンという意味にとっていただければありがたいですが、それにしてもご回答を寄せてくださる方々というのはNO1,2さんを除いてはすべてここの常連さんですね。ここのサイトの閲覧者の数ってどれくらいなんでしょうね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論的な世界像において、有限な性質を伴う宇宙は、認識される事で派生している=自我仮説(時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化していると言える。 そうであれば、環境は自我成立のための必要に他ならず、「救済」されたいと思う“外的要因”も、実は(原理的本質にまで遡った補完として)自己の意志に他ならない(「ぶつかる」のは自己矛盾)。
補足
psytexさんのHNを見た瞬間ご回答の内容がある程度想像ついちゃうんですが、これがご回答者サンにとって良いことかどうかは分りません。
- zzebec
- ベストアンサー率28% (10/35)
精神的・物質的に多くのものを 求めようとするからではないでしょうか。
補足
確かに黒人女性の「肌が白くなりますか?」という要求は求めすぎのような気がしますが、そういう私自身天国を求めていますので何とも言えないところです。
- dddmmgrru
- ベストアンサー率64% (24/37)
理念としての「救済」は常に100%(以上)を要求される。 現実の「救済」は常に100%になることはない。 その不可避の乖離をどう見るか、どう受け止めるか。 人によっては「むなしい」と響く。
補足
>理念としての「救済」は常に100%(以上)を要求される。 その+αとは一体何でしょうか?
- 1
- 2
補足
それは人間変革と呼んでもいいかもしれませんね。言いかえれば、生の内側から動的に変形された新しい生が救われたものによってわがものとされるということであると。