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「~できた」「~(ら)れた」という日本語表現には、過去における能力・可
「~できた」「~(ら)れた」という日本語表現には、過去における能力・可能性だけではなく、過去において何かが自然とできる感じ(例えば「これまで食べられなかった納豆も昨晩は食べられた」)や、完成した状態が存在する(例えば「宿題ができた」)などが存在するように感じられるのですが、いかがでしょう。 http://okwave.jp/qa/q5877972.html
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課題の件は可能表現の特徴でもありますが、同時に完了を表す「~た」に関係すると思います。「~た」は結果の存続や、結果の認識や確認に気持ちを込める時にも使います。 「食べられなかった納豆を昨日初めて食べた。」「宿題をやっと済ました。」でも同じような近い感じが出ます。 状態の存続の代表的な例では「腹が減った」があります。 満足感や達成感の気持ちを込めた「10日かけてやっと完成した」、「やった」なども「~た。」の使い方と思います。もっとも達成の表現には可能表現をいれた「できた」がぴったりですが。 「見つかった」、「残念だった」、「よかった」なども結果の確認のあと、そのまま「~た」に込められた気持ちが存続しています。
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- cxe28284
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#3です。お礼と補足がついているのに気がつきませんでした。 可能の表現は能力に限らず、条件とか状況とか決まりいろいろの要素がからんでくる。 でも結果としての行為の実現が、可能か不可能かという事ではないでしょうか。 自分の意志で意図的にしない場合は、宿題をやらなかった。食べなかった。 になると思います。
お礼
なんどもありがとうございます。 「宿題ができなかった」まるでやる気がなくてやっていないような場合でも「やらなかった」ではなくこのように言うのは、「やろうとする気持ちはあったのだけど、諸般の事情でする可能性がなかった、または、やり始めたものの能力がなくて完成しなかった」という意味しかない「できなかった」を使っているだけなのでしょうか。もしそうであれば、親や教師が「できなかった」じゃなくて「しなかった」でしょ、と諭すのは正しいことになることでしょう。ここで残る疑問は、「まだできない」という表現も可能・能力を表しているのでしょうか。
- cxe28284
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可能動詞は人が意志をもってする動作なので、自然とできると感じても、 それはその人の感じ方であり、一般的にはやはり可能表現になるのではないでしょうか。 自然に心がそう動く自発の意味をあらわす言葉、思う、感じる、考える、などは受け身にして 自発の意味を持つ可能表現になるとおもいます。 「今年の夏は雨続きで野菜は高くなると思われます。」 「あの人の言葉には優しさが感じられる。」など可能とは別の表現にもなります。 「夕食の納豆が食べられたのは空腹だったからです。」食べられたのは、空腹という理由が可能にした。 宿題が出来るの出来るはこの場合能力の可能を言い表していると思います。その完了でしょう。
お礼
ありがとうございます。 ご指摘はごもっともです。「(ら)れる」は、自発・可能・受身のいずれかを、そして「できる」は可能を表します。 ここで、疑問に感じていることを整理すると次の2点になるかもしれません。 (1)「(ら)れる」の用法は、常にどれかひとつに決まるものだろうか。たとえば、「自発」の気持ちと「可能」の気持ちを併せ持つことはないのだろうか。前のご回答に対するお礼中の「ウド」の例をお読みください。 (2)「できる」にも、可能の気持ちに合わせて完了の意味を持たせることはないのだろうか。「宿題はしたの?」「うん、できた」という子どもとの会話や、「よし、仕事もできたし、一杯やりに行こうか」というとき、さらには「ご注文のものはできております」というときなど、可能不可能というよりも、「すでに準備ができている」というニュアンスが強くはないでしょうか。
補足
お礼からの続きです。 「宿題はできた」の反対を考えると次のようにならないでしょうか。 (1)「宿題はできなかった」 「やってはみたもののわからなかった」であれば能力がなかったことになります。その反対で「宿題はできた」といえば能力があったことを強調しているのでしょう。能力があれば必ず実行するわけではありませんから、「宿題は(やろうと思えば)できたけど、しなかった」ということも十分考えられます。 また、「時間がなかったり体調が悪くてすることができなかった」という意味であっても一種の能力と考えられるでしょうか。 (2)「宿題はできていない」 これが、「やってみたけどできなかったので、していない」という意味でしたら、前半は能力ですが、後半は今の状態を表しています。さらに、「やってもいないから、できていない」という意味でしたら、これはもう<能力>ではなくて、やってあるかないかという<状態>を述べているようです。そして、日常生活では、多くの場合この最後のニュアンスで使うように思われるのですがいかがでしょう。
ANo.1です。 専門家ではないですが,やはり,文法としては「可能」だと思います。「自然に食べてしまった。」と表現したい場合,「食べられた。」では通じないと思います。
お礼
再度ありがとうございます。 自分のへいぜい使っていることばの方が、感覚的にわかりやすいので、その例文で失礼します。実は、いわゆる共通語ではことばの持つ細やかな感じが今一歩つかみにくいものですから。 私は、以前セロリスティックを食べることができませんでした。あの独特の香りがどうも苦手で口にいれることができなかったのです。ところが、ある時に山村に住む友人を訪れて、おばあちゃんに作ってもらった天ぷらをおいしく頂いたあと、その中に山ウドがあることを聞き、生のものも見せてもらいました。しっかりとした薫りの山ウドで、その香りはちょうどセロリの香りを強くした感じでした。初めてだったので、どういうものか知らずに口にいれておいしく食べてしまったのです。 「セロリは食べれないのに、ウドは食べれた」というと、一緒にいたアメリカ人の友人が「それはよかった。アメリカに行くとよくセロリスティックが出ますから」とそのあとアメリカ留学の予定だった私を励ましてくれました。 このときに「食べれた」は、「実際に食べたかどうかではなく、食べることができる能力があった」というのとはずいぶん違います。「未知の食べ物だったウドを何かよくわからないままに、おいしく食べてしまった」という感覚で使っているように思われるのです。いかがでしょう。
自発の助動詞と混同していませんか。例えば,「あの日の情景が思いだされる」の「れる」です。「食べる」にこの助動詞は付かないでしょう。 お示しの例文は,単なる可能表現だと思います。お感じになっていることは,文脈の流れからで,文法としては,「可能」以外にないと思います。
お礼
ありがとうございます。 はい、「(ら)れる」には、可能と自発などの意味が認められることは承知しております。今回の疑問は、「可能と自発は、明確に分別できるものではないのではないだろうか」という点です。 ご回答いただきました「あの日の情景が思い出される」をはじめ、「故郷のことが思われる」などは極めて典型的に「自発」の用法と考えることができるようです。一方、「溺れている人を助けようと思えば助けられたはずだ」などの例では、能力であることは明白でしょう。 ところが、「昨夜は納豆が食べられた」は、単に「納豆を食べる能力があった」という能力の意味にとどまることなく、実際に食べたわけです。さらに、「頑張ってどうにか食べた」という意味に使われることもあるでしょうが、料理の仕方がよかったからとか、ムードがよかったとかで、「自然と食べてしまった」という気持ちで用いることも少なくないのではないかと思われるのですが、いかがでしょう?
お礼
ありがとうございます。 完了・達成というのは気にかかるポイントです。