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日本史についての質問なのですが、幕末等侍の時代の時。斬り捨てられた遺体
日本史についての質問なのですが、幕末等侍の時代の時。斬り捨てられた遺体はどう処理されていたのでしょうか。分かる方解答よろしくお願いいたします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>斬り捨てられた遺体はどう処理されていたのでしょうか。 これには、二つ~三つに分類してお話しいたしましょう。 <戦場での場合> (1)平安時代頃から、戦場には「医僧」(いそう)と呼ばれる、医術の心得のある僧侶2~3人がどちらの軍にも随行し、怪我人の手当てをしたり、死亡した者をその地に埋葬して念仏を唱えたりしました。 (2)また、戦国時代などでの大きな戦になると、「医僧」も人手が足りないため、「野ざらし」とされ、戦が終わると、近隣の農民などが刀や鎧(よろい)などを剥ぎ取って回りました。刀や鎧の鉄は当時としては高値で売れました。遺体は「野ざらし」のままでした。カラスやトンビの「餌食」となる者も多かったのです。まあ、中には、埋葬してくれる人もいたかもしれません。 (3)幕末などでの戦いでは、戦が終わってから、その藩邸の者が合同で火葬をし、「遺品」や「遺髪」などを親元に届けました。遺骨で届けられるものは遺骨で・・・。 <江戸の街中での人斬り> (1)旗本や御家人の場合、武士同士であっても、人を殺した場合は、若年寄り支配下の「目付け」の詮議がありました。そして、遺体は、その家の家族が引き取りに来ました。当然、供養をして寺に埋葬されました。 (2)殺された者が藩邸の武士であれば、所属する藩邸の者が引き取りに来ました。そして、火葬をし、親類や縁者が藩邸にいる場合は、帰国する時、そうした人々が「遺骨」を持って国元へ帰り、墓に納めました。 (3)町人が斬られた場合は、その家族が引き取りました。 (4)また、町家は狭かったので、川の土手などで火葬をし、遺骨を家で供養しましたし、豪商などで檀家寺がある場合には「土葬」をしました。 (5)身元不明や身寄りのない者は、町方同心の改めを受けた後、「非人」(ひにん)と呼ばれる者に引き渡され、非人は、回向院などの「投げ込み寺」で「総墓」と呼ばれる穴に埋葬し、簡単な供養をして終わりました。 話は少し脱線しますが・・・。 <江戸の街での病での遺体> (1)安永年間(1772~)頃には、「人別帳」に乗らない「無宿者」が氾濫したため、家なし、宿なしの行き倒れや病での死亡は、そのまま放置されたり、近所の者が土手などへ運んで放置したり、川に流したりしました。 (2)また、流行病(コレラなど)の場合は、川の土手へ放置したり川へ流しました。 (3)流行病などの時は、街中や土手、河口付近に死体がゴロゴロしているのが「当たり前」だったのです。
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- m-twingo
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氏素性の判る者は家族、親族、知人等が引き取って供養。判らない者は無縁仏じゃないですか? でも江戸時代には侍と言えども簡単に無礼打ちや切捨て御免など出来ません。 江戸時代は現代から考えてもかなり治安のいい時代でしたから、無礼打ち等、理由があって切り捨てても厳しい詮議があります。
お礼
御礼が遅れてすみません。とても参考になりました!ありがとうございます。
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