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『た。』と『する。』についてうかがいます。
『た。』と『する。』についてうかがいます。 三島由紀夫は、「『た』で終る日本語文末の単調さ」を避けるため時々、文末を現在形にしたと聞きましす。 これら「終助詞の『た』と、『現在形』をうまく使い分けるこつ」はあるのでしょうか。このことについてお願いします。
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それは「歴史的現在」という使い方だと聞いたことがあります。 本当は過去の話なんだけど、話に臨場感を与えるため、わざと現在形をまぜる、という手法(表現技法)です。まあ文末の単調さも避けられますが、ちょっと文章力のある中学生なら無意識にやっていることです。 使い分けるコツですか…。私の場合は、まず過去形を2回くらいはっきり出しておいて、次くらいから現在形。現在形でずーっとひっぱって、最後に過去形に戻す、ですね。つまらない例文ですが、 「昨日はいい天気だった。久々に自転車で走った。風はまだ冷たかったが、かえって心地よかった。路面の段差を膝で吸収する。手に、快い振動が伝わってくる。耳たぶが冷たい。小一時間も走っただろうか、喉がかわいてきた。」てなもんですか。
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- isoiso0423
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”うまく使い分けるこつ”、というものは無いんじゃないでしょうか? いわゆる有名な作家の名文を読んで体得する、くらいしか思いつきませんが、文章を書いてそのままってことはないでしょうから、推敲の時に口に出して読んでみるというのもひとつの方法だと思います。 「~た。」「~る。」がどんな具合で出てきて連続しているか、していないかを声で確かめると、「た」と「る」を入れ替えた方が変化がつきリズム感がもっといい、あるいは思い切って倒置法に変えてみるなど、別の発見もあると思います。 日本語の文末は諸外国の言葉に比べ単調なのは誰もが認めるところですが、”日本語の特権で、現在形のテンスを過去形の連続の間にいきなりはめることで、文章のリズムが自由に変えられる”と三島由紀夫は書いています。 谷崎潤一郎も「る・た・だ・す・等の音が繰り返される場合が多いので形が決まり切ってしまい変化に乏しい欠点がある」と言っています。 ただ名文と呼ばれる文章のなかには実は「~た。」ばかりのものもけっこうあります。 『一点の色を注ぎ込むのも、彼に取っては容易な業ではなかった。さす針、ぬく針の度毎に深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。針の痕は次第々々に巨大な女郎蜘蛛の形象を具え始めて、再び夜がしらしらと白み初めた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本の肢を伸ばしつつ、背中一面に蟠った。 春の夜は、上り下りの河船の櫓声に明け放れて、朝風を孕んで下る白帆の頂きから薄らぎ初める霞の中に、中州、箱崎、霊岸島の家々の甍がきらめく頃、清吉は漸く絵筆を擱いて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めていた。その刺青こそは彼が生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。』 三島由紀夫が読んだ人間を陶酔させる文章として挙げている谷崎潤一郎の「刺青」ですが、文末の述語(動詞/+助動詞)はすべて「~た。」です。 川端康成の「雪国」も 『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、 「駅長さあん、駅長さあん」 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。』 とすべて「~た。」です。 これらのいくつかを「~る。」に変えると、文体のリズムや表現が損なわれます。 三島と谷崎の前言を覆すようですが、こういう「~た。」の使い方もあるということで。
お礼
有難うございます。参考になります。
お礼
有難うございます。