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アカデミー賞で 涙が禁止令となった米国人的価値観
なぜ涙でサンキューとステージで言うと、嫌がられるのですか? 言葉と関係あるのでしょうか? =====--- アカデミー賞を主催している映画芸術科学協会が、今年の授賞式でオスカーを獲得する可能性のある人々に泣かないよう呼びかけたという。 アドバイスを受けたのはノミネートされているすべての人だが、その中にはベテラン女優のメリル・ストリープやサンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニーなども含まれている。WENNによると、ノミネートされた人々が招待されるランチで、プロデューサー側から受賞した場合のアドバイスがされたとのこと。 その内容は、受賞した場合、座席を立ち演壇に到着したら感情を抑えるようということだったらしい。授賞式の共同プロデューサーであるビル・メチャニックとアダム・シャンクマンによると、涙まじりの感謝の言葉は授賞式で最も嫌がられる行動だそうだ。また、2つのスピーチを用意し、観客に向かっては簡単な感謝のスピーチをし、個人的な感謝などはカメラが待ち受けているバックステージで行うようアドバイスした。今年のアカデミー賞は3月7日(現地時間:日本時間は3月8日)に発表される。
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- ucok
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#1で回答して者ですが、#2さんのご回答を拝見して、なるほど、米アカデミー賞を観ていない人は、もしかしたらそこがわかっていないのかもしれないなと気づきました。 例えば日本のレコード大賞などは、歌手が受賞して壇上に上がると、司会者が受賞者にその場でインタビューして言葉を引き出す、という流れで進行します。日本アカデミー賞なども、私は近年見ていませんが、少なくとも当初はそういう形式でした。なので、受賞者の態度に問題があれば、司会者がその場で軌道修正できるのです。 一方で、#2さんもごぞんじかもしれませんが、米アカデミー賞授賞式というものは、受賞者の名前が呼ばれたら、受賞者は壇上に上がり、与えられた時間内にスピーチをおこなうことになっています。授賞式内で受賞者の発言の場は、それのみで、質疑応答などは一切ありません。逆に言えば、すべて計算されているのです。スピーチ以外の進行は、単語のひとつひとつまで、きっちりと台本で決められていますし、スピーチだって候補者があらかじめ考えておけば、時間通りに進められるはずなのです。 にもかかわらず、番組は毎年、予定通りに進みません。念のために申しますと、アメリカのテレビはヨーロッパなどと違って、日本並みに時間通りにきちっきちっと進行します。スピーチの秒数もあらかじめ決められていて、それを超えると、スタッフが急かす仕組みになっています。しかし受賞者が「もう時間切れだとあそこで指示してるけど、これだけ言わせて」と言う場面がよく見られます。それでも、“とり”となる主演賞や監督賞などの受賞者は甘やかしてもらえるのですが、中盤の例えば短編ドキュメンタリー賞のような地味~な賞にシワ寄せがどんどん行き、こういう人たちは壇上に長く居られなくなりますし、最後の締めの司会も、時間切れで尻切れトンボになるのが習わしです。 要するに、米アカデミー賞授賞式では、受賞者がどんなにくだらないことを壇上でやろうが、その与えられた枠内に収まっている限り、受賞者の天下なのです。そして、この天下を、ただひたすら世話になった人の名前を羅列して終わる人や、ただひたすら泣いてサンキューと言って終わる人があとを絶たないのです。 では、もうこれは、ただひたすら名前を羅列し、泣いて感謝する番組にしちゃえ、という意見もあろうかと思います。しかし、過去には偉大がスピーチがたくさんありました。例えば、ビビアン・リーの「私の感謝の思いは言葉で伝えきれません。伝えようとしようものなら、そのスピーチは、超大作『風と共に去りぬ』よりも更に長いものとなるでしょう」とか、近年では、退場をあおる音楽にのせて歌うように名前を連呼したキューバ・グッディング・Jrや、プレゼンテーターの美女ハル・ベリーに、クラシックな熱いキスをした美男エイドリアン・ブロディなど、それなりに枠を使って楽しませてくれた人々がいたのです。 私に言わせれば、「映画人なんだから、そのくらい楽しませてくれよ。知らない人の名前をだらだら言われても退屈だし、ましてや泣いてちゃわからんだろう」という思いです。それで例年、少しずつルールが増えるのです。例えば、昨年から名前の羅列は禁止されたと記憶しています。 で、ここで国民性、いや厳密に言うと地域性というものが、確かに考えてみたら登場しますね。例えば日本のように、「ルールなんだから、ユニフォームはきちんと着ろよ」と大多数の人が言う土地柄とは違い、ハリウッドというところは、アメリカの中でもとりわけリベラルです。つまり、権威がルールを設けても、誰かしらが「そんなのどうだっていいじゃん」と言わんばかりに、そのルールを堂々と破り、また、その破った人を支持する人たちも登場し、それに反対する人も堂々と反対し、また、見守る人も楽しんで見守ってくれるのです。 そして一方で、授賞式そのものは、あくまでもショウであり、番組が終わったあと、バックステージで受賞者は正式にインタビューを受ける機会がちゃんとあるのです。そこでは、場を盛り上げるためのスピーチとは違う、まじめな受け答えや本音などをぶつけられるわけです。なので、泣きたけりゃ、なにも大事な放送枠でやらなくても、そこで泣きゃいいじゃん、べつに泣くなって言ってるわけじゃないんだし、と番組製作側は言っているわけです。 そうしたいろいろな背景があっての今回のお達しだと思うので、私にはよく理解できるのです。
- phj
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日本のレコード大賞とか、日本アカデミー賞の授賞式で、(特に若い女性が)涙も見せずにスピーチをしたら、見ているほうは物足りなさや、場合によっては「あの子冷静すぎて怖い・・」などの感想がでるでしょう。 日本では映画を見て泣く、ドラマを見て泣く、金メダルをとって泣く、なにか賞をとって泣く、そしてそれを見たほうがもらい泣きする、という予定調和があります。 私は大っ嫌いですが、日本人のメンタリティーなのでしょう。なにせ映画の宣伝で見ている人が涙をぬぐうカットを流し続けるようなお国柄です。 アメリカでは「言葉の力」という発想があります。たとえば大統領選だとほとんどの人がテレビ討論会を見てどの候補に入れるか、絞っていくぐらいです。みんなが目指し憧れを抱くような賞を受賞した人については、みんなが支持したから賞を得られたわけで、支持してくれた人々に対して「言葉」いや「メッセージ」を送る責任があると考えられているわけです。 ですから賞の公式なセレモニーであるステージ上ではメッセージを、セレモニーの終わったバックステージで内輪への個人的な感謝を述べるべきだと、アメリカ人は考えるのだと思います。
- ucok
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言葉とか国民性みたいなものとは一切関係ないでしょう。毎年、アカデミー賞をテレビで観ていれば、「涙まじりの感謝の言葉は授賞式で最も嫌がられる行動だそうだ。また、2つのスピーチを用意し、観客に向かっては簡単な感謝のスピーチをし、個人的な感謝などはカメラが待ち受けているバックステージで行うよう」と言う気持ちは、痛いほどわかるはずです。単に世界中の視聴者を代弁しているだけです。深く考える必要はありません。私も毎年試聴している者として、ご質問を通じてこのコメントを初めて知り、胸のすく思いです。ただでさえ放送時間が押すのに、2時間も3時間も、泣いてサンキューと言うだけのスピーチを聞かされるこちらの身にもなってください。そんなのはスピーチする人のエゴであって、ファンはそんなの観ていてもちっとも楽しくありません。それでもルールを破る人は当日いるはずです。それもまたオスカーの面白さです。