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動物と心が通じ合った時に嬉しくなるのは何故でしょうか? 

動物と心が通じ合った時に嬉しくなるのは何故なのでしょうか?  できれば動物行動学や利他遺伝子などのレベルで知りたいのですが、ご意見だけでも結構なので教えて下さい。 宜しくお願い致します。

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  • ベストアンサー
  • ruehas
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回答No.3

こんにちは。 #2です。何時も回答をお読み頂きありがとうございます。 現実の愛や、あるいは映画や小説など、我々がそれに触れたとき、心の中に湧き上がってくるあの感動は、これは過去に体験した幸福感の再現であると考えます。ですから、過去にその体験や学習がなければ感動することはできないわけですが、我々は子供の頃から家族や友達と過ごし、思春期には恋愛も体験するわけですから、何の感動も得られないというひともまずいないと思います。 「愛」という言葉を国語辞典で調べますと、「何らかの対象に引き付けられる心情」と定義されています。 では、これを生物学的に解釈しますならば、 「愛とは:選択的動機に基づく報酬行動」 ということになると思います。 報酬行動といいますのは「報酬刺激に対する接近行動」のことです。 我々の脳内で「欲求」といいますのは「行動選択の動機」として発生するものです。空腹は摂食行動の動機であり、食べ物が得られるならば脳内に報酬反応が発生します。結果が期待値を上回るのは欲求が不足していたからです。 では、ひとたびこの満足感が学習されますと、次からは期待値に上回ることを前提とした「予測報酬」によって行動の動機を発生させることができるようになります。当然、この時点ではまだ何の報酬も獲得されていません。にも拘わらず、既に脳内では以前に体験した既知の幸福感がむくむくと再現されているというわけです。 愛が不足しているならばそれは欲求なのかも知れません。ですが、果たして愛情を与える側に何らかが不足する必要は何処にもありませんし、脳内にそれが決して余っているというわけでもありません。強いて欲求と呼ぶならばそれは満足感や安心感ということになりますが、結果が出る前に幸福感が発生してしまいますので、基本的には報酬が与えられる必要そのものがないわけです。 少々奇妙に思われますが、これは情動学習を用いる「報酬系回路の予測機能」であります。そして、実際の結果と比較されないならば期待値を下回るということもありません。 このように、何の欲求もなく行動が選択され、報酬が与えられなくとも幸福が得られるのは、それは過去の体験に基づく「架空の予測報酬」が脳内に再現されるからです。このため、一見それはあたかも無報酬な行為のように思われてしまうわけですが、そもそもこれが報酬反応というものの性質であり、果たして、我々の脳内ではこれによってもたらされる幸福感が「無償の愛の動機」ということになります。 幸福感を再現するためには事前体験が必要です。従いまして、愛といいますのは本能行動ではなく「学習行動」ということになります。そして、その構造といいますのは以下のような解剖学的分類に当てはめて考えることができます。 「本能行動:生命中枢:無条件反射(本能行動)」 「情動行動:大脳辺縁系:情動反応(学習行動)」 「理性行動:大脳皮質:認知・思考(学習行動)」 「母性本能」を母親の愛と呼ぶことはできません。これは、本能行動では行為の対象を選択することができないからです。 生殖行動は本能行動であり、性的に成熟した異性であるならば基本的には相手は誰でも構いません。ですが、恋愛感情といいますのは特定の異性に対するはっきりとした反応です。これは、大脳辺縁系の情動体験を基に、その異性に対する報酬反応が学習されてしまうからです。これにより、我々の脳内で愛といいますのは、何らかの対象に対し、本能行動とは異なる「選択的な行動の動機」を発生させる役割を果していることになります。 学習行動であるならば、愛といいますのはDNAに書き込まれていた遺伝情報ではないということになります。遺伝情報といいますのは飽くまで生命活動を全うするための機能であり、その結果はまず生物学的利益と一致するものでなければなりません。そして、「利己的行動」とは何かと言いますならば、取りも直さずそれは、この「生物学的利益・不利益」に従うことであり、これが即ち生命の本質であります。 このため、育児活動や給餌行動など特別な場合を除くならば本能行動の系統で利他的な行動が選択されるということは間違っても起こりません。ですが、先に述べましたように、我々の中枢機能といいますのは三系統に分化しているため、嫌でもそこに「複数の異なる判定基準」を併せ持つことになります。 「生物的価値観」 「情動的価値観」 「論理的価値観」 我々が生物学的価値判定以外の動機で行動を選択することができるのはこのためですが、果たして愛の全てが利他的な行為であるとは限りません。では、何を以ってそれを愛とするのかと言いますならば、そこには本能行動以外に何らかの別な価値観が獲得され、これに基づいて再現される選択的な報酬行動というのがその条件となります。 では、その起因が生後体験でありながら様々な愛の形態が一連の生得的機能に尽く類似するのは、それは我々の生後学習のほとんどが本能行動を手本に行われるからです。 我々動物にとって「学習」とは、生後環境における本能行動の実現を効率良く行うためにあります。 我々が生まれたとき、脳内の学習記憶は白紙状態であり、生後学習の全ては必然的に本能行動の体験結果から始まることになります。本能行動を司る遺伝情報といいますのは生命活動を実現するためのものであり、我々の脳はこの基準に従って次々と学習を積み重ねてゆきます。このため、愛といえども利己的な制約から完全に解き放たれるというのが難しくなるわけですが、逆に我々の学習結果といいますのはその多くの部分が生物学的利益に対応することになります。これにより、結果的にはそれが本能行動の実現に貢献するわけですが、これが即ち「学習の生物学的意義」であります。 我々はみな異性を愛し、子供を育てます。他人を助け、社会を守ります。そして、果たして生命を慈しみ地球を救えるならば、愛といいますのは人類の生命戦略においてその生物学的意義を十分に発揮すると考えて良いのではないかと思います。

booter
質問者

補足

頂いた回答に対して自分の消化が進まない為に御礼がまた遅れそうだったので、先に御礼申し上げます(まだ完全に消化できている訳ではありません)。 とても丁寧な回答を頂き、(本当に)大変恐縮です。 私が意外に思ったのは、愛とはDNAに刻まれたプログラムではない事(つまりは生物として存在している事は無条件に愛情を持っている訳ではない)、愛とは生後学習の結果である事でした。 この質問の背景は別途心理学カテゴリーに投下したQAが発端である、と記載させて頂きましたが、更にその背景を書きますと私の身辺で私自身が少しつらい体験をした事が発端になっています。 ここで、そもそも人間が持つ愛というものを信頼して良いものか、と疑問を感じた背景があります。 そして頂いた回答から私が結論したのは、「愛とは絶対ではない」という事でした。 もう少し言えば、恥かしながら私が世間知らずだったのだと思います。 愛とは神様のような存在から無条件で授かる、宇宙の中での普遍の真理のような存在だと思っていたのです。 しかし、それは絶対ではありませんでした。 生物のDNAに刻み込まれている行動ではなかったからです。 愛とは学習結果であり、普遍的真理ではない。これを基にもう少し考えを進めてみます。 私の求めている思考材料を直球で頂きありがとうございました。 ---- この質問とは関係ないのですが、以前はるか昔に投下した質問に対して回答して頂いた事が数度あります。 この時に計三冊の書籍を紹介して頂きましたが二冊は廃刊になっており、一冊(「心の神経生理学入門」ケヴィン・シルバー著(新曜社))しか入手できませんでしたが、こちらを読んで勉強しています。 というより、こういった内容を分かりやすく噛み砕いて説明して頂ける事が非常に助かっています。 重ねて御礼申し上げます。 ---- また、他でも別カテゴリーで質問しているのですが、回答者の方からruehasさんの回答を紹介されました。 非常に分かりやすく、とても参考になりました。 ここで思った私の乱暴な雑感: ・ruehasさんの回答は日本社会の知的教養のインフラとなりつつある。 ・もう大学なんて要らない。 毎回詳細な回答を頂いて有り難い事この上無いのですが、察するにかなり回答に時間を割かれていると思います。 あまり無理をなさらぬよう、ご自愛下さい。

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その他の回答 (2)

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.2

こんにちは。 他者との意思疎通が計れませんと誰でも不安を感じます。意思疎通といいますのは即ち我々にとって不安の解消であり、これそのものが報酬となります。 他人の心の中を覗いて見ることはできませんので、我々は相手の言動や行動からその心情を読み取ります。これを「情動理解」といいますが、これによる「非言語コミュニケーション」は人間以外でも多くの動物に見られ、動物同士はこれによって「安全・危険」を判断しています。ですから、ここで安全と判定されますならば不安は解消され、脳内には報酬が獲得されることになります。 人間が言葉を使うようになってからもこのような非言語疎通の重要性は全く変わりません。初対面の相手を笑顔で安心させようとするのは、我々の脳にその反応がしっかりと引き継がれているからです。 このように、動物がコミュニケーション行うのは、それそのものが不安の解消に繋がります。動物に自分の気持ちが伝わらないからといっていちいち不安を感じるひとはないと思います。ですが、言語疎通のできない動物とのそれは相手が人間である場合よりも何かと困難であるため、そこには「好奇心の達成」も伴い、より希少な体験として比較的高く評価されるのではないかと思います。

booter
質問者

補足

回答ありがとうございます。御礼が遅くなり申し訳ありません。 書くべきかどうか迷っていましたが書きます。 実を言うと心理学カテゴリーの方で別の質問「人は何故、愛に感動するのでしょうか。」という質問をしていました。ここで期待する回答を得られなかった為、視点を変えて動物レベルでの愛情というものは何なのかを知る事でこの問題を解決しようとしたのが発端です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5412343.html 私の中で愛とはなんなのだろうという事を生物学などのレベルで知りたいのです。 上手く言えないのですが、生物における愛とは何だろうと言った時、愛とは生物におけるDNAが出力する記号なのか、愛の感動とは入力信号に対する解析中で、自分の中に同じ信号があった事に対する、自己強化における感覚的な理解を示しているのか。それとも他の何かなのか、生物における愛とは何なのか。 この辺がもやもやしているのです。 もし、ご意見頂ける時間などありましたら、ご教授頂きたく宜しくお願い致します。

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noname#194289
noname#194289
回答No.1

動物は人と違って嘘をつかないことと、これに関連して言葉を使わないので自然現象の一部のような感じがします。そういう自然現象に自分の心が一致していることは、自分というものが独りよがりのことを考えているわけではないと思えるので大きな安心感あるいは満足感を与えてくれるのではないでしょうか。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自然と自分が一体になっている時の快感が、という事ですね。

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