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墓や先祖って世界共通のもの?

「墓や先祖を大事にすることは、世界的に見ても、文化、宗教を問わず、共通することである」 という意見がありました。 これは本当でしょうか。 つまり言い換えると、「墓や先祖を大事にすること」をしない文化や宗教は存在するでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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回答No.8

僕が3年暮らしたブータンでは、お墓はありませんでした。 遺体は焼いて、灰をダンゴにして川に流し、魚に食わせてました。 (偉い人の遺体は焼かずに刻んで山の上に置き、鳥に食べさせる) 要するに、輪廻を信じている(チベット仏教)彼らにとって、「祖先」と いうものは存在しない(今生きている人たちが祖先(の生まれ変わり))ゆえに。 その代わり、病院に勤務している協力隊員が検査のプレパラートにたかった ハエをたたいたところ、同僚から叱責されたという‥‥「病院に来るハエは、 何らかの罪で人間に生まれ変われなかった人が、病気の家族が心配で見に来た 可能性があるから、絶対に殺しちゃダメ!」という訳で。 実は、僕も製図室で図面にたかったハエをたたき殺したら、室内の空気が凍りつき、 部下がそっと近づいてきて、小声で「サー、ハエを殺したら、その罪で百回ハエに 生まれ変わります」とアドバイスしてくれた経験があります。

jive
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 すごいお話ですね! 教えてgooも時々利用させて頂いておりますが、質問に対してこれほど的確かつ衝撃的な回答を頂いたことは(私の少ない経験では)なかったもので、内容的にもその意味でもカルチャーショックでした。論より証拠、「事実は理論をたおせるか(村上陽一郎)」、いろんなことを思いながら、ほんとびっくりしました。 「輪廻」と「先祖供養」がなんだか矛盾しているような、とは思っていましたが、ちゃんと矛盾しないようにできているんですね。 今回の私の質問は、「あてはまらないものは一つも存在しない」という話を否定できるかという質問でしたから、実にすっきりしました。 でも、そうするといろいろと、あれはどうしてるんだろう、という疑問が次々わいて出てきます。私は、ブータンやチベット仏教について勉強したくなりました。 どうもありがとうございました。

その他の回答 (33)

  • sheep67
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回答No.3

こんにちは。 墓や先祖を大切にしたくなる心理はなぜ起こるか? から始めていいですか? それは、「時間」にたいする依存心があるからです。依存というと失礼ですが、「悠久の時の流れを本質と感じる」そういう人間の性格、タイプがあります。 始まることも終わることもない無限と感じさせる時間は、この宇宙の基本的な要素の一つでもあります。そういう普遍性のあるものは、人間のよりどころになります。 そのタイプにとっては、時の流れ、それが具体的に身近な人に置き換えられたときの、先祖祖先、子孫、という概念は、自分のよりどころになります。 子々孫々や、千代に八千代に、という言葉も、時間の永遠性をよりどころにした言葉です。 神様系の宗教は、時の流れを重要視し、例外なく墓や先祖を大事にします。 でも、仏教や、老荘思想では、基本的には、考えの根幹としては、墓や先祖を大事にはしません。軽く扱うわけではありません。 ただ、過去や未来より大事なものがあるだろう?という主張です。 これはあくまで一番基礎になる考えは?ということです。 仏教でも何でも先祖供養もしますし、その意味では、大事にしない文化や宗教はないと思います。 でももっともその根幹に於いて、理論上墓や先祖を重要視しない文化や宗教はあり得ると思います。 そういう文化や宗教では、墓や先祖は、2番目あるいは3番目に大事にしているのでは、と想像します。 優先順位です。 人間社会はいろんなタイプが混じって生活してるので、実生活上、先祖を大切にすることを、否定するようなものは狭い範囲でしか成り立たないと思います。小さいコミュニティーとか。 世界宗教レベルの汎用性のあるものであれば、文化も同じですが、 そう言うところでは、大事にしない文化宗教はないと思います。 でも理論的根源に於いて、それを最重要だと見なさない文化や宗教は現実にあります。

jive
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 先祖供養が人の心のよりどころとなるというのはなんとなく誰もが感じますが、時間のとらえ方についてそのような背景があるというのはなるほど、と思いました。 墓や先祖への考え方は、意識されることはなくとも、その人の時間観と密接な関係にあることを感じました。 どうもありがとうございました。

回答No.2

墓を大切にするといった概念の対極として(誤って)捉えられがちな概念に 「千の風になって」 があります。 巷では「お墓にいないのなら、墓参りは必要ない」とか、いったレベルの反応をする人がいるようです。 この歌詞の成立に関しては諸説あるようですが、メアリー・フライの作というのが有力なようです。 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/Do_not_stand_at_my_grave_and_weep 1932年、メアリー・フライ(Mary Elizabeth Frye 1905 - 2004年、アメリカ合衆国 メリーランド州 ボルティモアの主婦)が書いた最初の詩とする説が有力。同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなり、しかし当時のドイツの反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかったことが原因で落ち込んだ彼女のために茶色の紙袋にこの作品を書いた。 <<< すなわち、詩が作られる過程で、戦争によって分断された肉親の墓前に行くことができないという事実を把握すべきでしょう。 すなわち、「そこ(墓)にはいない」という言葉になっているだけであり、「風にも雪にも鳥にも」という言葉の中には「墓にも」という言葉が、暗黙裡に入っていることを、深く観ずるべきでしょう。

jive
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「千の風になって」は確かにそんな風に解釈されてしまいそうに思えます。 ご説明頂いて、「墓を大事にする」ことを否定する歌ではない、というのがはっきりわかりました。 どうもありがとうございました。

  • cyototu
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回答No.1

この質問て、何か「自分を育ててくれた親を大事にすることは、世界的に見ても、文化、宗教を問わず、共通することである」という意見がありました。 これは本当でしょうか。 つまり言い換えると、「自分を育ててくれた親を大事にすること」をしない文化や宗教は存在するでしょうか。 と聞かれているみたいで、はあ~~?って言う反応をしてしまいました。この質問に対して、質問者さんはどうお考えですか?

jive
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに、そうとも読めないことはない文章ではありますが、「親を大事にする」べきかどうかなど、自明であります。 回答者様は、「墓や先祖を大事にする」ことが「親を大事にする」ことと切り離せない関係にある、という認識にあられたので、そうお疑いになったのではないかと愚考します。それは当然の感覚だと思います。 私は、文化や宗教によっては「墓や先祖を大事にする」習慣がなかったりということが、けっこうあり得ることだと思っていました。 当然、そういう文化や宗教に置いては、「親を大事にする」ことは別の世界観、習慣によって充足されているはずです。 ですから、「墓や先祖を大事にする」ことの絶対性の検討は、私にとって、「親を大事にする」ことの絶対性の検討には当たらない、というわけなんです。そんなわけで、「親を大事にする」べきかどうかを議論しようとしているわけでは当然ありません。 どうもありがとうございました。