- ベストアンサー
女神について
女神というのは、多神教の考えに基づくという理解であっていますか? その場合、一神教の人々にとって 女神という言葉はどう感じるのでしょうか? 理解できないもの?おかしな考えのもの?別に気にならないもの? どうなのでしょうか。 ほかの宗教に排他的なアメリカのキリスト教徒さん達が、 自由の女神をおかしいからやめろ、っていうのも 聞いたことがないので、どういう位置づけなんだろうと 思いました。
- みんなの回答 (20)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
つい1ヶ月ほど前まではなんちゃって神道(墓参りにも行くけどあまり重要視していない、 時間がある時に神社を見かけるとお参りするし、年始にお札をもらって部屋に祭っていた程度)でしたが、 今はカトリック教会に通って勉強中の者です。 まだまだ知らないことばかりなのですが、意見を書かせていただきますね。 > 女神というのは、多神教の考えに基づく そうともいえないと思います。 ここは詳しくないのですが、昔は大地の女神や豊穣の女神などの女性神だったりすることもあり、 それが一神だった可能性もありますので、必ずしも多神教とは限らないのでは?と思いました。 > その場合、一神教の人々にとって > 女神という言葉はどう感じるのでしょうか? 今の私は一神教の人なので一般的に女神といわれる存在を神様だとは思っていません。 しかし、女神を信仰する気持ちや態度を尊重しているという感じです。 > 自由の女神をおかしいからやめろ、っていうのも > 聞いたことがないので キリスト教(特にカトリック)の場合、もともと女神信仰がある国に布教する際、 それまでの宗教を完全否定すると反発が大きいので、容認したり取り込んでいる感じです。 でも、神様ではありません。 ちなみにNYにある「自由の女神」は英語で「Statue of Liberty」=「自由の彫像」、 「Liberty Enlightening the World」=「世界を照らす自由」なので、 象徴とは思っても、女神として崇めている人はもしかしたら少ないかもしれませんね。 それとマリア様についてです。 マリア様は女神ではありません。 イエス様を産み、昇天された人間として尊敬しています。 マリア様は神様の近くにいらっしゃるので、 神様へのおとりなしをしてください、私達と一緒に祈ってください、 というお願いを、マリア様の像の前などでお祈りします。 ですので、マリア様だけに対してではなく、マリア様を通じて神様にお祈りしているのだといえます。 以下、マリア様へのお祈りの言葉を一例としてあげますね。 聖母マリアへの祈り 恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます。 主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。 神の聖母マリア、罪深いわたしたちのために、 今も、死を迎えるときも祈ってください。
その他の回答 (19)
汎神論は汎神論であって それ以上でもなければそれ以下でもない。 日本が一神教であったというのは明治維新における操作だ。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.9です。 >女神というのは、多神教の考えに基づくという理解であっていますか? 合っているとも合っていないとも言い難いです。 えっと、日本の天照命は女神とされますよね。 日本には八百万の神々がいるから多神教? いえ 一神教です。 古事記を読むと、1神が消えて3神が現れ、3神が消えて・・・ってどんどん増えていってますが、側面にすぎないんです。 神は多面的。 その一面を別名で呼ぶと、まるで別の神が新たにいるかのようになっちゃう。 新しくできた神じゃなくて、その一面を知ったことで、前から存在していたのに、存在していなくて新しくできたって勘違いしただけ。 インド神にブラフマー・ビシュヌ・シヴァってあったと思いますが、カーリー・マーの別の面にすぎない。 本名はカーリー・マー。 で、何で多神教=女神って連想しやすいのかと思ったが、こういうことでしょうか。 初源の神は誰とも性交せずに自らを創造した。だから処女にして(自らを)出産した永遠の処女の神。 で、自らをも創造できちゃうので、創造をする能力が備わっているわけで、じゃんじゃん 神々を創造していった。 たくさんの神がいるかのようになった。 人々は一つから出でた神々をそれぞれ信仰したので、沢山の神を信仰していることになった。 多神教。ってこと? んー でもあなたは、たくさんの神々が実は同一だってことは知らなかったでしょう? 初源の神。 バビロニア地方の神話だとティアマートがそれにあたり、キリスト教だとマリア。 マリアは神じゃないじゃん? んーー 概念でいけば女神です。 乙女座ってありますよね。 マリアはあの星座のことです。 昔の人は星座をみて物語を作ったんですね。 その一つがイエス物語。 処女宮(乙女座)はヘブライ語だとベツレヘム(パンの家)に当たる。 だからイエスは他でもなく<ベツレヘムで生まれた>って作者はしたわけです。 なんで、作者は乙女座を源、創造主にしたのか? 乙女座が天空にある時期が、実りの時だから。 乙女座が植物や動物をはらぼてにするって考えたみたい。 収穫の時期に夜空に現れるから。 小麦がたくさん取れたら、パンいっぱい焼け多くの人の飢えが満たせるでしょ~。 イエスがパンを5つに分けたってのも、よく見える星が5つだから。 で、キリスト教の国でも、今でも古代の女神崇拝の名残が残っていますよね。 知らない? えっとですね。 例えばハロウインとイースターとかクリスマスとか、もしかしたら全部のキリスト教の風習が多神教の風習だったのかも。 つまり キリスト教はたくさんの女神を崇拝している多神教? うーんと 女神の名前が違うのでたくさんいるようですが、結局地域別の神の名称は違えど、実は一緒なので、日本が多神教と誤解されるようなものと一緒で、信者にも誤解されているんです。 たった一つの女神を信仰しているんです。 イエスってのは女神の一面。 つまり人間の智恵の一つ。 自由の女神ってのは、、、 アメリカ政府は国民一人一人に自由を保障しているが、ただし<義務を果してこそ> 自由を主張できるってしているんです。 自由を主張できる国が存在してこそ自由でいられるので、自分が自由を主張することができる国を守る <義務を果たしたもの> のみが、権利を主張できる ってしているんです。 アメリカは石油が取れますが、主に輸入にたよっている。 砂漠の国が主に石油が取れますよね。 で、ある国を無理やりイラクとクエートに分断し、クエートを西側が自由にできる国にしたわけです。 でも、取りすぎて石油が枯渇した。 他の石油原産国はいい値を吊り上げてきて、今までのような価格で買えなくなったわけです。 すると、今までの価格で経済がなりたっていたアメリカは、不況になるわけです。 車社会ですから、ガソリン価格が跳ね上がり、生活費が前よりかかるし、商品も石油で製造していたら、今までの値段なら赤字になりますし、第一消費が落ち込む。 消費が落ち込めば売れずに、失業者が増える。 で、解決は又原油が取れる国をアメリカが自由にできるようにするってことです。 何十年も前からネタを仕込んでおいて、イラクを煽ってクエートに侵攻するように仕向け、経済封鎖を世界にさせて、音を挙げさせようとしたが、イラクは耐えた。 では次~、って仕込んでおいた次の作戦で、乗っ取り戦争を起こした。 まあ アメリカの悪智恵の方が日本の智恵よりすごいので、日本もかつてははめられて第二次世界大戦やっちゃったわけですが。 日本、イラクと悪智恵でぶっつぶして猛進撃のアメリカを支援するのが、自由の権利を主張するアメリカ国民なんですね。 これがアメリカ人の真の信仰だとしたら、ものすごく怖いですねぇ。 自由の女神とは、アメリカ国民の他人を殺してでも自分は幸福になっていいんだって思想のシンボルだとしたら、恐ろしい宗教だと思います。 で、同時多発テロの時、経済の象徴のビルを壊さず、自由の女神の像を破壊していたら、どうなってたなろう って思います。 アメリカ政府がやったテロという見方が強いので、人殺しをしても自分の幸福を希求するって人が、その思想のシンボルである自由の女神を破壊するなんてことはないですね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
なるほど、数学で言う無限は無限ではないと言うのですね。途轍もなく難しい。リンゴはリンゴでなくて、ミカンなのだと言われているみたいで、禅問答みたいで、やはり、は~~?ってな感じですね。だったら、リンゴと言わずミカンと言えば良いのに、と言いたくなるのは、私だけではないと思いますが、如何なものでしょうか。それとも、数学が無限というからいけないとでも言うのでしょうか。 あっ、そうか、きっと「哲学とは言葉で理解できるものではない。だから、言葉を弄んでも意味がないのだ。言葉を使って理解しようなんて、そして、理路整然と論述して行けば判るなんて、そんな未熟なレベルでいるな。無限は無限であって無限ではないのだ。無限が奇妙奇天烈摩訶不思議であることが判らんのか。女神もそう言う観点から捉えなくては行けないのだ。要するに、女神とは、女神であって女神ではないのだ。おぬし、公案の何たるかが判っておらんのか、喝」という深遠なメッセージを伝えたかったのですね。こりゃ一棒吃しました。参った参った。合掌。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.10&12&14です。お騒がせしております。 ○ 《無限ないし絶対もしくは神》については 先験的ないし超越論的に 初めにすでにあったと言って導入してもよい。 ☆ のだと考えますが ○ 神は 神として想定するものだ。 ☆ というふうに あと付けとしてでも定義したほうが一般的だと考えます。 ○ 無限については もしそれが数えられるとすれば――つまりあるいは 要するに象(かたち)に表わされ得るとすれば―― それは経験世界における事物であるということになります。表象し得るということは そういうことですから。 ○ その神としての無限については それを仮りに二分割しても三分割しても それぞれの部分はやはり無限であるという定義に従います。これが何かと言っても 表象し得ないはずです。わづかにこの経験世界を超えたところに想定するのみです。 ○ もし無限という名で 経験科学的に解明され切ったとするならば その解明されたものごとは すべて経験世界に属するものです。つまり 神ではありません。表象し得たなら そのものは 無限ではなく神ではありません。 ☆ むろん唯一神の分身としてのごとき多神としての経験的な現われが想像されているように――つまりたとえば 太陽や月だとか雷だとかあるいはひとの知恵や運命の女神だとかのような経験的な事象としての現われですが この現われとしての神々が想像されているように―― この唯一神としての無限も その同じ言葉で 経験的な事象を表現することがあります。 ○ 《可能無限》というのは 1,2,3、・・・と続けて限りなく数えていく場合の無限です。これは n と表わそうが 無限大や無限小として表わそうが なおまだ表象し得ます。どこまで行っても象があります。ゆえに 神としての無限ではありません。 ○ 要するに人間の経験合理性の及ぶ範囲を超えているところに――もしくは そのところ自体を――神を想定しますし 神と呼びます。 なんでこんな七面倒なことを持ち出すのか。 それは 《かみ》なら神という言葉を持った昔の人に訊いて欲しいのですが たとえばその答えは こうなります。 人間は 朽ちるべきからだを持ち 移ろい行くと言わざるを得ない気持ちをもてあそび その能力や努力に限りのある精神をともなって生きるそういうこころの生物であると知ったからでしょう。 ○ かみをおそれよ。かみへの畏れがきみの知恵の始まりなり。 ○ しかれども そのかみの霊がわれわれに宿る。 ○ かみは愛なり。 ○ ・・・ ☆ といったふうに じんるいはこれまでにいろんな命題を残して来ましたね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
すみませんが、無限が《非思考》だという主張は間違いですので、一言。女神についての認識が、その主張とかかわっているという方が居られますので、以下のコメントはここの質問に関して関係があると思います。 >《無限》は 数えられませんし 分割できません。仮りに分割できたとしても その半分も無限ですし 三分の一も無限だということです。これが《非思考》というゆえんです。経験世界の概念である有る・無いを超えています。つまり数えられません。 そんなことありません。無限という概念は数学的に厳密に定義されており、そして、徹底的に分類されております。そして、その数学的思考の下に、数学はとても深いレベルで発展してきております。哲学とは愛智とも呼ばれるくらいですから、哲学に興味を持たれる方が、人類の思考の到達した記念碑的な認識を無視するわけには行かないと思います。そうでないと、カレー粉が入っていない料理を食べさせられたのに、今食べたのはカレーライスだと思えと言われているみたいで、は~~?ってな感じで目が白黒してしまいます。 ご存知のように、無限には可付番無限、連続無限、、、と順序付けされた分類がある。読んで字の如く、可付番無限は番号付けができ、数えられる無限のことですね。一方、連続無限は数えることができない無限のことですね。無限の大きさに付いても、数学では厳密に定義されたアレフと呼ばれる超限数によって、大きさ乃至濃度の順序付けが出来ることもご存知でしょう。また、この順序付けで、一番小さい(数の少ない)無限である可付番無限の濃度アレフ0とそれより大きな無限である連続無限の濃度アレフ1の間に、果たして、その中間の大きさの無限があるかと言う、所謂「連続体仮説」の問題を廻ってのゲーデルの業績は有名ですね。また、連続無限の存在の認識がなかったら、微積分も超関数論もその論理的な基礎を失ってしまいます。したがって、我々が埋め込まれているこの世界を論じるのに決定的に重要な量子力学の論理の中で本質的に重要な道具として使われている、ディラックのデルタ関数も意味をなくしてしまいます。ですから、無限が思考で出来ないと言う主張は、数学は思考の対象ではないというに等しい、したがって、人類の知的文化に挑戦している主張に聞こえて来ます。 このように人類は無限に関してとても深い思考を行って来ており、理性のある何人にも否定できない成果を上げて来ております。哲学は学問であり、むかしソーカルさんも言っていたように、雰囲気で言葉を恣意的に羅列しているものではありません。ここが文学欄だというなら、私がここで述べたようなことも言いませんが、哲学欄は雰囲気ではなくて、それ相応の論理的整合性が要求されますし、たとえ論理的に表現しきれなくても、それに努力をしていると言うことが伝わってくるような論旨の展開は必要だと思いますので、一言コメントさせて頂きました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.10&12です。 《〈神〉の想定》について ○ 無限 ☆ を例にして捉えると分かりやすいでしょう。なぜなら ○ 《無限》は 数えられませんし 分割できません。仮りに分割できたとしても その半分も無限ですし 三分の一も無限だということです。 ☆ これが《非思考》というゆえんです。経験世界の概念である有る・無いを超えています。つまり数えられません。 また 《唯一》というときその《一》は 《全体》という意味です。それゆえ 多数の分身としての神々を 初めの想定からみちびき得ます。そのぎゃくは あり得ません。 多神から唯一神をみちびく謂われはないのです。《多数》という数えられる一定の数は 経験世界のものだからです。みちびくことはできません。相対の世界をいくら重ねても どこまでも相対の世界だからです。 想定することも虚構をつくることだと言えば言えますので その意味で《想像》という要素が入っています。ただし 《非思考》をじつは想像することは出来ません。 経験思考を超えているという定義は定まります。これは《想像》の問題ではないのです。 仮りに分割しても その半分は元の無限であるという無限は それとして定まります。想定なのです。想像はそのあとの出来事になります。 もし《無限あるいは非思考》が人間の経験合理性によって概念として――つまりあるいは 想像力によって表象しうるものとして――捉えることが出来たとすれば どうなるか? どうもなりません。表象しえたその概念 これは 無限でも非思考でもないという定義がどこまでも有効です。表象し得ないなぞを 神と想定するものです。表象し得たなら それは 神ではありません。 それでも人間は そのあとこの神について 想像をたくましくするようです。仮りの名前をつけたりするようです。ブラフマンとか。ヤハヱーとか。無量光(阿弥陀)とか。・・・
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
こんばんは。 以下の言葉の流れの展開もありそうですね。 女神 、一神教・多神教 、キリスト教について知ろうとすれば、結局《神》とは何かについて明らかにしなければなりません。 と)神は、神として想像したものです。 う)想定ではありません。あるか無いか分からないので、神のイメージを神なら神ということばをもって《想像》しました。想像したあと、特に《神はある》という立ち場からは、その神についてひとはいろいろと想定するようです。 じ)繰り返すなら、分からないから想像したものです。従って神は《非思考》であり、、、《なぞ》であり、《虚構》であり、《無根拠・非経験・超経験・無限・無限小・永遠・刹那》等々のことです。あるいは 《絶対》であり同時に《相対》であると想像することです。 ん)想像したあと、ひとはいろいろ想定するようで、それが《ある》つまり有神論と、《ない》つまり無神論とに分かれました。 の)有神論も無神論も、思考と同時に非思考です。有るとか無いとか言うのは、仮りに人間のことばでそのどちらかに表わすだけのものです。 ね)有神論にしても無神論にしても、その《かみ》は、実際には《分割》でできるか出来ないかが分かりません。となると、この場合にもいろいろな想定をして、一神教か多神教かに分かれたようです。どっちつかずの汎神論という見方も出ています。 ご)でも《かみ》はひとが勝手に想像したものですから、厳密には、数えられるか数えられないか分かりません。数量の問題であるのかないのか分からないのです。したがって多神教を言う場合には、同じひとつの《かみ》が多くの分身に分かれたという解釈もあるようですが、また、はじめに多くの神を想像して、それを勝手に一つに統一したという解釈もあるようです。(どちらであるかを決定しようとする場合は、単なる文学的表現つまり虚構として想像したものを自由勝手にいろいろと想定しているだけの話です)。 と)ですらか女神は、、、、 どうでしょう。一寸ソーカル的ですが、女神についての一つの意見に対して、その正反対の意見も出て来ましたね。どうします。 哲学を考えるときの参考にして下さい。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.10です。お応えをありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 多神教の神々が唯一神の分神、というところが 初めてお聞きした考え方です。 一般的なものなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 初めの《神の想定》に立つなら そう考えなければ辻つまが合わないという意味です。どの宗教ではどうでこの宗派ではこうだという考え方にこだわらず 一般的に考えるならそうなるという見方を述べました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 女神というのは、多神教の考えに基づくという理解で あっていますか? については、 Yesということでよろしいのでしょうか(No.12より)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですが 女という性別を持ち出すのは いかにも文学っぽいという意味も含まれます。虚構という建て前の上では 何を想像してもゆるされるという前提になっているからです。 もしくは いわゆる神話や伝説において――つまり《神の想定》とは関係なく 人間や人間の想像物を《神々》として物語を編んだ話においては―― 女神も男神も何を出しても自由です。哲学の知ったことではありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ で、 その場合、一神教の人々にとって 女神という言葉はどう感じるのでしょうか? については、いかがでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから哲学の観点から言えば すでに述べたことが一般的な見方になると思います。言いかえると そうでない観点からああだこうだと言っても それは 文学作品を自由にああだこうだと言うのと等しいという意味です。つまりそれは趣味の問題になります。一般性がないという意味です。 次の問いについても 同じ答えになると考えます。前半が哲学の観点からの問題です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 多神教の神々が唯一神の分神ということで あれば、結局、女神(といわれている存在)も 唯一神の分神なのだから、 それほど気に障るものではないということでしょうか。 カトリックではうんぬんという 別の方のご回答もありましたが、 それとは、解釈が違うんだ、ということでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 後半は《異端》かどうかの問題だというよりも 《女神》はそれじたいを取り出すなら 《神》ではないということが明らかです。《神の想定》の中に取り上げて初めて意味を持ちます。 ただし イエスの母のマリアは あたかも《女神》と言いたくなるほどとうとい存在だとたたえているだけのことです。かのじょは人間です。神ではありません。 (ただし 人間にも神の霊が宿るという話を持ち出すなら またそれは別の話になります。類型的に言って 人間は誰もに仏性があるというたぐいの話です。でも 人間が神そのものになるわけではありません)。 (しかもただし イエスという人間に限っては 初めの《神の想定》からさらに進んで 人間であると同時に神でもあるというドグマに発展しています。ドグマというのは 論証が不可能だからそう言います)。 ☆ 《女神》という規定は 哲学の観点からは 無意味です。哲学の観点を ふつうの信仰はないがしろにすることはありません。できないでしょう。どこかの宗教でもしこの信仰と哲学の原則をないがしろにするならその場合は 放っておきましょう。われわれとしては 原則を明らかにしておけば済むことでしょう。 * どの宗教のどの宗派がこれこれのように説いているという問題については わたしはあまり詳しくありません。ですが ここに述べた一般性を持つ見方から逸れる場合には あまり取り上げる値打ちがあるものではないと考えますが どうでしょうか? * ことばによる表現は 何とでもなるという問題もありますよね。かみにしても 女神にしてもです。字面で判断するのではなく はじめの《神の想定》にもとづいてあつかうようになさってください。けっこうきれいに仕分けできると思いますよ。
現実的に考えましょう。 個人的経験から言うと、 女神にはあったことがあるとおもいます。 でも父なる神はいない。あったことがない。 「神」をかたる奴は、臭いだけ。「神」をかたる臭い奴には、会ったことがあります。 これが現実です。 この現実を捻じ曲げようとするのが、邪な宗教です。 だから屁理屈になる。 そういうことです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 女神 / 一神教・多神教 / キリスト教 ☆ について知ろうとすれば けっきょく《神》とは何かについて明らかにしなければなりません。 1. 神は 神として想定したものです。 2. 想像ではありません。あるか無いか分からないので 神なら神ということばをもって《想定》しました。想定したあと 特に《神はある》という立ち場からは その神についてひとは大いに想像するようです。 3. 繰り返すなら 分からないから想定したものです。従って神は 《非思考》であり 《なぞ》であり 《無根拠・非経験・超経験・無限・永遠》その他その他のことです。あるいは 《絶対》という想定のことです。 4. 想定したあと ひとは想像をたくましくするようで それが《ある》つまり有神論と 《ない》つまり無神論とに分かれました。 5. 有神論も無神論も 非思考です。有るとか無いとか言うのは 仮りに人間のことばでそのどちらかに表わすだけのものです。 6. 有神論にしても無神論にしても その《かみ》は 実際には《分割できません》。できるか出来ないかが分かりません。となると この場合にも 想像をたくましくして 一神教か多神教かに分かれたようです。どっちつかずの汎神論という見方も出ています。 7. でもげんみつには 《かみ》は数えられません。数量の問題ではないからです。したがって多神教を言う場合には 同じひとつの《かみ》が多くの分身に分かれたという解釈をするようです。(しない場合は 単なる文学的表現つまり虚構として自由に 想像しているだけの話です)。 8. あるいはまた この《非思考のなぞ》に地球上の生物に見られる《性》が存在するか。これも想像したわけですが この問題はさすが 無理です。唯一のかみが 多くの分身に分かれて現われるといった想像はまだ初めの想定を逸脱しないのですが かみが男か女かを想像して決めるというのは 無理です。 9. なぜなら もし仮りに男だとすれば そのように性を持つ存在は この世の経験的なものであるからです。この経験世界を超えたところに想定したかみが もし男だったら それは 経験世界に属する存在であることになるからです。 10. かみの世界にも この人間の世界と同じように――あたかも同じように つまりまた男女両性なのかどうかを別としてでも同じように――性があると想像することも出来ないのか? 出来ても意味がないからです。人間の性の経験現象を超えているからです。想定の意味がなくなります。 11. 超えていないと言おうとすれば それは《かみ》を想定する意味がなくなります。せいぜいが英雄であるとか鬼であるとか 場合によっては聖人であるとかのことになります。これらは神ではありません。人間かもしくは人間の想像の産物です。想定する神のことではありません。 12. ★ 自由の女神――☆ これはどうか? 多神教の神々が唯一神の分神だと想像した場合に しかも《知恵や慎慮もしくは運命》だとかあるいは《自由》なら自由といった概念が その神々のひとりにあてがわれたということですが。このときけっきょく 女神というように女性であったほうがおもしろそうだとでも思ったのではないでしょうか。つまり文学的想像の問題です。それ以外のことではありません。 13. ★ 女神というのは、多神教の考えに基づくという理解であっていますか? ☆ したがってこの場合には 想像を二段階経ているようです。(1) 唯一神→多神教の神々。その神々の一つひとつに 自由なら自由をあてがう。(2) そのあとさらに この自由という分神は 性としては 女であると――これは勝手に――想像する段階と。 14. なお クリスチアニスムの神は 三つの顔を持っていて そのひとりに《父》という言葉をあてはめています。これは だったら性があるぢゃないか? というのですが もちろん仮りの表現です。 15. 父と子と聖霊の三つの顔であるわけですが その中の子に対して親であることを言おうとしています。母でもいいわけです。ですがそれら以外に親をあらわすには言葉がないということです。(仮りにあらわすのなら 中性つまり両性いづれでも表わし得るところの《親》という言葉よりは 直接にひびく父なら父という言葉を用いたと考えられます)。 まだ問い求めを――三位一体についてなど――お推し進めになるかと思いますが とりあえずここまでです。どうでしょう。
- 1
- 2
お礼
ご回答ありがとうございました。 多神教の神々が唯一神の分神、というところが 初めてお聞きした考え方です。 一般的なものなのでしょうか。 女神というのは、多神教の考えに基づくという理解で あっていますか? については、 Yesということでよろしいのでしょうか(No.12より)。 で、 その場合、一神教の人々にとって 女神という言葉はどう感じるのでしょうか? については、いかがでしょうか。 多神教の神々が唯一神の分神ということで あれば、結局、女神(といわれている存在)も 唯一神の分神なのだから、 それほど気に障るものではないということでしょうか。 カトリックではうんぬんという 別の方のご回答もありましたが、 それとは、解釈が違うんだ、ということでしょうか。