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読書家は昔から偉かった(?)のでしょうか
某サイトで、自称読書家がやたらと本を読まない人を馬鹿にしていました 突っ込みたいところはたくさんあるのですがそれはおいといて そのサイトを閲覧していて、昔読んだ『坂の上の雲』に、登場人物の一人が、貸本屋に本をたくさん借りていることを恥じる描写があったのを思い出しました 今は読書家は偉い、というように考える人がいますが、昔はむしろ逆だったのでしょうか また、もしそうだとしたらいつからそのような風潮ができたのでしょうか 回答おねがいします
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「昔」のことは、その昔の人らに尋ねてみないと分かりませんが 当方なぞは学生の頃から、読書してると、親にも友人にも「また本ばかり読んで!」と叱られましたがね。もっとも、このあとに続く言葉は、親の場合は「(受験のための)勉強しろ!!」だったし、友人の場合は「遊ぼう」だったけど。 > 今は読書家は偉い、というように考える人がいますが、昔はむしろ逆だったのでしょうか また、もしそうだとしたらいつからそのような風潮ができたのでしょうか 昔、と言ったって、当方は歴史なんかに関しても殆ど知らないから、ごく大雑把にしか言えないけど、「論語」なんかは、武士階級などの子弟の必須教養科目みたいに扱われてたらしいとは聞きます。 反面、こんにちの小説の母体とされる草紙もの、「戯作」と呼ばれたもの、こういうのは、どんなにたくさん読んだって、あくまで娯楽だったでしょう。 少し時代を遡れば、こんにちでは大なり小なり憧れを感じさせる趣きのある「作家」「小説家」なる名称も、「戯作者」と呼ばれ、むしろ軽蔑の対象とされていた時代もあったそうです。 自分は『坂の上の雲』読んでないし、 > 登場人物の一人が、貸本屋に本をたくさん借りていることを恥じる描写があった というのも、作中のその箇所の前後文脈を知らないので、何ゆえ「恥じる」のかは分かりませんが(本を買う金銭に乏しいこと、あるいは、娯楽に耽溺してることの証みたいな意味で恥じてるのかな?) 読書といっても、何かの専門的学術書もあれば娯楽小説もあるし、いろんな分野があるわけですから、結局、それらを膨大な数読んで、どのように役立っているのか、で偉いだろと誇ることができるか否か、ということになるかな。 それだと、「本を読まない人を馬鹿に」するのは、役立たずだからだ、と言う意味で馬鹿にしてるわけなんだろう。 たしかに、単なる知識を掻き集めるのが好きで膨大な読書量を誇り、その一端を、こういうサイトで披露することに生きがいを見出してる人も見かけます。その披露が、他人の役に立ってるなら、それはそれで結構なこと、しかし何でもそうなんだけど、それを自慢するようになったら、人格とか品性の点で、なんだかなあ...と思われてしまうのも、よくあることのようです。読書することで、精神修養度が下がるというのも、おかしな話。 たくさん読んで、それらの内容を的確に記憶にとどめる、より高次には、深く消化することができてこそ、他人の役に立つ。それは、知能の高低にもダイレクトに関わるから、尊敬も得やすいだろうし、自慢したくもなるかもしれない。だけども、知能指数が高いイコール人間性のレベルも高いか、というと、そうじゃないだろう。 質問者さんが > 某サイトで、自称読書家がやたらと本を読まない人を馬鹿にしていました ということに、反感めいた思いを抱かれたとしたら、そのへんに引っ掛かりを感じたからではないですか?
>登場人物の一人が、貸本屋に本をたくさん借りていることを恥じる 何で恥じているのか、突っ込むのならこのあたりをもっと突っ込んで欲しいですね。 >今は読書家は偉い、というように考える人がいますが、昔はむしろ逆だったのでしょうか 両方とも質問者様が提示される現状では、検討に値しない設問のように思います。 膨大な蔵書や作品のスタイルを見れば、司馬遼太郎さんも大変な読書家であられたようです。読書家をからかうような文章は書かないのではないかと思いますが、どうでしょうか。 昔は読書=勉強 だったと思いますが、今は楽しみの一つに過ぎません。その他にも昔と今との差というと、本の普及の割には読書家といえるひとが比較的少なくなっただけではないかと私は思います。もっとも、尊敬されるほどに希少価値が高まったとは思いませんが。 あれやこれやで、今のほうがむしろ”読書家の位”が落ちているのか?あまり偉くはなくなっているのか、とか思ったりします。 個人的な感想です。
- bakansky
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読書家が「えらい」ってことはないだろうと思います。 何をもって「えらい」とするかによっても違うかもしれません。 二宮金次郎みたいなのが「えらい」とされてたこともありますから(今も?)、読書する人は勉強家=えらい人、という感覚があったのかもしれません。 中国の科挙という、官吏の試験を受ける人は、とにかくうまい文章が書けることが大きな評価基準であったので、当然のように古典を読んだであろうとは思います。そこでは、えらい役人 = えらい人 = たくさん読書した人、という感覚があったかもしれません。 現代でいえば、よく勉強した人 = 高学歴の人 = 出世コースの人、という連鎖になるのかもしれません。 あくまでも「・・かも しれません」ということで、すべての人がそう思っているかどうかは別でしょう。 また、人は「えらい人」でなければならないのか、という疑問もあります。 読書家というものの「イメージ」が、「軽薄でない人」というイメージと重なるということもあるかもしれないです。 でも、やっぱり「立身出世」主義と結び付くような感じは拭えないですね。 私はわりと「読書」もするのですが、「えらい」と言われたことはないです。
- wanekoz
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あなたはフィクションと現実を混同しています。 ぜんぜん関係ありませんよ。 また、 その劇中でもそのキャラクタが標準の設定でも ないでしょう。 「某サイトで、自称読書家がやたらと本を読まない人を馬鹿にしていました 突っ込みたいところはたくさんある」 このサイトに関係ないので話題に出てくること自体おかしい。 「それはおいといて」 自分で出した話題を自分で退けていますね。 それは親しいものどうしの無駄話でしか なりたたないことです。 記述の種類や場の種類が理解できていない。 まず自分でよく考えることですよ。
- ml_4649
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少なくとも今のように多くのメディアが発達していない時代では、書物は知識や見聞を習得するツールですから、偉いか偉くないかは別にして人から話しを聞く以外の知識を広げる唯一の手段であったと言えると思います。 偉いか偉くないかはそうやって習得したものをどう生かしたかで決まる気がしますから、「読書家=偉い」は100%ではないと思います。 「劉邦元来書を読まず」と言う言葉があるように、必ずしも書物が偉い人の必要条件でもないと思います。 読書家の知識が読まない人に比べて広いのは至極当然のことで、そう言うところからの一般論であると思います。 読めば偉くなれるなら誰でもなれますから、そんな公式があるとは思えません。