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古文文法と古文の文脈
よく、助動詞の意味の識別で「文脈で判断して・・・」などという定番のワードが参考書などで頻繁に目にしますが、「文脈で判断する」というのは、お話を読んで、その内容わかることが前提ですよね?そもそも、文法を学べば、文脈、内容が分かるというのが古文の勉強ではないのですか?違うのだとすれば、古文はどういう勉強が必要となってくるのでしょうか?(当然単語の学習もですが)
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- kogotokaubewe
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文脈をとらえることと、文法知識を当てはめて細部の解釈ができることとの両方がきちんとできてはじめて、文章が正確に理解できるということだと思います。 次のような古文があるとします。 煩悩を捨て「ぬ」ぞ悪しきことなり。 「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形ですか、打消の助動詞「ず」の連体形のどちらでしょうか。 文法が分からなくても、「煩悩は、よくないもの」という認識があれば、「『煩悩を捨ててしまうのは悪いことだ』ではおかしい。『煩悩を捨てないのは悪いことだ』と解釈すべきだから、答えは『打消の助動詞』だ」と見当が付きます。 文脈をとらえる力があれば、細部の意味は文法的には不明でも、おおまかには理解できるでしょう。 ところが、文脈次第では、たとえば、「欠点がある方が人間らしくてよい」という内容の文章なら、「煩悩を捨ててしまうのは(人間らしさを失うことになるから)悪いことだ」という話になる可能性もあります。ただし、その場合の表現は、 煩悩を捨て「ぬる」ぞ悪しきことなり。 になるはずです。 文法的知識がしっかりしていれば、「ここは、完了の『ぬ』の連体形『ぬる』だから、『~してしまう』だ」と判断がつきます。文脈もより正確にとらえられます。 細部が分かっても、全体が分からなければ、文章は正確に把握できず、全体が分かっても、細部が分からなければ、読み誤りをします。 全体が分かれば、細部が分かる。細部が分かると、全体が分かる。両方が必要で、どちらか一方通行ではないはずです。 もう一つ例を挙げましょう。次のような古文があるとします。 「都には行かじ」とぞ仰せられける。 「行かじ」の「じ」は助動詞です。意味はお分かりでしょうか。「打消推量」「打消意志」の2つがありますね。それでは例文の「行かじ」は「行かないだろう」「行かないつもりだ」どちらの訳がいいでしょうか。 与えられたのがこの部分だけなら、はっきりとした決め手はありません。 「行く」行為をする(しない)のは誰かはこの部分に明記されていません。 「仰せられける(おっしゃった)」という行為をしたのと同じ人物が行くのなら、自分のことですから、「行かないつもりだ」がふさわしいでしょう。他の人のことについて述べているのなら「(その人は)行かないだろう」が適切でしょう。(これも文脈に左右されますが、一般的にはそう言えます。) 文法が(この場合は、「じ」は「打消推量・打消意志」だということが)分かっても、文脈がとらえられなければ、きちんとした解釈はできません。 逆に、「行く・行かない」は誰についての話か見当がついていても、「じ」の文法的意味を、たとえば「過去推量」だと間違えて覚えていたとしたら、やはり正しい解釈はできません。 文法のテキストはお持ちだと思いますので、それを用いて文法の知識を確実なものにするとともに、授業で読む作品や問題集の文章をしっかりと読んで、文脈をとらえる練習をしっかりすることです。 また、現代文で培った文脈把握力は、古文・漢文でも有効です。現代文も手抜きをせずしっかりやることです。