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構成数学と異なり集合論は実在を語るというときその例は?
構成数学と異なりカントールヒルベルトの集合論数学は、実在を語るのでしょうか? 私には集合論数学も関係しか語らないように思えるのですが? 実在を語る例としてはどういうものがあるのでしょうか。
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補足:基本的にはNo.1さんが正しいと思います。普通に数学をやっている人のほとんどはこういう立場だと思います。むしろ、哲学的な実在論のようなことを考えるのをやめたことで自由さが増して、集合論を元にした数学が発展したという面が大きいと思います。 ただ、こういう分野の第一人者のひとりである数学者・論理学者の竹内外史教授が一般の人向けに書いた「集合とはなにか」(講談社、ブルーバックス)に、ツェルメロの集合論(さらには、それから発展した現代の公理的集合論とその上の現代数学)について、 (引用 p.105)---- <長所>集合とはなんであるのか?というような難しいことを考えない。したがって現実的で機能的で仕事をするのに都合がよい。 <短所>集合とはなんであるのか?という本質的なことを考えていない。したがって思想性を欠き、深い問題に到達しない。 ---- という見解を述べています。 ですから、数学者にも、もっと思想性や本質の探究も必要ではないか、と考える方もいると思います。
集合論では、無限集合が存在する、という仮定以前に、とにかく集合は(少なくともひとつは)存在する(空集合が存在する、と言っても論理的には同じ)、ということが公理として前提になってますね。 誰も、2つのリンゴや2人の人を見たことはあっても「2」という数それ自身を見たことのある人はいません。(「2」という「数字」はありますが、それは「二」とか「two」とかともあらわせますから、2という数を表す記号(数字)であって、数そのものではなさそうです。基礎論では別ですが)。チェシャ猫の笑いと同じで、猫がいなくなったのに笑いだけが残るか?というような問題とも関連してくるかもしれません。 一方、私も人間のひとりですからそのうち死にます。しかし、私が死んだからという原因で2+2=4だったのが2+2=5に変わるとは思えません。 ということは、もしかしたら、私の実在性より数の実在性の方がリアリティとして確かかもしれません。 単なる想像の産物だとしたら、数学をやっている人たちの間でコミュニケーションがほとんど成り立たないはずです。 仏教的にはすべては関係性から成り立っているかもしれませんが、数学では、数学的実体が存在する、という「前提」で話をせざるを得ないと思います。(しかし、それで結構うまくいっている、ということは、その存在性が単なる妄想とも言い切れないと思います。)
#1さんの仰る通りだと思います。数学には、もちろん実在を語る部分もありますが(初等的で具体的例:銭計算=小数点の位どり記法)、実在を仮定すると言うか、実在を「独断した」部分があると思います。良い例が「無限公理」です。 無限集合は存在する!. 無限集合なんて、誰も見た事ありませんし(見れたら有限)、その存在証明は、不完全性定理が許しません(出来たら矛盾)。 にも関わらず、無限集合を実数論などへの実用に供したという意味で、独断である「無限公理」は、非常に強力な公理だと思えます。 それで、やっぱり、#1さんの仰る通りだと思うのです。しかし、その技術的適用可能性を見抜く目は、やっぱり数学者のものだと思います。
- alice_38
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哲学方面の方が、 数学というと基礎論ばかりに興味を持つ理由は、 このような、数学ではないことを考えたいから なのだとは思います。 しかし、一世紀前ならともかく、 昨今数学をする人は、存在論に関りあうのを 概ね止めています。 量子論をする人が、解釈論に関りあうのを 止めてしまったのと同様、 それが、(哲学的目的は別として、) 数学を行う上では、何の役にも立たないからです。 お茶の話題や、随筆業のネタとしてなら、 また別ですが。 お好みなら、 「~は、~という条件を満たす」という形の定理を 全て「~は、もしそれが存在するならば、~という 条件を満たす」と書き換えてしまえば、事足ります。
お礼
コメントをありがとうございます。 存在論と解釈行為をやめているというのは発見でした。