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日本の風習的な意味での恥とは?
私は"日本の文化の"恥と言う言葉の意味が理解できません。 裸を見られた、プライバシーを侵害された⇒恥ずかしい これは理解できます。 例えば某漫画に出てきた 悪いことをした、こんな事をしたのは悪いことだ、罪悪感が沸く。 これは学ばなくても生まれついて人間が持っている感情なので誰でも理解できます。 しかし 悪いことをした、こんな事をして恥かしい? これが理屈でも感情的にも理解できません。 悪いことをしてなんで恥ずかしいんでしょうか? 悪いことをするのは恥ずかしいからでは無く罪だからいけないんじゃ無いでしょうか? 個人的な考え方ですが匿名掲示板やSNSの非公開コミュニティでオンラインゲームやウェブサイトの管理人、mixiのユーザーさんを隠れて誹謗中傷する様な人が皆の見える場所ではいい人の振りをしたり言いたいことがあっても当たり障りの無い発言しかしなかったり(そのあと匿名の場所で文句を言う) こういった日本のネットコミュニティの現状も村八分の時代からある こう言った日本の恥の文化の名残でしょうか? 匿名でなら罪を恥とも思わず名前等が出ていたら罪を恥と思う。 これが理解できません。 恥の文化に人一倍詳しい人は詳しく教えてください、こういった日本人(私も日本人です)に未だに残っている恥の文化がなぜ未だに生き続けているのか、どうやって恥の文化は生まれたのか、我々がどう考えどう行動し生きていけば恥の文化をネット上から取り除けるのか、あるいはそれは 不可能なのか、色々知りたいです
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世界中で日本人だけ、自我、自己、自分、に対する考え方、見方、扱い方が違います。これが、恥という行動に表れています。日本人は自我、自己は、恥ずかしいもので、他人には、みせてはいけないと思っています。中国の老子や、仏教の釈迦も、自我が自己が、苦しみの根本原因で、無我になれば、救われると言ってます。他方、外国人は、自我は、自己は、個性として表現して、他人に積極的に見せるのが人生だと思っています。この違いは、思考行動パターンの違いのためです。世界中で日本人だけが、思考行動パターンの基準が、情緒です。他方、外国は、アメリカでも中国でも、論理思考で自己表現です。だから世界中で、日本人だけ、特殊だと見られます。しかし新しい時代は、情緒思考の時代です。脳の論理思考の時代は、終わりました。日本が手本となって、情緒思考時代の人類を導きます。
恥の文化の中で生きる人は、自分のことを「士」「大夫」と言わないよ。 このコミュニティでも、恥を知っている人は自分のことを専門家と言わないよ。 外国人でも下層階級でも恥を知ってるよ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私の狭隘・浅薄な知識の中では、“恥”なることを風習的意味のなかで考える観念はありませんでして、先の二度ほどの投稿は位相が異なるかもしれません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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天皇は臣民に責任を負わない、ということか聡明にして日本と日本人の統合の象徴である昭和天皇陛下も、敢えてその道をとらなかった。 ここに侵略者連合国が利用する契機となられてしまった。 しかし多くの士は、恥をかかないように敢えて責を全うした。 死するときに死する。私はあの方々の死をそのようにとっています。 士は恥を死とします。士は身分であるかもしれないし、また自己に責任を持つものという、指導者たると自負するものだと存じます。 遠おつ国びともご登場され、恥を忘れるなとのおことばは、諌めとも思われます。 お国にも「士大夫三日読ざれば、・・」、「士大夫三日会わざれば」の故事も伝わります。 江戸の借用証書に「約定日にご返却いたさぬときは、お笑いください」とあります。 笑われるという事は最大の恥であり、それは笑ったものを両断するか、己が死ぬかどちらかであります。 あえてここで切腹しますといわずに、間接表現で「お笑いくだされ」というのです。 士は人前で涙をみせない。歯をみせない。 閑かさ、平常のこころを大事にしていた戒めだと存じます。 戦国時代の武士たちはまた別の意識と生活であったとは存じますが。
>悪いことをした、こんな事をして恥かしい? >これが理屈でも感情的にも理解できません。 >悪いことをしてなんで恥ずかしいんでしょうか? >悪いことをするのは恥ずかしいからでは無く罪だからいけないんじゃ無いでしょうか? 悪いことしたら、外国人でも恥ずかしいと思うよ。 家族が強盗や強姦をしたら、恥ずかしくて住んでられない。転居します。 日本人に恥の文化あったから、日本人立派だった。 これがないと世界最低の民族に落ちるよ。 外国人でも恥の文化少しあるからね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私たちは子どもの頃から、世間(ご近所や世の中)に顔向けできないことを恥だと教えられてきました。 話頭にのぼったり、後ろ指を差されたりすることにならないようにしつけるのが親の責任でした。 個性や反逆、謀反、そして反体制の思想や異端については二の次でした。 そういうことは、普通は、昔は通常の生活が許されなかったのです。 幕藩体制下の統治の仕方に由縁するからのように考えられてきていますが、私は古今東西、異端や個性そしてぬきんでることを危険とされてきている状況があろと存じます。 武士の恥は、死すべきときに死なないことです。 死すべきこととは、自分の理屈で考えるのでなく、ともかく死に繋がることを選ばないことが恥です。 庶民は義理と人情とやせ我慢がない奴は、風上の置かない。 それが世の規準であり、美であった。 見苦しい奴は鼻も引っ掛けない。 私たちの美的、倫理的観念を出発点にしていると存じます。 その中で抜きん出、改革し、個性的で、引っ張っていく。 進みすぎた時計も遅れた時計も、時計としては認めない。
- kentaulus
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私が子供の頃、よく大人から言われました。 「誰も見ていなくても、悪いことをすると お天とう様に笑われるよ。」 あなたは言われたことがありませんか? あなたの言う日本の風習的な「恥」とは、 「常に天があなたを見ている(観察している)」ということです。 「天」とは太陽であり、月であり、星であり、神仏でもあります。 誰も見ている人がいなくても、「天」があなたを常に見ている(観察している) だから「天」に笑われるような恥ずかしいこと (罪を犯す行為)をしてはならない と言う意味の言葉です。 悪いことをすると「天」に笑われる。だから恥ずかしい思いをする。 これが日本の風習的な「恥」です。 例えば、 隣の家の庭に植えている柿の木の柿の実が熟してとてもおいしそうだった。 あたりを見渡して誰も見ていないようだったので、 悪いことだと思ったが、誘惑に負けてこっそりと柿の実を取って食べた。 翌日になり、幼稚園の近所を歩いていると、そこに通っている子供が保母さんに 「先生、あのお兄ちゃん、柿の実を盗んで食べていたよ。」と告げた。 その保母さんは、以前から憧れていた独身の美女だった。 憧れの女性に告げ口をされ、恥ずかしくなって走って逃げた。 どうでしょうか? 小説風に書いてみましたが「恥ずかしい」と思う感情を理解できたでしょうか? 誰も見ていないと思っても、誰かが見ている。 誰もいなくても、常に「天」に見られている。 だから恥ずかしいこと(悪いこと)をしてはならない。 「恥」を知りなさい。(常に「天」に恥じることが無い行動をしなさい) 私が子供の頃は、幼稚園児の誰もが親や先生に言い聞かされていました。 今の教育では「道徳」の授業は無いから、 この言葉の意味を知らない人が多いでしょうね。