禅の「無分別」の意味
こんにちは。
禅でいうところの「無分別」の意味を教えてくれる人をご存知の方がいらっしゃいましたら、国内外問いませんので、どうかお教え頂けますでしょうか。
※質問にお答え頂くための「定義や趣旨の擦り合わせ」としての意見交換なら歓迎しますが、ここで議論(無分別についての意見交換)をする気は全くありません。
質問の経緯を下記します。
分別は世を秩序的に保つために大切なものです。
分別にもレベルがあり、「味噌も糞も一緒にしか見えていない程度の分別とは言いがたいもの」から「多くの人にとって同一にしか見えないものに関する繊細で鋭いとても重要な分別」もあり、前者は論外ですが、後者のように磨かれた分別であれば「考えてはダメ」だとか「区別する事自体の無意味さ」なども当然踏まえられた上での分別になっています。
でも、私が受け取る禅の言う「無分別」の意味は後者ですら前者と大した違いは無いと言えてしまうほどかけ離れたもののように受け止めているのですが、いかんせん意味が分かりません。
人助けは良し、快楽殺人も良し、貧しい中から身を削いで与えるは良し、趣味の盗みも良し。
この境地だとでも言うのだろうか。。。
もしそうだとすれば「言うは易し、行うは難し」。言葉遊びに明け暮れてる救いようの無い泥酔状態の愚か者が大勢居そう。
「悟り」という言葉からイメージを連想すると、確かに「殺人事件を意に介さない」様な側面というと語弊がありますが、人の死、それも凄惨な死すら平常心の内に受け止める、いや受け入れるような側面があるように想像します。
ですから、「無分別」という意味には殺人も良しという意味が全くないかと言えばそうでもないと言われたとしてもさほど驚きはしないのですが、それは所謂サイコパスとは全く違う正常な智慧であると思わざるを得ない。。。
果たして一体「無分別」とはどういう状態の事を言うのでしょうか。。。
と思った次第です。
悟りを得た人でなくとも、禅のいう「無分別」を意味をちゃんと答えられる人であれば遠くてもかまいませんので、教えて頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。