- 締切済み
肉体は賢い!でも心は?
心の‘落とし穴’って自分ではなかなか気がつかないものですね。 この肉体は命を保とうとエネルギーの補給を要求します。心はそれを感知して食事します。 すると肉体は生命の維持に必要なものだけ摂取し不要なものは排泄します。この点に関して心は肉体にまかせっきりです。 排泄できなくて体調を崩したりと、肉体は完璧ではありませんが、そのことは於いといて。 我々(精神)は、この肉体の機能に匹敵するといえるような‘心の活動’を心がけているでしょうか。 感想など伺えれば幸いです。
- みんなの回答 (19)
- 専門家の回答
みんなの回答
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
>そういった人は相対的に道理をわきまえ、理念を導き出す能力がなくなっているというわけです。 さらに、そういう人がいてこそ社会が成り立ち、思索思念活動により世界が存在することができているのだが、自分は寄生虫のように受け取るばかりなのに(だからこそか?)、能力が優れているかもしれない人間を見ると 知恵で以って他者を操作しようとしている などとコドモが自分の実力をわきまえず認識できないのにないものねだりばかりをするように言い放つ。 やはりゲスの勘繰りも甚だしいと言わざるをえません。 自分がやましいことをしており、間違っているということを認めたくないが故に、「理不尽で以って対応する」と言うのは、実は自分の非を認めたくないが故の、狡猾で、自分自身をも だますカモフラージュであるわけです。だから開き直って「理解できない人間に対しては不合理で以って対応せざるをえない」などと自分にも他者にも言い訳し、居直って自分が正しいという立場を守ろうとしているのです。もちろん、本人にはおそらく 自覚はなく、あっても半分位でしょう。 それは、ほとんどの親の、子供に対する 「躾」、「教育」と同じことです。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
No.4です。 肉体は生存を求めているということでしたが、 心は、根拠を求めるのではないでしょうか。 我欲という言葉の意味は知らないのですが、 我欲も含めて、心は、根拠あるいは意味を求めていると思います。 その根拠を求めるという活動は、 すでに、質問者様がされているのではないでしょうか。
お礼
無駄な欲望をそぎ落とし、‘根拠’を求めて必要な欲望を満たしたいと思います。 理性が選択を誤らないよう、心掛けたいです。 回答ありがとうございました。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
>この肉体は命を保とうとエネルギーの補給を要求します。 例えば、この哲学のカテゴリーにしがみついている人間の中でも、意味の解らないことを行って注目を浴びようとし、相手との関係性(それがどんなものであっても)を持とうとする、いまだ人になっていない人がいますが、そういった人は心のエネルギーを寄生虫のように他者から恵んでもらっているんですね。特に、相手を怒らせることで 快楽的な気分になっている人間はゴミ以下だと思いますが、そういった人間は例えば捕虜を拷問し、相手が苦しむのを見て笑っている米兵となんら変わることのない人間であるわけです。 そんな人間が 私は仏陀を越えた とか言っているのは イタイ人間なのですが、本人に言っても逃げるだけで認めようとしません、さて、困ったなあ... まあ、こういった 心の活動をする者は ゴキブリ的な遺伝子と魂の持ち主であり、そういった 心の活動 をする人もいるわけです。 で、ゴキブリ並みに相手の意思、意図思惑を読み取る嗅覚と、文字通りの触覚を働かせることで、自分の立場を保ち、生き残ることにかけてはゴキブリ以上の人もいますが、そういった人は相対的に道理をわきまえ、理念を導き出す能力がなくなっているというわけです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
yy8yy8az さん こんにちは。 おもしろそうなご質問ですね。 それでもたぶんわたしのいぢわる心は いろんな野次を飛ばさないでは回答しえないと来ています。 なるべくつつしみまして こういう反応を考えつきました。どうでしょう。 ○ 何でも食べるひともいるものだ。 ○ 肉を食べるひとや野菜しか食べないひと いろんなひとがいるけれども 固い食物も不味いものも食べるひともいるものだ。 ☆ 孔雀は胃腸が強くて何でも食べるそうですね。 上の命題のこころは 申し訳ないですが ○ 《‘心の活動’を心がける》ことを意に介さないワルになりたまえ。 ☆ です。相手を自分のことより半歩先に思えという意味に解します。どうでしょう?
お礼
半歩先に思え、と言う言葉の意味が分かりません。 ‘われらが日本をよくしてまいりましょう’とか‘一人ひとりが釈尊の再来であると思いたい’と言う人が、‘ワルになりたまえ’とも言えるのが‘哲学の住人’の世界。 前の部分は感情を理性が言葉に表したもの。 後(ワル・・)の部分は‘理性の働きを’理性が言葉にしたもの。 ‘非思考’と言うbragelonneさんの表現は‘感情’と言い替えても間違いではないように思います。検討してみてください。 回答ありがとうございました。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
下の立場のものをいじめたり 虐待したりして排泄してますよね、子供がいること自体が 心の排泄活動 ではないですか
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
取捨選択することが賢さの定義とするのは面白いと思いつつ、的を射ている見方であると思いました。心は、よくパソコンで言えば、ディスプレイに比喩されることがあります。つまり、心は結果だけである、ということです。もし、仮にそうであるならば、心に取捨選択のチャンスがないので、心に賢さを求めることはできないでしょう。心は肉体の奴隷であるのかもしれませんね。
補足
‘我欲’と言う面だけを見ると、仰るように肉体の奴隷であるかのようです。 肉体は生きることが目的。 そのために必要なものを取り入れ、不要なものを排泄します。 でも心は厄介なことに、‘生きているだけ’では満足できません。 さまざまな欲の中には‘向上心’と言った欲望もあります。 ならば、その心を満たすべく‘取捨選択’すればよいのに、他の‘欲’に足を引っ張られて、思うようになりません。 そんな気持ちが、肉体の能力に気づいたとき、こんな質問を思い立ちました。 再度ご意見伺えないでしょうか。
- pupurpu
- ベストアンサー率15% (29/192)
>>この肉体の機能に匹敵するといえるような‘心の活動’を心がけているでしょうか 心がけていないでしょう。 今の時代、パワハラとかモラルハラスメントとか、精神的いじめですが、そういう社会、ひいては人の心、人の集団があります。 結局心なんてどうでもよくて、お金が大事という意識を感じます。 世界的に経済社会のいきずまりが言われて久しいですが、経済を優先して心も生命感も置き去りで、社会の病巣がいたるところにありますね。 バブルの負債がやっと前政権でいわれなくなりましたが、また世界的不況でまた20年とか苦しむんでしょうね。 結局経済優先、お金大事という貧しい心で本当の満足な心の幸せなど無視してるように思います。 幸せは心で感じて、心の中しかありませんから。 肉体は車、精神はドライバーという話がよくありますが、そろそろもらった遺伝子を含めて自分という概念ではなく、ある働きを持ってるものとして客観するようにしたほうがいいでしょうね。 はっきりいって、今は昔話の教訓などは伝わってないですし、宗教すら悪いものとしたり、哲学なども言葉遊びに終始してますね。 本当に必要なことは幸せになることですが、それらのために生命を扱う宗教や哲学があるはずですが、みんなそういう本義を忘れて手垢で汚してる怖い時代になりましたね。 しっかり伝わってないですね。 実際性欲などは勝手にわきあがり、お金も時間も使って、エッチしても気持ちいいというだけで自己の成長などはありはしない。それなのに、そのことが自分の感情とか思いとかいってた自分がいやですね。 結局勝手に湧き上がってくるわずらわしいものという思いです。 心の活動は、感謝と思いやりを、一言、1行動、行為を慎重に見極めて、相手がどう思うか創造し、対処を決めてます。根本は生命哲学ですが。 実践してますよ。振る舞いを気をつけるようになりました。
お礼
心を正しく育てるために必要な糧を‘欲’と言う‘力’のために精も濁も選別せず、取り入れてしまうのでしょう。 全く人の欲望とは、消しがたいものです。 また、哲学は言葉遊びか?と言う疑問も同様に持っています。 回答ありがとうございました。
この世界は、不調和世界の脳の自我と、調和世界の自然の心が、出会うために作られました。だから仏教では、仮の世界と言います。人の心の中も、脳の自我と、自然の無我の、ふたつの世界があります。頭は脳に属し、心と身体は自然に属します。脳が思考してる時は、自然の情緒を脳が遮断するので、ストレスになります。脳が休むと、人と自然が交流するので、心が癒されます。脳は不調和な存在です。だから科学は、自然を破壊しました。自我は対立と争い、ストレスの源です。また脳は、宇宙の主役では無いから、科学は限界があり、相対的にしか理解できません。他方自然の情緒は、人の心を癒し、人を育て、人を調和へ導きます。また宇宙の主役だから、この世のすべてを知っています。だから脳を、論理的思考を休んで、自然の情緒的思考が、必要です。幸い日本には、脳を休める方法がたくさんあります。仏教の座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。実践すると脳が休み、自然の情緒があなたを癒します。雅楽、義太夫節、文楽、能、日舞、歌舞伎、落語演歌、浪曲、民謡、茶道、華道、浮世絵、日本画、短歌、俳句、源氏物語など
お礼
‘戻る’はずのところをうっかり‘投稿’してしまいました。 ‘変換’に満足しているわけではありません。 誤解を受けてしまう可能性もありそうです。 でも、大体こんな感じで受け止めています。 再度、感想など聞けるとありがたいです。
補足
eyasi2012さんには、以前にも私の質問に回答を寄せていただきました。ありがとうございます。 今回も前回と同様の考えを述べていただいています。もうすでに‘人生に付いて’と言った若いころに悩む問題は解決していて、心が安定しているように思いました。 eyasi2012さん独特の表現に接すると、精神世界を考えるときに扱う言葉が、人それぞれ違うのだなぁと感じます。 そこで試みます。『』内は変換。【】内は補足です。 eyasi2012さんの文章を、私の言葉に変換してみました。 この世界は、不調和世界の脳の自我『わたくし心』【‘個’と言えるのではないでしょうか】と、調和世界の自然の心『大我』【‘全体’と受け止めてみたいです】が、出会うために作られました。だから仏教では、仮の世界と言います。【だから、の前と後との文がつながりません。無理があります。間に説明がほしいです】 人の心の中も、脳の自我『小我』と、自然の無我『大我』の、ふたつの世界があります。 頭は脳に属し『自我』、心と身体は自然に属します『大我』。 脳が思考している時は、自然の情緒を脳が遮断するので、ストレスになります。『俺が俺がと言う‘肉我’、あるいは‘煩悩’に支配されていると、‘大我’と遮断されているのでストレスを生む』 脳が休むと、人と自然が交流するので、心が癒されます。『自我、あるいは肉我を離れて、心を静めれば、仏心と交流できるので心が癒されます』 脳は不調和な存在です。『自我は不安定な存在です』だから科学は、自然を破壊しました。『その‘自我’が開発した‘科学’は‘自我’が活用したので自然破壊をすることになってしまいました』 自我は対立と争い、ストレスの源です。『俺が俺がの心は、他者をも省みず、争うことになり、それはストレスの源です』 また脳は、宇宙の主役では無いから、科学は限界があり、相対的にしか理解できません。『また自我は、宇宙の本体ではないから、そしてその自我の研究するところの科学は、物質の世界のことであるので、相対的にしか理解できません』 他方自然の情緒は、人の心を癒し、人を育て、人を調和へ導きます。『大我は自我から離れているので、他者を思いやり、他者を育て、人々の和を導き出します』 また宇宙の主役だから、この世のすべてを知っています。『また‘大我’は宇宙の本体なのでこの世のすべてを知っています』 だから脳を、論理的思考を休んで、自然の情緒的思考が、必要です。『だから理性にばかり頼らず、感情の方面を見つめることが必要です。』 以下略。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
狭い範囲の心→いわゆる自分を自分だと思っている範囲の心、顕在意識は、帯域の狭い活動しかしていません。 しかし、広い範囲の精神活動は、スーパーコンピュータも敵わないほどの広帯域の活動をやっています。
補足
狭い範囲の心とは、よく言うところの‘自我’という心のことでしょうか。 私が学んでいる仏書では‘肉我’と表現していますが。 俗世間で生き抜くために必要不可欠な心、といったような。 広い範囲の精神活動とは、自分を離れて、他者に向けた精神活動といったことでしょうか。 損得を抜きにした行動とか。 再度、ご意見伺えるとありがたいです。
- 1
- 2
お礼
owlsipさん。回答No.5,No.7,そしてここの回答、ありがとうございました。 owlsipさんの気持ちは、回答No.5に集約されていることがNo.7 ,No.9をみてよく分かりました。 父親に手を引かれた子供が、嫌がって母を求めて泣き叫んでいるのを、路上で見かけたりすることがありますが、どんな親子関係なのだろうと思い、本当に心が痛むことがあります。