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臓器移植と献血
臓器移植法の改正案が、以外?にも、衆議院を通過したとか。 私としては、臓器移植そのものに関しては、積極的賛成でもないし、絶対的に反対と言う立場でもないし、要するに、よく判らない。と、言ったところでしょうか。 しかし、こうした新しい技術や出来事に関して、なにも意見が述べられない事に関して、内心忸怩たる思いもありました。そこで、臓器移植について、改めて少し考えてみました。 そうすると、臓器の提供と言う贈与と、移植技術の偏在・高額医療費と言う現状から、臓器移植の実施を促進する事は、貧者の臓器提供、富者への臓器移植、結局は臓器の売買に一歩進むだけのような気がします。 そこで、臓器移植と献血の違いについて考えてみました。 献血の特徴は、なんと言っても、純粋な贈与の形式が、なんとか保たれている、と言うことでしょうか。つまり、贈り主も、贈られる側も特定できませんから、贈り主に対する感謝の念が生じたり、贈与に対する時期を遅らせた返礼により贈与が交換に変わる事もありません。売血の問題はありますが、全体としては、贈与のシステムが成立しているのでは、と考えます。 そうすると、いま、臓器移植に関して言えることは、 移植技術の費用問題がなんらかの形で解決され、献血のようなシステムになるまで、売買の禁止に重点を置くこと、臓器提供の意思を確認できる、積極的な対策を行う事。脳死移植と生体間移植は別の次元で考慮する事。 以上のような結論になってしまいましたが、皆さんは、どう考えますか。 私の駄文から、誤解を与えてはいけません、質問を、抽象化します。 1)この質問の場合、近接概念を使用して、各々の概念を明確化することには、問題がある。 ちょっと、いやらしい言い方ですね、つまり似通ったものを比較して、その特徴を明らかにする、この質問の場合、臓器移植と献血です。 2)方法論的には問題ないが、過程・結果、共に問題がある。 平たく言えば、いちゃもん、つけてください。 3)質問文では、意図的に回避した、脳死、これについて、哲学から何か語れますか。 参考資料 http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.html 先のことは判りませんが、御礼が遅くなるかもしれません。宜しくお願いします。
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fishbowl66さん、どうも。 多分noname#87967なる男が目的化といったのは、臓器移植を企む輩にとって臓器は目的物だ、という意味ではないかしら。
- itsuki7927
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臓器提供について誤解なきよう、確認すべき点があります。 かつて、臓器提供をめぐる倫理的問題が様々に取り沙汰されましたが、 問題の中心はやはり 「体よく (2) を (1) とすり替えてはならない!」 という点にあったのではないかと思います。 (1)「脳死と判定される状態では、身体を切り刻んでも苦痛を覚えない」 という医者の言い分は、理論知でしかない。つまり、 a) 医学理論によれば、脳という器官で感覚一般が生じる。 b) 「脳死」 とは、医学によって 「脳が死んでいる」 と判定される 状態である。 ∴ a) b)より、脳死に至れば、身体を切り刻んでも理屈上苦痛を 覚えないはずだ。 (2) (1)より「脳死状態では、身体を切り刻んでも苦痛を覚えない」 という 医者の言い分は経験知ではない。 つまり、存命者の中に 「脳死状態において臓器を提供した者」 は 一人もいないので、医者の言い分は実証されない/医者の言い分に 実質的な保証はない。 「(2) を (1) とすり替えてはならない!」 と改めて物申したいのは、 私の場合、医学関係者の対応が一因としてあります。 (1) (2) の区別 (線引き) について、以前ある病院の看護婦さん方に 質問したところ、婦長さんは以下のように一笑に付したのでした。 「あら、まあ、そんなこと (笑)。だってあなた、いいこと、お医者様が 『死んでいる』 と仰言っているのよ! 切られて痛いだなんて、 そんなことあるわけないじゃないの!!(大笑)」 皆さん、こういう物の言い方って、どう思います? 「『(2)を(1)とすり替えさせよう』 とスクラムを組む医学関係者に抵抗しよう!」 って言いたくなりませんか? もちろん事の次第は永遠に分かりませんが、 (1) の理論知が正しいことはありえますし、医学者は医学的知識から 「(1) の理論知こそ事実だ」 という見解を解説し続けることでしょう。 その説明に耳を傾けることはいい、十分に理解して損はありません。 ですが、事の次第は永遠に分からないのですから、 国民の全員が医者と同じ見解をもつ必要は断固としてありません。 私個人としては、 脳死状態で担ぎ込まれた場合、親族の承諾のみで臓器を提供してよいのは 医者と同じ見解をもつ人 (=(1)を信条とする人) に限られるように思います。 というのは、(1) を信条とする人なら医学への信頼感もあるわけですし、 「世のため人のため、痛いはずがないので致し方ない」 と割り切れる レベルがあるだろうからです。 一方、(1)を信条としない人には、割り切れるレベルがどこにもありません。 情愛薄い身内の承諾により、生きながらに開腹され悶絶死させられるなら、 それは医学者とその同類による 「よってたかって殺人」 に他ならないと 思います。 【補足】 上述の看護婦長さんが言われていましたが、 (「脳死状態なので痛いはずがない」 という理由から) 臓器提供者を切開する際、麻酔を打つことはないそうです。
お礼
痛っっっ これは、うっかりしていましたね。痛いんでしょうか。 最近の科学や医学の分野は、唯脳論的な考え方が一般化しているのでしょうか。 聞くところによれば、脳には、感覚細胞がないらしくて、ナイフで切っても痛くないらしいですが、反射神経の反応のスピードを考えると、必ずしも脳まで届いていない感覚もあるのかもしれません。本人の痛みの可能性も問題ですし、周りの人も、遺体にメスを入れるイメージには、痛みが伴う事でしょうね。 痛みの問題は、植物人間・終末医療・安楽死と言った問題に関連すると考えていましたが、確かに、臓器移植に関しても痛みの問題は残るようですね、しかも、これはどうしても確かめられませんし。 ただ、提供者が例え痛みがあっても、提供する、と言う意思が確認できれば、この痛みは、臓器の移植に関しては、問題としては、解決するのではないでしょうか。 問題は、はっきりわからない情報を正確に伝えない、と言うことでしょうか。 人の死が絡むと、なかなか一般化してしまうことは難しいようですね。 ただ、仕事に関しては、一般化しないと、やっていけない部分もあるのでしょう。毎日のように人の死に直面していたら、一々感傷的になっているわけにもいきませんし、慣れや習慣、特別扱いしないと言った平等主義的な要素もあるかもしれません。あいにく、私には医療関係の親しい知人がいませんので、実際のところは判りませんが。 >私個人としては、 >脳死状態で担ぎ込まれた場合、親族の承諾のみで臓器を提供してよいのは >医者と同じ見解をもつ人 (=(1)を信条とする人) に限られるように思います。 痛みの問題も確かにあるでしょうが、基本的には本人の意思による提供が尊重されなければならないわけですから、この親族の承諾と言うのは、私には不可解ですね。遺体は決して遺族のものとは限らないですから。 今回の改正A案などは、まさにご都合主義的な感じで、年齢制限を撤廃しては本人の意思など尊重する事にならないですよね、臓器移植の法律には、はっきり、本人の意思を尊重する書いてありますが、全く、不可解です。 ご回答有難うございました。
知らず知らずのうちに私たちの身体が道具連関のうちに巻き込まれているということではないのでしょうかね。 私たちは身体を持つと同時に身体である存在だと思いますがね。 臓器移植というのは身体を目的化しているということでしょう。 NO6さんとまったく同意見です。
お礼
お礼が遅れて申し訳ありません。ご回答有難うございます。 またまた、偶然でしょうか、noname#87967ですね。 以前も書きましたが、消費社会の影響でしょうか、皆さんテンポが早いですね、尤も、私の方がのんびりしすぎ、という評価の方が、一般的なのでしょうが。 なかなか興味深い文面ですね、再度お会いできない事が、大変遺憾です。 1)私たちは身体を持つと同時に身体である存在だと思いますがね。 2)臓器移植というのは身体を目的化しているということでしょう。 1)に関しては、面白い話が出来たのですが、例えば、1)にはその前提として3)「私たちの身体が私たちのものである」と言う理屈が有ると思うのですが、3)に関しては、単純に鵜呑みにできない問題点が有るんですね、前のご回答者様のところで書いた、眼球くじ、又は買春や自殺と言うことを考えると、決して3)が、物事を判断するための、普遍的な規則になっているわけではないようです。この3)を否定する理屈から、臓器移植の推進を肯定する理屈も展開できたのですが、「脳死」と言う曖昧な言葉の問題が絡んで、この方面への展開は一先ず別の機会に、と言うことでしょうか。 ところで、少なくとも、私が身体をもつのか、身体に私が寄生しているのか、と問いかけられれば、私の答えは後者に近い、と申し上げておきましょうか。 2)については、仔細な事で、書くのも蛇足ですが、哲学の文脈では、目的化と表現するより、手段化と表現した方が、正確なような気がしますが・・・ noname#87967は、「脳死」でしょうか「心肺停止」の伝統的な死でしょうか、「脳死」は不可逆的で生き返ることはないというのが推進派の説らしいですが、上記の悪口を聞いて、生き返るかもしれませんね、くわばらくわばら。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
臓器移植の問題とは、精神にとっての「生きるとは何か」を黙殺している事だと思います。 年間3万人の自殺者が出ているのに医療技術だけが進歩していくというのは滑稽ではないでしょうか。
お礼
ご回答有難うございました。お礼が遅れて、申し訳なく思います。 さて、臓器移植にはそもそもご反対のようですが・・・。 私、個人としては賛成でも反対でもない、質問文に書いたように、判らん、ということですが、今回質問してみて、少し考えたのですが、これは結局、個人の問題でしかないだろう・・・と。 どうやら、当初の予想に反して、人の死を棚上げにして、臓器移植に関してあれこれ考えるのは、難しいようです。そこで、法律による脳死云々ということが出てくるようです。 人の死について語るのは難しいですが、要するに、人の死なんぞはそもそも存在しないんで、実際に存在するのは、ある特定の人の死でしかないわけですね。で、その特定の人の死を誰が決めるのか、本人が決めるのが一番判りやすい、でもそれがダメだから、その人の周りの人が決めればよい、無関係の人が、無関係の人の死に関して、あれこれ口出ししても、おせっかいなだけですね。 とはいえ、ある個人が、自分の死後、自分の臓器が活用できると知って、もし自分の臓器によって、本来死んでしまう人が助かるとしたら、積極的に自分の臓器を提供しようという、奇特な方を否定する事もできませんね。 このように考えると、最初に書いたように、個人の問題だ、となるわけです。 ところが、個人の問題になると、医療現場の人が困るらしいですね、この辺りから、問題はより複雑になりそうです、臓器移植を推進するひとびとは、どのような立場で、推進を主張しているのか。命を助けるためなのか、仕事としていっているのか、その辺の見極めが必要なようです。 自殺者が3万人超え、最近は当たり前ですね。 あくまでも、個人的な、机上の理屈ですが、 自分の死を自己決定できる、という意味で、人間はある意味自分の死を決定できるかもしれない、・・・自殺を肯定するわけでは有りませんが、自殺=3万ではなく、自殺も色々・・・それが自由ですよね、ただ、それが、机の上では、自由なのに、私自身も勝手に死ねない。不自由ですね(笑。
- larme001
- ベストアンサー率44% (271/608)
すごく荒れそうな問題提起ですね。 質問者さんの言わんとすることはわからんでもないのですが、臓器移植問題(とりわけ脳死を考えると)を考えるときに生死の話を抜きにして議論するのは出来ないためです。 臓器移植は技術的にもかなり確立しているでしょうし、それがメリットだらけなら強制的にでもやってしまえば済むことになります。ただ、それをしないのは、(1)臓器移植というのはたとえ死後といっても個人やその周囲の人の死生観に非常にかかわっている(2)本当の意味での「自発的な意志」というものを決めるのが難しい為、という点があるかと思います。いずれにせよ前提として「医療行為は平等で利害を絡めてはいけない」という前提の話です。途上国で事実上起きてしまっていることは、問題外の話であるので議論の余地はないでしょう。 さて、(1)ですがこれは、延命治療の技術により出てきた問題ともいえます。臓器提供は死んでから行うようなものですが、できれば死後直後か死ぬ直前でなくては臓器も使えなくなってしまいます。かといって、現在の医療では心臓が止まっただけですぐ死ぬわけでもなく、確実な死と時間的な経過を待って死が不可逆的なことを確認するのでしょう。これは法律的にというよりも、先立たれた周囲の方がそう思う点もあるでしょう。ゆえに臓器移植≒脳死による臓器移植が言われるのもこのためだと思います。この点、「一義的に決めようが関係ない」という議論はあるかもしれませんが、生死の問題というのは個人的なものに見えて包括的な概念なのです。たとえ自分が「脳死は死でないと思うとしても」と言ったとしても、それを法律て規定してしまうことは「死」になるわけでもはや自分の考えを侵害しているということにななりかねないのです。生れつきの障害者が、出生前遺伝子診断の合法化に「自分たちの生きる権利」を訴えて反対するのと似たような問題です。 (2)に関しては、選挙も同じです。強制的にやらせる、賛成させることはもはや個人の自発的な考えをゆがめてしまうことになりかねないのです。これは「反対すればいい」という問題ではなくて、賛成か反対かの決断を迫るという行為自体にすでに問題があるでしょう。要するにわからない、回答を拒否するというのも考えとしてはあるのです。その中で、やりたいという人にお願いするというのが今のスタンスでしょう。さらに言えば、「賛成したものの気が変わった」というのも考えられます。献血などはやってしまったからと言って後戻りできなくともほぼ問題ないぐらいの可逆性はありますが、臓器移植は行われて後悔しても無理です。さらに言えば、そのような状況にない今の自分の意思が本当にそのときの意思を反映するかという難しい問題もあります。周囲の人だって、脳死になったらいざ怖くなって反対するとか実際あるみたいです。 結局、臓器移植というのは技術の進歩とか、直截的な社会全体のメリットなどを見ればいいのかもしれませんが、長期的にはどのような社会が望まれるのか、日本という社会はどのように生死と医療を考えていくのかというものの反映にもなります。脳死に関しては「脳死を一義的な死とする」という点に関しては世界的にはすでにこれがスタンダードですが、日本だけ「脳死→臓器移植のときのみ死とする」というような曖昧な状況だったのです。ただ、それがおかしいとかいう以前に、日本という社会自体がそれほどまでに死というものを意識しているのだからしょうがないということもいえます。そもそもアメリカなんかだと、個人の意思が絶対的な最終権限を持っていることが市民権を獲得していますが、日本はそのような状況になりつつあるように見えてそうでなかったりしませんか?そのような状況も踏まえると、臓器移植の問題は死生観を抜きにして議論することは限りなくむずかしいと思います。 期待する内容でなければ恐縮ですが、ご参考までに。
お礼
御礼が遅くなり、大変失礼しました。 ご回答を読み返し、臓器移植を生死の問題と切り離して、社会的な有用性をもった資源として、この資源の活用法に関して、あれこれ考えてみようとした、今回の質問の問題点が判りました。 臓器移植は生死の問題とは切り離せない。 なぜだろうと、色々考えましたが、結局、質問者自身が警戒している、言葉によるマジックに嵌っていたようです。つまり、亡くなった方の臓器、つまり脳死状態の臓器は、つまり、臓器としては生きている、ということのようですね。つまり、心肺機能が停止して、臓器自体が機能を失った、つまり、臓器として死んだというか、壊れたと言った方が良いのか、このような、壊れた臓器は、もはや資源としては、役に立たない。 要するに、死んだ人の、生きている臓器が、臓器移植の根本問題、ということのようです。 どうやら、質問者は机上の理屈にこだわりすぎて、眼球くじ、サバイバル・ロッタリーの問題として、 http://www.arsvi.com/d/l06.htm 功利的・経済的に考察可能と考えていたのですが、臓器移植に提供される臓器は生きているということになると、確かに、生死の問題と切り離して考える事は出来なかったようですね。 2)の問題は、質問者には別の視点が有るのですが、これは立場の違いでしょう。あまり深入りいたしません。 人間の生死の問題は、そもそも生きている人間のなんたるかも分からず、考えても答えの出ない事と、諦めているのですが、なにやらニュースによりますと、例の「ES細胞」とか言うのでしたか、いわゆる万能細胞という、なぞめいた名前の付けられた細胞の、臨床試験が始まるとか。 血液バンクばかりでなく、いよいよ、精子バンク・卵子バンクに続いて、受精卵バンクが、一般的になってくるのでしょうか。 脳死の状態でほっておけば、使える臓器が使えなくなるから、有効に利用しよう。 受精卵は、有るべきところに有れば、やがて人間になる、むやむや、有効に利用しよう。 科学の進歩に較べると、哲学の貧困を歎かざるを得ませんね。 詳しいご回答有難うございました。
補足
たった今、一読しました。 おれい飛ばしは、ご法度。 とはいえ、お礼は出来ないとなると ただ、こんな表現がしたいです。 美しい回答有難うございます。では暫く後で。、で補足です(謝。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、fishbowl66さん。 まったくもって、わからんこといっぱい。 参考資料 http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.html ひとまず、目とおしてきました。 漠然と『臓器』と記載されてある。 【臓器とは】 http://www.weblio.jp/content/%E8%87%93%E5%99%A8 ここに書いてあるように臓器いうんはなにも内臓だけちゃうみたいやね。 そしたら、あれどないなるんやろか? ほら、2004年頃から施行されるようになった「性同一性障害者特例法」 男性から女性,女性から男性へと戸籍上の性別が変更可能になったよね? 戸籍上の性別を変える場合、肉体になんらかの手を加えてる 審判条件の中に [・身体に他の性別にかかる性器に近似する外観を備えている] という項目があったんちがうかな? 広く臓器移植可能となれば、はずしたものをつけてorつけたものをはずし、またつけてはづしと…これこのように取り換え可能となれば戸籍上の性別コロコロコロと変わり性別の意味なくなるのんちゃう?タガが外れるいうんか、むちゃくちゃや。
お礼
御礼が遅くなりました。littlekissさんの、奇抜な発想に、腰を抜かしてしまったようです。 しかし、ご心配にはいりません。 臓器移植法に 第五条 この法律において「臓器」とは、人の心臓、肺、肝臓、腎臓その他厚生労働省令で定める内臓及び眼球をいう。 省令では、内臓としては、脾臓と小腸に限っているようです。 臓器移植法の対象とはならないものとしては、血液を始めとして、骨髄・皮膚等々、一般的に再生可能なものが多いようです。もっとも、骨・心臓の弁・血管などは、移植法には規定されず、若干微妙な点もあるのですが、これらのものは、人工的に作る事が可能になっていたり、その可能性が期待されていると言う結果から、脳死による移植と言う、ややこしい問題とは一線を引いているのでしょうね。 この区分は、再生可能か不可能かと言う区分ですが、この区分には、あまり関心なさそうです。そこで、私も奇抜な意見を。 「人間たるということは、我々がすべてのことをコントロールの手中に置かなければならないことを意味する。このことが、倫理用語のアルファでありオメガである。選択のないところには、倫理的行為の可能性は存在しない。我々が強いられて余儀なく行為することは、すべて非倫理的で道徳とは無関係なことである。・・・実験室受精は、通常の異性間性交に較べれば、はるかに際立って人間的である。それは、意図されたものであり、選び抜かれたものであり、目的をもってコントロールされたものである。そしてこの方法は、他の動物や霊長類のどんな種族にもないホモ・サピエンス固有の特色あるものなのである。性交による生殖は、したがって、実験室受精に較べてより人間的でないことになる。興味深いのは、子供の作成と性交を分離することによって、この両者が偶然の領域から選択の問題に化するため、子供を作ることと性交がどちらもより人間的な営為になることは確かである。これが、まさに計画意図された親子関係であって、私は、遺伝という運命のいたずらやルーレットによって人間性や道徳性が償われ保証されているとは思わない。」 (Fletcher、『遺伝子操作と法』保木元一郎) この様な、奇抜な理屈に関して、女性の意見・感覚、どんなものだろう、と関心があります。 ご回答有難うございます、気が向いたら、また、面白い話を聞かせてください。 但し、やはり御礼は遅くなりそうですが。
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
どのような主張なのかがよくわかりません。 >臓器提供の意思を確認できる、積極的な対策を行う事。 臓器の移植に関する法律第6条により、 死亡した場合の臓器移植の条件は ・死亡前に意思を書面により表示している場合 かつ、 遺族の同意 死亡していない場合の条件は、 たぶん、 ・本人の意思の書面表示 献血の場合は、 ・本人の意思の書面表示。 意思確認の面倒さは、 献血<生体移植<脳死移植 常識では、 意思確認は献血より厳しくなければならないという結論になるはずです。 そして、これは法律文もそうなっています。 で、献血並みに緩めたいという主張ですか? 逆に、書面表示でもまだ足りずもっと厳密にという主張ですか? そういう方向性くらいはせめて書いてください。 ※現時点では、遺言や各種契約書は全て書面であるので、書面より強力な意思確認手段は存在しないため、 もっと厳密にすることは無理でしょう。 ※※法律にかいてあることをオウム返しに、「こうしろ」という主張は ホント、どういう意味で書かれたのか解釈に困るのですよ。 >脳死移植と生体間移植は別の次元で考慮する事。 どう考慮してほしいのですか? 常識で考えても、 腎臓などは、生身の人間から取っても生身の人間は無事なので生体間移植ok 心臓などは、生身の人間から取ったら生身の人間はアウトなので生体間移植NG。死亡後に限定。 (死亡とは、心臓が止まったときか脳死なのかは今は議論しない。) ですよね? また、遺族の同意は第6条で織り込み済み。 別次元で考慮とは、まさか上記のことではないでしょうが、いったい何をどう考慮してほしいのかわかりません。 ※私は、それ以上考慮する必要は無いという意見です。ですから、 何を考慮してほしいか書いてもらわないと、何を要求しているのか想像不可能です。 >贈り主も、贈られる側も特定できません 第13条(守秘義務)により、臓器の場合も特定できません。(親族間の臓器移植などは例外とする。献血も親族間ではバレバレであり事情は同じ。) なお、医師は、臓器であれ献血であれ、贈り主のトレースはできる ....はず。 でないと、献血の場合、贈り主がヤバイ病気であることが発覚したとき、 何の予防処置(病状拡大の防止処置)もとれません。そんな間抜けなシステムにはしないはず。 >売買の禁止に重点を置く それって、11条に述べられていることのオウム返しですよね? 11条をどうしてほしいのか書かない限りコメント不能です。 なお、具体的な方策は、施行令や施行規則といった、法律の下位文書の役割です。 >献血の特徴は、なんと言っても、純粋な贈与の形式が、なんとか保たれている これが本当に最大の特徴なのかという問題があります。 11条により、臓器の場合も保たれていると解釈します。(赤の他人からの移植の場合。) 最大の特徴は、私なら >>血液は、献血しても次回献血までには元通りになります。 >>臓器はそうではありません。 を挙げます。 >2)方法論的には問題ないが、過程・結果、共に問題がある。 過程に問題あり。 近接概念を使用するのはいいとして、 「近接だから同じ結論とすべき」と短絡されている。 「近接でも条件が違う」場合、別結論となっても不思議でないため、 条件が違うことについてまるで論じないで結論を出している。これは特徴を明らかにしていないことになるので、 自分の言ったことを実践していないという問題がある。
お礼
ご回答有難うございました。あれやこれやと、長々補足説明を書いてみましたが、あれで質問の意図がはっきり出来たかどうか、心もとないところです。まだ判り難いところが有りましたら、その事に関して、出来る限り説明するつもりですので、不審な点がありましたら、またご指摘下さい。 さて、改めて、Q&Aを読み返しますと、臓器移植と献血の間の違いについて、見方に質問者とご回答者様の間で、次元の相違のようなものがあります。質問者としては、システム・制度の問題として「贈与・交換」に注目したわけですが、ご回答では、#1様と共通して、臓器移植と献血の具体的な事実の相違に注目されたようです。 その結論として >>血液は、献血しても次回献血までには元通りになります。 >>臓器はそうではありません。 この事について、もう少し考えてみます。 この区別を、一般化すると、再生産可能なものと、再生産が不可能なもの、と言う区別だと思います。 では、この、再生産可能なものと、再生産不可能なものを、区別して、臓器移植と献血に戻して見ましょう。 大変面倒ですが、私の頭の中の出来事を、出来る限り再現しましょう。 一般化すると、再生産の不可に関する、区別は、Aか非A、と言う事になって、世界を二分できます。飛びましたね、判りやすく言うと、Aであるか、Aでないか、で世界は二分できます。二分と言う表現は半分と言った誤解を与えますが、非対称的な二分が可能です。 そこで、臓器移植と献血の違い、本質的な二分法、再生産の可あるいは不可、に戻してみましょう。この様な思考が、帰納なのか演繹なのか判りませんが、臓器移植と献血は、世界を二分するほどの違いは有りません。どちらも、肯定されていて、程度の問題と捉えられているようです。 どこか変ですね、あっ、ここでも飛んでいますが、ご回答者様もこの部分は有る意味で飛んでますね。 あっ、そう言えば、先ほどの閃き、結局、捕まえられなかったです。 ご回答改めて、有難うございました。 また、この場を借りて、私の思考方法に関して、ご意見が伺えると、有り難いです。
補足
頂いたご回答の中に、多くの疑問が投げ掛けられており、質問意図をはっきりさせるために、優先的にお答えした方が良いと思い、敢えて先に、補足欄にて補足します。 どのような主張なのかがよくわかりません。 >臓器提供の意思を確認できる、積極的な対策を行う事。 これは、現状のドナー登録の不徹底と申しますか、法律の文面で、個人の意思表示の重要性を認めながら、実際には、本気で個人の意思表示を徹底させようとしているとはとうてい思えない。あたかも、選挙管理委員会が、投票をアピールしながら、本気で投票率を上げようとしない事と、一緒ですね。ドナー登録などと言ったまどろっこしい事ではなく、免許証の更新制度とか、本気でやろうと思えばやれることはいくらでもあるでしょう。 さらに、今回、採択されたA案では、年齢制限の撤廃でしょ、始めから、法律の文面に書いてあろうと、個人の意思表示の尊重を、本気で考えていると思うほど、私は素直では無いと言うことを読み取ってください。あっやっぱり無理か、作文は難しいです。 >脳死移植と生体間移植は別の次元で考慮する事。 どう考慮してほしいのですか? 贈与と交換と言うレベルが違うという事です。 生体間移植は、贈与とはなりえません、ある種の交換です、この交換は個人の自由ですから、この事に関して、法律があれこれ言う必要は、左程ないはずです。問題は、個人の意志を確認できない、脳死状態、意思表示能力の欠如した状態での、臓器移植です。これが、純粋贈与の形態をとらないと、高額医療費の問題を考慮すれば、交換は必ず売買に繋がります。臓器移植法の第二条、基本理念の4項など、まさに絵に描いたもち、としか考えられない、売買となれば、富める者が勝つのは当たり前です、富める者は、貧者から財を奪うだけでなく、合法的に、なんと合法的に貧者の命まで奪おうとしている、と、考える私の方が、考えすぎでしょうか。 >贈り主も、贈られる側も特定できません >献血の特徴は、なんと言っても、純粋な贈与の形式が、なんとか保たれている >売買の禁止に重点を置く 上の三点は、贈与と交換の違いを理解していただくための、表現です。 売買を禁止するとはどういうことでしょうか。日本人が海外で、臓器移植を受けると言うニュースを、時々聞きますが、海外ではすでに、日本のこの法律の基本理念4項が達成されていて、海外では臓器が余っているから、外国の方々の好意に甘えて、移植をさせていただいている、とでも考えているのですか。これ以上は顰蹙(ひんしゅく、こんな漢字でしたか)もの、ご察し下さい。 >>血液は、献血しても次回献血までには元通りになります。 >>臓器はそうではありません。 この件に関しては、#1様のお礼で、私なりの意見を書いてあります。参考にしてみてください。 >2)方法論的には問題ないが、過程・結果、共に問題がある。 過程に問題あり。 そうですね、臓器移植、献血・輸血、の他に、骨髄移植というのもありましたね、近接ではなくて類似の概念かもしれません、あっ、今なんか閃いたのですが、一瞬のうちに、脳の奥にぼやけてしまいました。 急いで「これ」を追いかけに行きます、御礼はまた後ほど。
- pupurpu
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明快に命の問題 アメリカの医療保険会社はがんの人にも正常といって手術費用を出さず 会社の儲けにするというドキュメンタリー映画「sikko」というのがありました。 お金のために命を殺すという現実があります。 生命は助けましょう。というのが個人の意見。ですが、拒否できる権利もありですから。妥当だと思います。 昨今経済第一の時代で生命軽視が深刻ですが、もうやめにしないと自らを狂わしていく考えに入ると思います。 金より命が大事です。助けられるならすべきでしょう。 これは命に対する態度であり、法律も生命尊厳を歌っています。 つまり命を大事にするという心情が法律を作る精神に入っている根本の思想ですから、これをもって運用するのは当然でしょう。 あるものに対して、良いか悪いかという低次元の意識ではなく、何でも運用する心の問題で、よくも悪くもなるという、あったりまえの事は現実として理解したうえでの議論になると良いですね。 車も安全と凶器がありますが、動かす人間の心理によって変わる。悪にも善にもなるという事ぐらいは知ったほうが良いでしょう。ですから、法律自体は問題はなく、人間の心が悪や善に運用するというのが本当でしょう。 脳死問題も当事者か関係者が答えを出せばいい。拒否も賛同も。 大事なのは、それができるという法律ができた。という可能性を作ったという事が大事。 問題は起こりますが、車も事故がありますが、また死者も出ますが、製造中止にはならない。すべては運用する人の心が行為行動に出るということ。私は心はそうやって見えると思いますよ。そのままに。 当然悪用して金儲けを考える輩や事件もあるでしょう。 基本的に人は金のためや自分の状況のためなら人も殺すという性悪さも知った上でも、やはり移植して助かる命があるなら助けてあげたいという思いでいっぱいですが、ただ当事者の方々だけががんばっているという現状から、私のような移植の部外者の応援が大事になってくると思います。 また、この意見の底には経済重視と生命軽視があるから、救える道ができたのは賛成。当然悪用は監視し、法律も厳しくというのも入れるのはバランスを考えてとうぜんですが。
お礼
ご回答有難うございます。なにやら、難しい問題に、首を突っ込んでしまったような。 今回の質問では、脳死や死の問題は、取り敢えず棚上げしておきたいのですが、質問文ではその点もう少し、詳しく書いたほうが良かったかもしれません。つまり、脳死の判定如何ではなく、死んでしまった方の、身体が、医療技術の進歩によって、有用性をもった資源になってしまった、この事に対して、哲学はまだ追いつけないでいる。 こんな感じの意図があったのですが、説明不足でしたね。 有用性を持った資源の問題でしたら、市場原理に任せれば良いと言うのが、昨今の一般的考え方であるのに、身体の一部となると、何故、単純に市場原理に任せれば良い、と言う考え方が排除されるのでしょうか。 これは、生命の問題でしょうか、取り敢えず、仮定の上では、死んでしまった人の身体について考えているのですが。臓器移植の問題が、なかなか難しいのは、このあたりの違いの分析が、いまだに良くなされていない、と、考えているのです。死んだ人の身体は、確かに物ではありません。しかし、生きているわけではない。 死んだ人の身体、つまり、遺体。これは一体なんなんだ、地に返すべきものなのだ、と、臓器移植そのものの否定から質問した方が、わかりやすかったのでしょうか。いゃ~益々判らんですね。 ご回答者様のご回答は、どちらかと言えば、楽観的で希望に満ちたものです。確かに、最初から完璧なシステムを作る事などできません、しかし、私としては、市場原理の恐ろしさ、知の権力の密かな洗脳、また、人間理性に対する懐疑から、如何しても悲観的にならざるを得ません。 今回の質問では、ほっておけば、死んでしまう人の命が、救われるかもしれない、と言うプラスの面を過小評価しすぎているのかもしれませんが、そもそも、臓器を移植する、と言う事は、一体どういうことなんだろう。 本当に訳のわからない質問にお付き合い頂き、有難うございました。
1)生きて居るから意思決定が出来るこれが献血です、献血は常に作り作られる(骨髄です)と言う事です、だから何十回と出来ます、しかし臓器移植はその一個人の唯一の物と言う事です、亡くなる事でそれを失うと言う遺族の思い如何では無いか。 自分は死亡で燃やされるなら生かして貰い再利用して欲しい脳死段階で臓器提供者です。 2)尊厳死を思うと、脳死で生き長らえる事で誰が苦しむかと言えば家族です、昏睡で意識戻らないと断言されて迄生かされる事でどれだけ医療費を掛けているかです。脳死で生かされると言う背景には膨大な医療費です。 それを自己負担を鑑みれば、計算出来る。 自己意識ない脳死とは自己判断出来ない段階とも取れる状態です。 自分が自分らしく死を迎える事が尊厳された死です、尊厳死とは本人がその旨を書いて書面で残して居ます。 その後臓器提供です、本当は献体でも良いのですけど、臓器残らないと献体の意味が無いと言うこれもどちらを選ぶかの課題です。 3)哲学的に言えば死生観では無いですか? どう死を向かい入れて行くか、死を聞くと怖いと言う人も居れば、安楽な死を望むと言う方など・・・・ 自分の体の自由が利かない段階で死なせて欲しいと言う思いも死生観です、安楽死も有って良い思うが、これは自死になるから駄目と言う臨床現場の回答です。 尊厳死の段階が心臓停止から脳死で死亡判定に変わるターニングポイントに変わるのも今回の法改正とも捉えて居ますけど・・・・
お礼
ご回答有難うございます。 臓器移植と献血の違いの、死についての問題、これを最初から意図的に棚上げしておいた事を、ご了解してください。私たちは、生まれる事も、死ぬ事も、自ら決める事さえできない現実の前で、一体、自分の死に関して、なにが語れるのでしょうか、この様な本音を、一旦隠さないと、臓器移植そのものが見えてこないのではないでしょうか。 要するに、科学や技術の進展は、世界の中から、有用性を引き出す努力の歴史です。古代に置いて、無視されていた黒い水が、科学技術により、有用性を見出され、貴重な資源となったように、医療技術の進展が、人間の身体のなかに、資源を発見したのです。また、法律によって文書化されるということは、この資源が個人から離れて、社会化され、社会の中の有用性を持った資源として、捕らえられていると言う事です。 ここでは、もう個人の死などは関係ありません。世界中で毎日、どれだけの人が死んでいるのでしょうか。 ここまで書いて、こんなドライな表現は、日本では不適切なのかもしれません。 「インド、アフリカ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパなどでは臓器売買が許されている。食事や家、借金の返済、さらには大学の授業料を得るため、人々は臓器を売るのである。現在、エジプトでは臓器が一万から一万5000ドル、もしくは同額の電気製品と引き換えに売られている。インドでは、生きた提供者からの腎臓は1500ドル、角膜は4000ドル、皮膚一切れ50ドルが相場である。」Kimbrel(私的所有論より孫引き) 現実の認識として、現実に行われている臓器移植は、ほとんど、臓器売買だ、と言い切ってしまっても、かまわないと考えている質問者の立場と、善意のご回答者様では、見方が少し違うのでしょうか。 ともかく、この問題は、大変難しい質問になるかと思います、最初から質問文で詳細に語れば、膨大な文章となり、読むのもつらいですし、そのような文章を、一貫した文脈で書きとおす才能も私にはありません。 皆様から頂いた回答に対して、私の頭のなかにどのような反応が起きるのか、楽しみにしています。 素早いご回答に、改めて感謝いたします。
お礼
これはこれは、遠いところわざわざお越し頂き、誠に有難うございます。 いえいえ、ご指摘の点は、充分承知しておるのでございますが、 死んだ人を生き返らすために、ちょっと棘味?のスパイスをどっぶっ掛けてみたのでございます。 目的と手段は、お互いいつの間にか、入れ替わってしまう、円環と言うか螺旋と言うか、捉えようによっては区別しがたい時が有るのですが、取り敢えず哲学のカテですから、「人を目的として扱い、決して単に手段として扱ってはならない」と言う、カント大先生の金言に敬意を表しての、戯言とご笑納いただければ、幸いな事と存じます。