出雲大社に伝わる設計図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」によれば、三本の柱を金輪で束ねて一本の柱とし、100メートルに及ぶ引橋(階段)がつけられています。
あまりのスケールゆえ、その信憑性が疑われていましたが、
平成11年の発掘調査の結果、3本の柱をたばねて1本とした柱の根本部分が発見されました。
このことから、金輪御造営差図にあるような高層建築があった可能性が高まりました。
この柱の年代測定を行ったところ、12世紀後半~13世紀という結果がでました。
出雲大社では平安時代中期以降の造営記録が残っており、
この柱は鎌倉時代の宝治二(1248)年に遷宮されたものである可能性が高いとされました。
しかし平安時代の「くちずさみ」という書物には「雲太、和二、京三」とあります。
「雲太、和二、京三」とは、「出雲太郎、大和二郎、京都三郎」ということで、出雲大社が最も大きく、二番目が奈良東大寺の大仏殿、三番目が京都大極殿という意味です。
ここから平安時代にはすでに出雲大社には高層建築があったと考えられます。
古事記や日本書紀によれば出雲大社は神代に建てられたとしていますが
もちろん、そのまま信用することはできません。
古事記や日本書紀が記されたのは奈良時代であり
それ以前にあった正史の記録は消失したりして残っていません
出雲大社の高層神殿がいつつくられたのかが
はっきりしないので、何ともいえません。
出雲大社が建てられたのが奈良時代であれば
他に高層建築としては奈良東大寺の大仏殿があった、と
いえるとは思うのですが。
あまり古い時代から高層建築があったわけではないかもしれません。
朝鮮半島の建物についてはよく知らないのですいません。
お礼
確かに記紀の信憑性には問題がありますが、火の無い所に煙は立たないと言いますし、一概に否定はできないのではないかと思います。 出雲に高層神殿があったと偽りの記述を記紀に記して、誰が何の得をするでしょうか。もしかしたら本当に神代の時代から出雲に高層神殿があったかもしれません。まあ、無かった可能性もありますけど。 回答有り難うございました。