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世の中あまりにもいろいろな人がい過ぎないでしょうか?
人間の多様性に圧倒されて、不吉な気持ちが起こります。 なぜなのでしょうか? 自分にとって価値がある人、ない人がいます。価値のない人が同じ空気を吸ってすぐそばで生きていること、その事実に恐ろしさを感じます。また、その人たちに価値観を感じることができない自分の感受性にも絶望的になります。 こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか?
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>こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :おそらく・・・、というかほぼ確信的に、人はみな怖れているのだろうと思います。 ただ、怖れ方にいくつかのパターンがあるのでしょう。 基本的に、その自分の中の怖れに対して (1)過大評価するタイプ。 (2)無視するタイプ。 (3)評価すべきは評価し、しても仕方のない面は無視する折衷タイプ。 (3)が一応健全タイプ、ということになるでしょうが完全に区分できるわけもなく、誰もが同じような要素を抱えているだけで、要は配分率の問題になります。 では、 (1)の「怖れを過大評価する」とはどのような意味でしょうか。 最初に「人はみな怖れている」と偉そうに述べましたが、 「自分だけが怖れていて、他人は誰も怖れてなどいない」という認識。 これが「過大評価」です。 つまり、自分の中の怖れを過大評価しているという意味で、この表現を使っています。 しかし、あたかも何も怖れていないかのように、時には傍若無人に振舞っているかのように見えるタイプの人々も、怖れていないわけではありません。 単に「(2)無視している」だけではないでしょうか。 自分内部の怖れとまともに向き合うことができないタイプです。 アイデンティティには足がかりが必要だと思うのですが、この足がかりを(2)のタイプは他者に求めざるを得なくなります。 何らかの乗り越えるべき壁を乗り越えることによってアイデンティティは次第に強固なものになっていくはずですが、自分の問題(怖れ)から逃げるタイプの人には、それができません。 他者あってこその自分であって、他者が自己存在のバロメータになるわけでしょう。 他者が幸福であれば自分は不幸で、他者の不幸によってしか自分を幸せだと認識できない人々です。 このような人々を怖れるのはむしろ自然な感覚だろうと思われます。 (1)のタイプの人は、自分の中に兆したその怖れを絶対的なものだと認識するのだと思われます。 しかし、(2)のタイプの人間も同様に(ではなくとも)人生を、他者を怖れているはずです。 つまり、中間を端折りますが(2)のタイプも(1)のタイプを怖れているわけです。 これ(相手も怖れているのだということ)がわかれば通常怖れは和らぐものです。 しかし、そう簡単にいかない場合も確かにあります。 そこから先は、自我を脆弱にしている要因を探る必要が出てくるでしょう。 しかし、一緒に考えさせていただくにはなかなか興味深いご質問でしたね。 >こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :いや、全くおっしゃるとおりでしょう。 なんと言うか、人間の矮小さといったら良いのか、可能性のあまりの貧弱さに絶望的になりますね。 しかし、壁が高いほど乗り越える快感はあるのではないでしょうかね。 また、矮小さの裏には必ずと言っていいほど悲しみが同居していますし、可能性の貧弱さは常に自分自身の問題としても付きまとい続けるものでしょう。 些末な事柄は放っておきましょう。 「世界に対して主体的に関わっていく」という視点の重要性に最近気づかされたのですが、他者に対する怖れというのはもしかすると自分自身に対する怖れであるのかもしれませんね。 主体的に関わっているようでいて、自身に対する怖れへの反動として外部(=他者)に攻撃を仕掛ける、というパターンも散見されますから留意が必要でしょう。
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少し違う視点で no19で書いたのをもう少し逆視点で思いついたままいいますね プラスの感情を求め過ぎたが故にマイナスが飽和したと書きましたが 逆にAというのを価値のある人と感じその人の感性を取り入れるのは良いのですがそれ自体劣化したのでないかと感じます。つまりマンネリ です。マンネリを避けるために価値の無い人を糾弾することでマンネ リ防止を試みているという事がいえるかもしれません。つまり 生まれ変わりたいという意思の裏返しもっと単純に言うと 無意識:「もうAは飽きたんだよなんとかしてくれんかな?」 無意識:「そうだ!Bを糾弾して刺激を求めよう」 半分意識:「ん~なんかBに嫌悪を感じる」 意識:「Bに恐ろしさを感じる」 半分意識:「糾弾してやれ」 意識:「唾ペッペッ、ふん、まったくどいつもこいつも」 無意識:「ああ~刺激が来る~!やっほー!」 半分意識:「あ~すっきりしたw」 ・・・・しばらくして 無意識:「・・・あんな偉そうなことを半分意識の勢いで意識は言ったけど別に俺の無意識は優れた存在じゃないんだよな無意識だし・・よく自分の未熟性を押し殺ろしてく言うよね?幾らカッコつけたいからって本当に未熟な僕みたいな無意識をわざわざ投影して罵倒することないじゃん?非常に傷つくよ。言っとくけど俺は未熟なんだよ!そういう自分の無意識押し殺したりして強引に強がるの辞めてくれない?」 半分意識:「・・・・やめようかな」 意識:「まったく自分の感受性に絶望的になる」 といったところかも?
- naoagu
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人間の多様性、これは、恐ろしくないし、恐ろしいと思ったことは、ありません。 人は、世間に包まれて生きている訳ではないと思います。世間に属しているのです。生まれたその日から、どんな個性も性格・資質もこの世の1部になっているのです。だから、どんな人がどう思い、何をし、考えるか、それは、この世の1員の持つ権利とでも言いましょうか、言い換えれば、自由なのだと思います。 自分の価値観が通り、邪魔されない世の中は、刺激も、学びも無い、つまらないものだと思います。 無風で、色の無い世界を想像してみてください。 そちらの方が殺伐としている様に思えるのですが…。
お礼
属している、と言うのは確かかもしれませんが、あまりにも自身が無力であると言う感じが強いです。だからこそ、殺伐感があるのだと思います。
いや~以外に皆さん臆病なんだな~ということを知りました。 個人的には、人を不当に糾弾する人、人に屈辱を与え苦しめさせることを快感としている人、人の価値を破壊する行為を楽しむ等の「相当酷い」という語が付く人に対しては恐ろしさは感じますが、そうでない異質性やそりが合わないというだけで脅威に感じる人が居ると言うのは感性が沸き難いですね。単純にチンピラ等を見てうわ~絡まれたら嫌だな~というような感性に近いんでしょうかね?そのような傍目間違いなくやばそうとかそういうのには確かに近寄り難いものは感じますがそうでもないのにも関わらず異質というだけで嫌悪するというのはいささかどうなのかという気がしますが>こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか?>これは偏見だと思いますよ、まあ殺伐人みたいな人は居ますが自分の価値に合わない人を殺伐な人と感じることはまず無いですね、そうだったんですかようやく自分がなんで人から直ぐにキレられるかようやくわかりました、その人たちは僕のことを怖がっていたんですね、いや~ありがとうございます。心の中の何かがすっきりしましたw。しかしそんなことで脅威と感じていたら身が持たないと思いますよ。そうだったのか~以外に自分は幸せな存在なんですねwあはは自己自慢w それで本題にもどりますがおそらくご自身は>価値がある人>を求めすぎるが故に相対的に>価値の無い人>を敵対視しているというだけのことだと思いますね。感情の側面で述べますと価値がある人を求めすぎるが故にプラスの感情を主観に取り入れ欲求を満足させてはいるのですがプラスの感情を取り入れ過ぎたが故に感情の化学反応が起こりマイナスの感情が飽和してきたということだと思いますね、そのマイナスの感情を価値の無い人を糾弾することで解消しているということだと思います。なので価値の無い人の認識が歪み>価値のない人が同じ空気を吸ってすぐそばで生きていること、その事実に恐ろしさ>を感じるわけですね、そして自分の価値の無い人糾弾を正当化するために>こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか?>と同意を求める。ただ最近自分を客観視できたのか>その人たちに価値観を感じることができない自分の感受性にも絶望的になります。>と述べているわけですね。
お礼
心理学的な、防衛機制はたしかにありますね。自分では意識できないところで出てます。
- sirona
- ベストアンサー率31% (5/16)
世の中にいる人たちが、すべて自分にとって価値がある存在である世界を想像してみたら そちらの方が恐ろしく感じました。 昨日死んだ人も明日死ぬ人も、すべてが私にとって意味のある人たとしたら、悲しみと不便の中で日々を送ることになるでしょう。 また逆に考えると、その世界では私はすべての人にとって価値がある存在ということですから、 私が死ぬことで世界のあり方を変えてしまうことも恐ろしいです。 自分にとって価値のない人のことは、あなたの世界の「余白」と考えてはいかがでしょう。 すべての人たちがお互いに網の目のように絡み合っていたら、身動きがとれず窮屈ではありませんか? あなたにとって価値がない人というのは、 あなたに「死んでも悲しまなくてもいい」という自由をくれる人だと思います。 生きるために必要な空気の中でも、酸素が占める割合は2割ほどです。残りは窒素+α。 100%の酸素中では人は生きられないといいますし、あなたにとって必要のない人のことは 「こいつは窒素だ」とでも思ってみてはいかがですか?
お礼
私は、そっちの方が恐ろしくないですね。同じ人間の形をしていながら、何のつながりもない存在がこの世にあふれていること事態が恐ろしい。私のことをみんな悲しんでもらわないと困る。そして、私もすべての人を悲しめないと困る。そんな気持ちがあります。
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
確かに、枚挙に暇がないほど色々な人間がいますよね。そう分かっていながら、俺はそのことに恐ろしさとか嫌悪感とかを、質問者様ほどは感じたことはありません。 それはプラスの方向に人間の多様性を捉えているというよりは、ただ単に俺が無関心だからでしょう。己の人生の中で、自分と関わる人間、興味を抱ける人間の度合いと数には限界があります。そういうことで言えば、質問者様が他人に価値の優劣をつけるのも当然といえば当然だとは思います。そうしないと目に入る人全てと接しなければいけませんから。 価値をつけるというと少し聞こえは悪いかもしれませんが、肌の合わない人間(つまり己にとって価値の低い人間)とはできうる限り関わりたくないと思うのは自然でしょう。俺は人の多様性をある程度は認識しているつもりですが、それは受け入れることには繋がっていません。こればっかりはどうしようもないのかな、と思います。違う人格=対というわけではないにしろ、やはり違うということは不安の要素を含むわけですから。 人の多様性を2,3歩離れて見てみると、確かに質問者様のように殺伐と見えなくもないかもしれません。しかし、人にはそれぞれキャパシティがあって、大抵はその中に収まる程度に人と関わります。ほとんどの人がそれを無意識に行っているとすれば、実際に多様性はあっても、それがめちゃくちゃに混じり合うなんてことはそうそうないと思います(もちろん例外はあるのですが……)。 俺は俺の人格を尊重しますが、多様性を祝福したいとも思っています。実現可能かと問われれば、歯切れの悪いことしか答えられないのですが……(汗) 一度、自分の今まで関わってきた人を思い返してみれば、何となく自分のキャパシティが掴めるかもしれません。それが何となくでも掴めれば、いくら人間に多様性があっても、その範囲内が自分の認識できる多様性の数なのだと開き直れるかもしれません。事実としてどうかといえば、逃避と受け取られると思いますが……。
お礼
私がそう感じるのは、一種病的なものがあるようです。関係妄想的というのか、自分には無価値無関係なものがあふれていると言う当たり前の感覚をどうも受け入れられないところがあるのです。 無関係な人間が多数いると言うことが、世界を成立せしめていることなのでしょうか。多様性の当然の帰結です。 自身の許容範疇で生きればいい、後は考えなくていい、というのが健全で実際的な姿勢だと私も思います。
- hopepepepe
- ベストアンサー率13% (4/30)
世の中の人間に価値がないとブツクサ文句言いながら、スーパーで 食べ物を買ったり、店で服を買ったり、本屋で本を買ったり、 マンションに戻ってひとり部屋に帰って屁をこいたり 病気になったら病院に行って注射してもらうわけか。 店員も生産者も看護婦もマンションの管理人もマンション建てた人も あなたにとって価値がない怖いといいきるアンタってステキだな。 人に世話になっといて、役立たずだと文句言う感性が私にはないし それはあなたの個性だねたぶん。でも親には感謝したほうがいいよ。 少なくともね。 缶詰一個、ステーキの肉一枚自分で生み出せない人間が文句いって もだから何?としか感じないが。 世界中があなたみたいに世の中同じ価値観ばかりでお願いします、ちがう 価値観なんかいらない。 しか言わない人間ばかりだったら町に行ってもろくな食料もないし 服もない。ダサいカッコの服とか着たくねえし。 ほんといろんな人間がいて心底よかったわ。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>結局人々が迂遠になっているというその殺伐感を身近に感じる。 >その無責任性と自己性統制に対して嫌悪を感じると言うことのような気がします。 そうでしたか。私の方が誤解していました。 この感覚の方がいらっしゃることは、うれしいかぎりです。 私もその嫌悪感は強いですね。 たとえば、金川被告に対して、被害者でない連中が寄ってたかって、 単に「即刻死刑」「拷問だ」「理解不能」などと吐き捨てるように 発言する精神性に殺伐を感じますね。 本質を知ろうともしない怠惰だとも思います。 このような精神性の集合が金沢被告のような人間を作り出している 構造になっていると思うんですね。 だから醜悪で恐ろしい。そして、その感覚が未来を救うと思いますが・・ 私はそんな風に理解しました。それでは、ダメでしょうか。
お礼
その感覚なのです。 烏合の衆、自分に無関係で、自分の存在などへとも思わず、こっちも相手の存在などへとも思わない存在が無数にいることの恐怖、あるいは恐ろしいほどの殺伐感、そういうものを感じると言うことは一種病的なんでしょうか。 おっしゃるような、犯罪者に対する過酷な非難は、自分が絶対そうならないと言う思いあがりと、選別主義差別主義の合わさったものが取る人間の醜い行動です。醜悪さが蔓延している。しかし、それが未来を救う?どうも結びつかないのですが。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
私も昔 人間が怖かったです。 「どうしてこんなこと」って他人のやること言うことが恐ろしくて、他者と接触することを避けていた。 ところが成長とともに、人をウオッチするのが趣味になった。 知識が増すほどの「なんで?」だったものが、「こういうわけか」と理解でき、かわいらしく思えるようになった。 ちょっと距離を置いて、遠くから眺めると、異質な(私自身も彼らからみれば異質でしょうけど)人々が手の取るように まではいかなくても、行動が理解できるようになった。 私が主に注目するのは、凡人じゃなくて異質な人。 例えばいつも人の悪口言っている人。 自信の無さからそういう行動に出ているとわかると、その人は自己防衛のために、他人に喧嘩をしかけているとわかってくる。 その人が強いんじゃなくて 弱い からそういう行動をするのだと理解できると、「わかった?」って喧嘩腰の言い方されても、クスって心の中で笑って、「そうあなたが望むのなら」と相手が私にやって欲しいことをやる。 そうじゃないと 相手は弱いから耐えられずイライラしてしまうので、相手のためにやってあげる。 ほらね? 相手を手中に収めているから余裕でしょ? かなきり声を上げてヒステリックになって何か訴えている人がいましたが、「まあ 落ち着け。脳がドーパミンを多量に放出してしまい、自分ではどうにもならない状態になり、興奮状態でそのエネルギーを他者にぶつけるしか無いんだよねぇ・・・ がんばりやー」と苦笑したりとか。 ということで、ちょっと距離を置いて他者を観察すると、けっこう見えてきますよ。 人の価値は誰が決めるのか? もちろん他者ですよね。 その他者が権力を持っていたら、その人にとって価値の無い人は、生きている価値なしとして、殺されないまでも、集団から追い出す。 このもっともたる例が、ナチスが行った断種政策。 いい人間の系統だけ残して、世の中平和にしようって思ってやったこと。 「精神障害者や知的障害者は、悪い系統だから、その人たちは子供を残してはいけない。 そんなことしたら、その子供も不幸だし、その人たちがいる社会が不幸になる。世の中を良くするためにポアしよう」ってしたわけです。 で、結局 私が思うには、これは人間の弱さの表れだと思うし、集団の弱さが弱者に向かって牙をむいた事例だと思います。 異質を受け入れられない弱さ。 異質を受け入れない集団で、自分が異質になったとき、殺されるしかないわけです。 殺されなくても排除されるしか無いわけです。 自分は大丈夫? いえ わかりませんよ、ある日交通事故や病気で脳をやられてしまったら、奇怪な行動をあなたも取るようになるかもしれない。 そうなったら、異質排除に一票入れたあなたも、排除されても文句が言えなくなるわけです。 「世の中のために いなくなってください」といわれて「わかりました 死にます」って言うしかなくなるわけです。 で、一般的に弱者とされる人に価値を与える試みが今されています。 主に消費者、顧客という価値を付加することで、排除されないようにする試みがなされています。 その人の価値は誰が決めるか? 他者ですよね。 その他者が、不要とされた人に存在価値を与えることで、価値ある人となり、排除されないようになってきている。 とはいっても、その付加価値の恩恵を受けない人は、その人にとっては勝ちの無い人という扱なので、結局 犬小屋に脳が壊れてしまった親をつなぐって悲劇が生まれるわけです。 そういったときは、その虐待された人を、国が家族になりかわって育ててつつ、そういうことをするまでに追い詰められた家族も救おうって試みがなされています。 で、、、、 子供が思い通りにならなくて、殴ってしまう親とかに、殴りそうになったら、その振り上げた手で受話器を取ってと促しています。 もう限界だと思って殴る前に、他者に助けを求めて と促しています。 ただ、そこまで追い詰められているわけじゃなさそうなので、、、、 んーー 心理学とか人間行動学とか面白いですよ。 他者理解するのに助けになる学問。 「そういうわけか」と理解できたら、怒りは沸いてこないです。 知識が自分を助ける。 というわけで、心理学とかそういった方面の知識を増やすことで、イライラが軽減されるんじゃないかなーと思います。 枠に入れて捉えて「こういうタイプの人だ」と差別として使うのではなく、「こういう特徴の人はこういう行動を起こしやすい なるほど ほんとだ それが理由か」って感じで他者理解のために学ぶってかんじ。 で、パターンに当てはまらない人が出てきた場合「これは新種?」ってもっと観察して、パターンを分析して、「あー わかった 複合しているんだー」とか発見できると、「面白い人」ってかわいらしく思えますよ。 わかったところで、絶対イライラしないってことは無いですけどね。 が、イライラの回数は半減すると思います。
お礼
人間を総合的に、裏から捉えることができるようになると、ずいぶんキャパシティは広がりますね。そのてんよくわかります。 ナチスは人類史上の選別主義を実行した初の試みだったのかもしれません。当然失敗するのです。結局ある害虫を撲滅しようとしても、人間の力では無理と言うこととも通じますね。 そもそも、自分にとって相手が無価値か否か、これはすなわち自分の存在問題と直結しているわけで、当然淘汰の対象にされることになります。それが恐ろしいので、人類社会は選別を許さなかったのかもしれません。 福祉というものは、この選別主義の変形あるいは昇華形なのかもしれませんね。
初めてふるさとを出、国鉄の専用列車で行った修学旅行で、県境を越え一夜明けて停車した大都市のホームに群れていた沢山のひとびとに、その初めてお目にかかる、おそらくその時だけの出会いになるだろう人間たちの日常の光景に私はひどく感激した記憶があります。懸命に生活している彼らがみなひどくけなげで愛しいものに思えたようなのです。 人間が人間との出会いに積極的な意味を見出すのはごく普通の傾向だと思います。人間は社会で生きる動物なのであり、社会なくしては生きられないというのも厳然たる事実だと思います。社会すなわち多様な価値観に生きる人間たちの調和でなりたっていく世界です。人間は本来そうやって生きていく動物なのだと私は理解しています。 その原動力になているものは、俗っぽくいえば愛というものなのでしょう。それがあるからこそひっきりなしに争い、戦争をしながらも人間は結局生き延びてきたし、増えてきたといえるのでしょう。 ところで、質問者様の設問はこういった一般的傾向からずれているように思えます。失礼ながら一時的な神経性対人恐怖症のようにも思えるのですが、どうでしょうか。 これが質問者様が頭の中で想定した哲学的フィクションであることを祈ります。
お礼
神経症的対人恐怖の傾向はあります。 しかし、逆に言うと、幻想性を取り去って、生の人間を感じる、その恐ろしさがある気がしますね。人間一皮向けば野性本能の動物です。その醜態さというのがどうしても恐怖を感じさせます。 回答者さんの、肯定的な感性はすばらしいですね。それが幸福感への第一歩なのかもしれない気がしますが、私にはどうも遠い感情です。
- bananasand
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蚊・・・ねぇ。 http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090603-OHT1T00231.htm 金川被告は「蚊を殺すのと人を殺すのは同じ」と言い放ちましたね。 圧倒され、不吉で、殺伐とし、恐ろしい。 そうですね。 でも、私には、金川も加藤も身近に感じられます。 彼らの息づかいを自分の中に感じます。 そして、彼らへの理解が恐怖を遠ざけるでしょう。同じ人間です。 あとは、交通事故に遭うかも知れないから外に出れない と言っているのと同じではないでしょうか。 楽園はすぐそばにあると思います。
お礼
私は、こういう「怒り」(もちろん病的ではあるが、それは健常と紙一重だと思う)からくる無差別殺人と言うものに対して、結構身近なものを感じるのです。それは私自身の社会、世の中への怒り、憤り、(双方的)拒絶感というものが、彼らの志向性と方向性としては一致するところがあるからでしょうね。もちろん、だからと言って実際に人を傷つけるかというと大きな隔たりがあります。 なんというか、結局人々が迂遠になっているというその殺伐感を身近に感じる。その無責任性と自己性統制に対して嫌悪を感じると言うことのような気がします。
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お礼
詳しい解説、ありがとうございます。 分析は大体正しいと思います。3のタイプが理性的で、一番つわものですね。 自身のベストを尽くし続けること、これが恐れに対する最善の策だと思われます。