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リカちゃんについて

 1967年にタカラから発売された、初代リカちゃん人形にはヘソがついています。けれど、確か一年後にはヘソが無くなったと思います。メーカーの言い分はわかるのですが、この背景には、もっと人間社会に結び付いた深い理由がある気がします。  その理由について、何か思い当たることがあれば教えてください。  過去の質問は一応当たってみましたが、僕には見つけられませんでした。以前の情報でも結構です。実は個人的な理由から、急いで回答を見つけなければなりません。どうか、よろしくお願いします。

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回答No.19

こんばんは、ri_rongさん。 BGMに かたちあるもの / 柴咲コウ を ききながら(You Teub) あったものがない  あった期間 と なかった期間 あった期間はなかった期間より短く なかった期間はあった期間よりも長い なかった期間が長くなると人の感覚からして なくて当たり前となり あることがめずらしいと おかしな感覚が芽生える 英語で人形を≪doll≫ドールといいもするけれど…人形は人を形どったもの ならば、へそがあってもよさそうなのになぜかない、ないないない 「ないないない」 と いくら叫ぼうとも 返ってくる言葉は 「バカね、人形だからおへそはないのよ」と 答えであるかのようで答えになっていないような言葉 「ないんだ」と受け入れたとき「あること」に気付く 原爆で亡くなった少年少女は約1万人… http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa1.html 1967年8月9日、「長崎平和折鶴会」が設立 リカちゃんから、へそがなくなったのは 哀悼の意ではないでしょうか?

ri_rong
質問者

お礼

 たぶん、これ以上の回答はつかないだろうね。  納得した。そうか、哀悼の意――か。そうだったのか。

その他の回答 (18)

noname#96756
noname#96756
回答No.18

ri_rong様、こんばんは~。 今しがた、下の子に「ママ、お腹が痛いよ~」と寝室まで来られて、トイレに行かせてとりあえず寝かしつかせたところです。 目が覚めちゃいました。 明日は病院かなあ。 >僕の人生のなかで、ある頃までは、それこそ無警戒にヘソは付いているものだという思い込みがあった。どんな些細な物でも、当たり前のようにヘソは付いている――そういう自分、そういう社会だったような気がするんです。ところが、気付いてみると、どうも様子が違っているような気がした。そんな気がしたんです。 あのですね、どんな些細な物にも、当たり前のようにおへそというものはついていないはず。 だとしたら、リカちゃん「人形」に1年間だけおへそがついていたことの方が「不自然」だったのではないですか。 おへそって、哺乳類である母子を結ぶ絆の名残でもあり、内界と外界を結ぶ経路であり、ここを断って初めてオギャー!と赤ちゃんは自立し呼吸するのですよね。 その経路を「わざわざ閉じた穴」だから、不死身の人形に「生の証であるおへそ」があること自体が、逆に「ちょっと尋常ではなかった」気もだんだんしてくるのですが、どうなのでしょう。 リカちゃんはおへそを失くしてそののち、ようやく「わたくしに晴れてなれた」のではないでしょうか。 リカちゃんにそっとたずねてみてください。 恐らくへその緒も持っていないし、元々知らない、と答えるのではないでしょうか。 そしてri_rong様のおへそをとても羨ましく思うかもしれません。 >クルーザーですか。それこそ、優雅ですねぇ。うちの女房は活動的ですが、僕はまるで逆で、引っ込みがちです。アンティークの市なんて良いですね。 奥様はハンサム・ウーマンでいらっしゃるのですね。素敵! 船舶免許は持ってるから、次は小型の飛行機にチャレンジしようかなあ(笑) 海はね、いいですよ~。 波に身体を揺られるとね、陸地では忘れていた野蛮な感覚を思い出すかのようで、多少疲労感を覚えますがそれ以上の爽快感を得られますから。 ル・アーヴルの地形ならふんだんに風に恵まれていそうだからヨットを時間貸しでチャーターなさってみたらいかが? その際は酔い止めもお忘れなく♪ >あと、屋台や野菜売りとか。この店には名物男がいるとか、恰幅の良いおかみさんがいるとか。美人の売り子がいるとか、うまい水が出ている飲み場があるとか。そういうのを知っている方がいれば、情報が欲しいなと思いました。 んま。 そのような超コンフィデンシャルな情報が、回答者の美しき善意と海より深い教養かつ趣味で成り立っているok-gooで得られるとお思いなのですね? わたくしもあちらの質問により良い回答がつくことを願っているのですが、もしかすると、これこそri_rong様が突撃体験なさって「いや~、あのクレープ売りの娘は金髪でシャイそうだったけど、お茶に誘ったら簡単についてきて、とても話が弾んだよ。」等とご回答なさるべきnoblesse obligeがあるのでは? どうぞこれを機会に自称「引っ込みがち」の汚名返上なさって下さいませ。 ついでに…イケメン情報のほうもよろしくお願い申し上げます^^

ri_rong
質問者

お礼

 あなたには、参りましたね。  しばらくお礼は付けられないけど、教えていただいたことを考えつつ行ってきます。どうもね、男ならいざ知らず、僕は俗な人間ですから、そんな簡単にお茶なんて誘えるわけ無いじゃないですか。

ri_rong
質問者

補足

 それで、坊やは大丈夫ですか。ずっと考えていたんですが、医者じゃないし、僕にはどうすることもできない。大丈夫でしょうか。

回答No.17

 ri_rong さん こんばんは。  香山リカと申します。  でもほんとうは わたしは ちりから出てちりに帰ると言われる人間ではありません。一時期 人と同じように へそがあったので 人のように話すことにします。  へそ もしくは へその緒と言えば わたしたちのこの世に現われ出た歴史的時間ですね。そしてこの自然の誕生のあと 《わたし》としての誕生もありますね。自己に還帰すると言います。  これらを踏まえて へそでつながれて生命存在となったときからの誕生は この世界へのわたしのイリ(入り)です。このイリは 両親にとって授かりですし わたしにとって恵みです。  そうしておそらく へその緒は あとからの確認としてでも この恵みによるイリに対するわたしの領収証書です。  こうして わたしの生は ちりに帰るまで 恵みとその受け取りとの呼応によって 《イリなるとき》の現在が持続します。これを 永遠の現在と言うのではないでしょうか。  ちりから ちりまでの言わば線分としてのわたしの生も こうして イリの持続としての現在過程となって 現われます。この線分としての時空間は 言われるようにわたしの固有時です。固有時である限りで――そのわたしなる主観の動態である限りで―― すでに永遠の現在過程が持続します。ちりの以前も ちりの以後も もはやどうでもよいとうそぶくことが出来るほど この現在動態という時空間は とうといものであるようです。  そのことを へそとへその緒が象徴しています。    ところで わたしは その後 へそを失くしました。  それは どういうことだったのでしょう。  そのときの事情は いまだによく分かりませんが いまの情況に応じて考えるなら 少し思うことがあります。  へそを失くした。もしくは へその緒を粗末にしてしまった。となると どういうことになるか。  おそらくそれは わが誕生にかんして どうでもよいと主張しています。生誕をわがこととし受け取り証を出すことをなさなかった。しかも さらに その生誕という歴史的時間を 難なく超えてしまう。わたしは どこかの誰かの生まれ変わりではないかと想像力をたくましくして思ったりする。  どうせなら また再び三たびわたしは生まれてくる。いま そんなに騒ぐことはない。と うそぶくことになります。  これは 生まれてきたその自然本性でいいやと〔は〕言っているわけですが その自然本性と言いますか 要するにこの《わたし》なる存在について まだどこまでも 領収証書を出さないまま そうしていることです。自己還帰しない。自己を確認しない。  固有時としての現在過程ではない。この宇宙における《わたし》なる固有の時空間が 永遠の現在として推移するのではなく そうではなく ただ生まれ落ちたその状態としての現在が そのまま――ということは領収証を発行しないまま―― 永遠につづくというふうに思いなしている。  したがって ちりから出たというときより前の時間やら ちりに帰るというそのときより後の時間やらにも――たしかに 人間の想像力にものを言わせて―― 遊泳するかのごとく たましいを遊ばせている。  これは つまり《現在の永遠》なる理論は 《永遠の現在》思想よりも 幅が広く度量が大きい感じがする。果たして そうだろうか?  へその緒を失くしていることは どこか ゆめの中に遊ぶということではないのか。うつしき青人草として生まれ来たその《うつつ》のことを分かっていないのではないか? はっきり言ってしまえば ゾンビか幽霊かではないのか?

ri_rong
質問者

お礼

>へそ もしくは へその緒と言えば わたしたちのこの世に現われ出た歴史的時間ですね。  正確に言えば、わたくしになるまでに一年間という空白があります。そののち、わたくしに「なった」のです。リカは、そのように申しております。  これは彼女だけでなく、僕もそしてあなたも、そうです。ヘソを失うまでのとてもわずかな期間です。そして、わたしが存在する前のひとときです。そこを僕は今、考えています。  ゾンビーもゴーストもいません。問題はヘソです。無くなったんですよ。

回答No.16

 ri_rong さん こんにちは。  No.12の補足欄でのご指摘 ありがとうございます。  ○ 文体としての人間の存在 これは 動態であり過程である。  ☆ とは心得ていますが たぶんその裏付けの方面では あやふやだと思います。  これを承けるかたちで きょう別様に 新知見がありましたので しかもずばり重なっていますので お伝えいたします。信仰類型論に言う・絶対との関係としての非思考を カントが しっかりと言っていたという事態です。  ▲ (木田元:反哲学史) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・数学と同様に普遍妥当性をもった認識と認められている理論物理学は 直観の形式と悟性のカテゴリーとの組み合わせによって生ずる現象界の形式的構造についての先天的認識の体系にほかなりません。  こうしてカントは 一方において数学および数学的自然科学(ニュートン物理学)の確実性を基礎づけるとともに もう一方では 独断的形而上学を否認することになります。というのも この独断的形而上学は もともと現象界だけにしか客観的妥当性をもっては適用されえない空間的・時間的規定やカテゴリーを 神だとか世界 不滅な霊魂といった元来現象としては現われえないものに適用して 勝手な理論構成を試みているにすぎないからです。  彼は こうしたものはわれわれの認識の対象にはなりえないのであるから それについて議論してもはじまらないと言うのです。ハイネが カントは神の首を切り落としたというのは このことにほかなりません。  ・・・  神の問題にしてみても たしかに彼は『純粋理性批判』においては神の存在を否定しているかに見えますが それはむしろ 神を理論的認識の対象として扱うことの不都合さを主張しただけなのであって 彼の言葉を借りれば     私は信仰に席をあけるために 知を否定しなければならなかった  のです。つまり 信仰を純粋に信仰として生かすために 知識と信仰とを峻別し 知識のおよぶ領域を限定する必要があった というわけなのでしょう。〔彼は 理論的認識としては否定した形而上学をも《実践の形而上学》として つまり道徳的実践の条件として生かそうと試みています〕。  (1995版 §8 pp.150&152)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰類型論に関するかぎり わたしは このカントを知らなかったで通しますが 通らない〔部分がある〕かも知れません。  ご指摘いただいた 動態性を内容とする過程という視点で 踏ん張りたいと思います。ありがとうございました。

ri_rong
質問者

お礼

 ブラジュロンヌさん、ご回答をありがとうございます。  僕はいつも教えていただいてばかりなのですが、今回もまたそのようです。引用して頂いた部分は、とても納得できました。でもまあ、あれですね。カントほどの人ならいざ知らず、僕の場合は敢えて意図して信仰に席を空けなくとも、もともとずいぶんすき間が空いているようです。知識というものの、そのすき間を「何か」がちゃんと埋めてくれていて、そのおかげで一続きの線を見たような気持ちになれる。そして、そのおかげで、僕はリカちゃんのヘソについて考えを巡らせることができているようです。  実は「オタク」についての質問の行方を、興味深く拝見しています。マニアとはどう違うのだろうか、とか思いつつ。でもともかく、この質問とは、とても深いかかわりがあるのではないか? そんなふうに思っています。  ヘソとヘソの緒は、本当に失われたのだろうか。  それは、奪われたまま誰かが隠し持っている――のではないか――などと考えています。損なわれた繋がりの理由が何であったのか? それに対する評論は、これまでにもずいぶん聞いたのですが、僕の見るところ、ヘソは今でも損なわれたままなんですよ。

noname#96295
noname#96295
回答No.15

副腎皮質のコルチコステロイド分秘のほうが過剰になると、太ったりむくんだりして、弛緩した疲れやすい体質になりますが アンドロゲン分秘というのがあって、この過剰は、性的早熟や性転換志向にかかわりがあると考えられています。。。 > でもこれって、美質なのかな。 使い方があるでしょうね。 > 歌を教えてもらった ふつう、これで意味が伝わりますか? 手短に言いようもないのはわかりますが。 動物の童謡を教えてもらった、という意味でよいですか。 余談ながら、 意味を具体的に取ることは、相手の発話の底を掬い取る労働なのですが、 ときどき、勘違いしている人がいると思いませんか?  意味を暗に探ることが、発話の底を取ることだというふうに。 明晰さに欠く事項はどんな事柄でも知性の所為ではないとわたしは思います。 見えないロジックでも明晰なものは明晰ですからね。 > 小皇帝 昨今の中国の政策と経済、社会、流行の産物の? そりゃそんな呼称をつけられた人は否定してよろしいのではないですか。ギャグにできる器がなければ。 ところであなたは、一般・総論と、特殊・個別の話の織り交ぜかたが、素早い振り子のように極端にふらつくのですね。 読点ごとに個別論、一般論、持論が。。。 そしてこの補足文中には5箇所以上の術語が小皇帝を主語としてあなたに直接関わりなく入り込んでいる。 老婆心ながら、避けるべき傾向と思います。 民間企業はあなたのお勤めでよろしいですか。これはちょっと読みにくくて。 > 知性を査定 あはは。知性って。。。 インテリジェンスには、ノーブレス・オブリージュとでもいうような義務が伴ってほしいものです。 そういう意味では、師友との対話や自然に対して培われるところの、アフォードの理解から始まるもので、 自分の内側にて書物やネットの引き写しから生成されるものではないと思うのですが。 お体ご自愛ください。

ri_rong
質問者

お礼

 お忙しいのに、ご回答をありがとうございます。 >> 歌を教えてもらった >ふつう、これで意味が伝わりますか?   あなたも変わった方ですね。  世間ではふつう、これで意味が通じると思いますが、それが通じないと思われるのは、そう思わせる「何か」があるということではないでしょうか。「歌を教えてもらった」――へぇ、そうなの?よくわかんないけど――というのが大方の反応であり、それ以上の深みには向かわない。違うでしょうか。 >意味を暗に探ることが、発話の底を取ることだというふうに  思う人は、とても稀だというのがむしろ一般的で、自分に係ること、身近なこと、という特殊を感じて初めて「本当の意味は?」という読みが生まれる。見えないロジックという難しい表現よりも、他者の語る言葉のなかにふいに自己を見つける――という、その無意識の海へ、人はいつもダイブするのでしょう? だとしたら、明るさ暗さということよりも、潜ってみようとする営みに僕は知性を感じます。これを感情だとは思わない。  そして海はいつも、暗いものだと思いますけど。 >あはは。知性って。。。  まあ、あなたにとっては、つまらん表現でしたね。一世紀ほど前の時代でしたら、貴族の責務にも意味があったとは思いますが、どうでしょう、近ごろは孤独の責務に気概を感じて暮らすよりも、みなさん上手に孤独とお付き合いをされているような気がします。  敢えて、確認を求められた言表はすべて避けましたが、とくに問題は無いでしょう? >お体ご自愛ください  ありがとうございます。 

noname#96295
noname#96295
回答No.14

玉でなくて剣ですか、そういえば 水脈探しに使うのはロッドですね。さしずめ冥府のへそをたぐって、ぐるぐるぐるぐると。。。。 ときに、けん玉協会の会長をされていた丸石氏とわたしは 20年ほど前の一時期、身近でした。 初めて錬金術の化学史を教えてくださった方でした。 傾向というのかどうかわかりませんが、 あなたは象徴における抽象と捨象を 何度も手放し組み直すことができますね。 物語の層が不定形に沈澱しているタイプの、情報の取りかたで、 材料がどれほど豊富で緻密でも、飛躍的に表現へ上がってくるから、実証的なタイプとはいえないということはないですか。 そしてこれを逆に演繹的に再認しようとすると、参照点が自分の内側にある。 もしそうならば、これは本来的に備わった美質だと思います。 違っていたらすみません。 普通ならば、強いて変えるようなことではないように思いましたので。 脳腫瘍などの自己の違和感としてある傾向ということではまた話が違ってきますけれども。 前にも言ったかもしれませんが、わたしはあなたの性質のようなものを警戒しました。 あなたに対して怒ったことはないのですが、あなたの因縁の女には怒っており、この者はわたしへの謝罪の機会を失いました。 わたしは軽蔑や哀れみにすり替えることなくきちんと怒りを保有したいと思っています。 感情ではなく態度なので、怒るという言葉は完全に合致しているわけではないのですが。 下記の質問者は最後のお礼欄に名を記していますが、サイトに特化したサーチを使わなければ足跡は辿れませんし、それでもきっと半分も辿れません。 おそらく接続とログインの問題ではないかと思っていますが、ほかにも理由があるかもしれませんが、 入会を長期に継続しないので断続的に退会コードになるのです。ちょうどあなたのようにですね。 わたしはこの人を友人と呼んだことがあります。以前2人組と揶揄った人の前なので半分ブラックユーモアです。 残りの半分と、消えないちいさな灯明のような気遣いが、あなたのアンテナにかかったのではないかと思います。 あなたの因縁の女がこの人を攻撃するつもりでわたしを攻撃したので、わたしの感情としては難しい困惑があります。 アンテナにかかったとすれば、あなたの精度の良さがやはり天賦のもので、あなたの傾向に共応するものだと思います。 だとしても、わたしが男でないことはこの人は知っていたはずで、名歌・男の友情は流れておらず、 アンテナよりアンプのほうが何だかなあ、なのですが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3911128.html

ri_rong
質問者

お礼

 貴重なお話、ありがとうございます。 >けん玉協会の会長をされていた丸石氏とわたしは  これはびっくりしました。僕は協会の奥住さんと、ずいぶんやり取りをしましたが、たぶん先様もよく覚えておられると思います。 >違っていたらすみません。  いや、かなり当たっています。実証的になりたいと思っていますが、仰るように、内に目が行く。でもこれって、美質なのかな。全ての思い込みを振り払って、テクストだけに目を向けないといけない――作品を仕上げるたびに、こう言われます。  そして、自分でもそう思う。僕は、実証家になりたい。  六年前に副腎に腫瘍ができて、ちょうど駒場で定例のラテン語講読会の最中でした。終わったあとの恒例の飲み会で世話人の人から、飲んでないじゃないですかと言われて、初めて自覚したんです。酒が飲めなくなっていた。最初は頭痛だったんですが、医者にかかったことなどないものですから、親知らずが問題だとか、肩こりだとか、あれこれ原因を疑って、血圧が高いという事に医者が気付くまでに半年ほど過ぎました。切り取ったときは、十センチくらいありました。  五年間大丈夫なら、心配しなくて良いと言われました。  月に二回ずつ検査を受け続け、五年は過ぎました。でも今年になって、引っ掛かりました。確率がどうとか、転移の場合は保険がどうとか、結果はひどく簡単なものでしたが、根が軟弱な男であるだけに、こういう日常が、アンプの役割を果たしたんでしょう。 >下記の質問者は  スレは知っています。ただし、それは僕の力ではありません。歌を教えてもらったんです。だから探すべき相手はすぐにわかりましたし、ある程度の把握はできていました。  でもね、どう言うんですかねぇ。  よく知らないけど胸が痛むじゃないですか、だから大手を振って歩いてやろうと思ったわけですよ。僕は人間の心理に疎いから、どうして痛むのか、こういう難しい感情ってよくわかりませんが、少なくともあなたを男にしておかないと、きっと僕はつぎにどう言葉をかければ良いのかわからなかったんだと思います。  それで、あなたは男になった。

ri_rong
質問者

補足

>因縁の女(リカちゃん?)  というのは小皇帝の事だと思いますが、せっかく貰ったその形容に、そうでは「ない」という、無いものばかりを数えたがるのは、それだけ恵まれている――そう自惚れている何よりの証しであって、「ある」ものばかりを数えたがる彼女とは、どうにも反りが合わないのだろうと思います。  けれど、どう言うんでしょうか。会社を持っていると思うんですが、僕はその人に「ある」ものの量を基準にして、その人の知性を査定したりはしない。そうではなくてその「ある」を、その人がどれくらい疑っているかを基準にして、知性を査定するのだと思います。民間企業ですからね、世知辛いのかもしれません。  あるいは僕に、夢が無いのかもしれません。

回答No.13

 身も蓋もない内容が 理由だったという可能性は ないのですか?  つまり はじめは へそがあるのが普通だと思って作ったが 原価を下げるために無くしたというものです。そのぶん 定価がどうなったのか調べないままですが。  ★ 大きさではなく、濃度の問題だと考えますがどうでしょうか。  ☆ この《濃度》というのが 何とも 腑に落ちるしろものではないのです。(数論の素人だけかも知れません)。でも  ★ 自然数や有理数の持つ無限と、実数の持つ無限は、大きさはどちらも同じ無限だけれど、濃さが違うので双射がない。  ☆ というように 《双射――全単射のことでいいのですよね?――がない》となれば この無限集合による知解の道は断たれるでしょうか。それにしても 《無限》に《元=要素》があるということじたいが 飲み込めません。  それに わたしの問題意識は 落合仁司の議論が呑み込めないということ。そして 一般には どう扱われているのか。これでした。  ★ 図形世界  ☆ のことは これからです。でも 本音を言えば もし《定理》がおおむね妥当だとなれば それで満足です。その数学による根拠づけは わたしには 無理です。でも一応は 勉強しておきます。   ★★ (2)《考える》と《信じる》→様相論理   ☆ これも課題目録に加えておかねば。  ★ 様相  ☆ については いつぞや 耳に入れてもらったような。

ri_rong
質問者

お礼

 とお書きなのは、集合Aから集合Bへの全単射があるとき、AとBは濃度が等しいと言われる――このことでしょうか。けれど、これには集合Bから集合Aへの全単射があるというのが、前提になっています。ウィとノンを仰っていましたよね。表記を変えて|A|→|B|に全単射があり、|B|→|A|に全単射がある場合、|A|=|B|となる――これがカントールの定理だと思います。  可算濃度(自然数の濃度)内で語れることを考えるとき、小難しい話よりも、やはり基数と序数の性質に注目したほうが良い気がします。例えば、正の整数すべてを1,2,3,4,… と並べた場合の基数を集合Xと呼ぶと、これを並べかえて2,3,4,…1,とした場合、基数の濃度は変わりませんが、序数はX+1になって少しだけ濃くなります。どうしてかは、先に書いた質問と回答の喩えを思い出してください。  この+1の分が、あるいは物語であり、そして知解にはとても重要だと僕は思います。

ri_rong
質問者

補足

 ご回答ありがとうございます。 >身も蓋もない内容が 理由だったという可能性は ないのですか?  No.1の回答補足欄へ少し詳細を書いています。  そして、模範的な回答としてはNo.10ですでに頂いており、「当否の問題は ri_rong さんご自身の側に」あるということだろうと思います。僕は行動を起こす前に、考えているのです。ふんぎりが付いたら、後は行動するだけです。  行動はもはや、仮想空間での出来事ではないでしょう。 >この《濃度》というのが 何とも 腑に落ちるしろものではない  一旦、無限から離れてみれば良いのではないでしょうか。数を数える――と僕らが言うとき、それは個数を数えているのではないでしょうか。  ひとつの質問に、いくつか回答がつく。この回答の番号表示を、果たして僕らは「個数」として数えているのでしょうか。如何に回答者間の応答が規制されているとはいえ、後の回答は、先の回答内容をも「含んでいる」のではないでしょうか。  そういう場合、順番を持った数(序数)として、僕らは数えているだろうという区別がまずあります。それに対する言葉で基数というのがある。個数というのは、この基数のうちで有限集合の場合に限られた数え方です。  初等の英語授業で、数詞について日本語には欠けている言い回しを習うと思います。基数と序数もそうですし、カップ一杯のコーヒーとか、ボトル一本のワインとかという、あの表現のことです。こういうのは、ブラジュロンヌさんの方が詳しそうです。 >《双射――全単射のことでいいのですよね?――がない》となれば この無限集合による知解の道は断たれる

noname#96295
noname#96295
回答No.12

謝るのが趣味なら、止めやしないからよそでやってくれますか。 それにしても知りあう前にどこかで育った感情で話をするのが流行っているのか? そういうの妄想っていうんでしょうが。 矜持に惚れたとでも言いたいのかわからないけど、男の友情っていわれてもなあ。 燃えるゴミか粗大ゴミかよく知らないし。。。 玉とヘソの質問が繋がってるとなると、そっちのほうが問題点だという気もする。 アントナン・アルトーか、「世界のヘソ」デルフィのオイディプスか。 全体性の謎、生の前後の謎、瞬間性に閉じ込められている存在の謎とつきあい そういうヴェール越しのままのそれらをかかえて土に還る。 盲目儀式的に。 リカちゃんの隠されたおへそは円環世界における神託なんじゃないですか。 としたら、その破砕が即ち出自の否定と。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答、ありがとうございます。 >玉とヘソの質問が繋がってるとなると、そっちのほうが問題点だという気もする。  いずれも後付けの知識だと思うんです。だから繋がっているはずだ、きっとそうだと思っていますが、ぐるぐる回る、そういうのをどうすれば断ち切れるのか、それがわからないんです。「玉とヘソ」は別々のはずなのに、そこから何か、共通項を拾って読もうとする――そういう傾向を僕は持っていて、たぶん、その傾向を変えたいんです。

ri_rong
質問者

補足

 >玉とヘソの質問が繋がってる問題点  正確には、「剣」と「ヘソ」の繋がりだと思っています。

noname#117439
noname#117439
回答No.11

a6です。 一つ誤解があったことをお詫びします。 私はおもちゃ屋さんに勤めているので、好き好んでいろんな女の子の人形を買っていく成人男子になじみ深いです。 それを踏まえての回答でした。 話はそれますが、たとえばブリキ玩具何かを集めたコレクターは当初幼稚な人と世間で軽蔑されていましたが、現在は夢のある人と尊敬すら集めています。オタクとは全般にその道の先駆者たらんとする人であり、おっぱい丸出しや、パンツ丸出しの人形を好んで買っていくおたくたちもやがて、理解を集めるでしょう。

ri_rong
質問者

お礼

>現在は夢のある人と尊敬すら集めています  例えばネットの記述から、自分が関心を持ちそうな言葉や出来事を拾い集めてリストを作る――それをリストマニアと呼ぶなら、そのリストを読んだときに感じる傾向から、その人物がどんな人なのか想像できたりしますよね。  ただし、その相手が自分だとなれば、リストを読むときの自分もまたその傾向に染まっているわけだから、読んだその傾向はマニアの集めるリストの一部でしかない。  僕はこの傾向を何とかしたいんですよ、たぶん。

ri_rong
質問者

補足

 >オタクとは全般にその道の先駆者たらんとする人であり  この質問の核心にとても近い問い語りがされていると思われる質問を掲げておきます。  ・http://okwave.jp/qa5021239.html  できれば答えを綴って欲しいのですが、如何でしょうか。

回答No.10

 bragelonne です。    まだ進んでいませんが カントールに関して 以前に わたしが この落合氏との関連で 質問していました。それを 役立つかどうか分かりませんが 掲げておきます。  【Q:三位一体とカントールの無限集合】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3050914.html  * 信仰類型論は 全否定ではなかったのですね?  もっと細かく ここは詰めが甘いとか どしどし指摘されるものと思っていました。  * 森毅:魔術から数学へは 県のも市のも図書館では 貸出中なので(人気があるのでしょうか) 講談社学術文庫のようですから 明日 本屋に行って手に入れます。

ri_rong
質問者

お礼

 お答えをありがとうございます。  三位一体を集合論のようなもので考える――ということですか。そういえば、アウグスティヌスですよね、無限の概念を教義に加えたのは。ダンテの針の上の天使の問題とか、ずいぶん長い間、無限に関する問題に論争を費やしていたと思います。 >無限集合にも 全体と部分とがあり また全体とベキ集合とがある。部分集合もむろん無限だが 全体集合に対して 大きさで差異化される  大きさではなく、濃度の問題だと考えますがどうでしょうか。濃いか薄いか。その濃さの違いがあるとしても、おっしゃるように無限としての概念においては同一である。自然数や有理数の持つ無限と、実数の持つ無限は、大きさはどちらも同じ無限だけれど、濃さが違うので双射がない。  むしろ、中世世界の図形の類比のほうが、説明し易い気がします。ピタゴラスの世界図像のような、三角形の組み合わせとその相似形です。数で捉えるよりも、図形で捉える。  どうでしょうか。

ri_rong
質問者

補足

>どしどし指摘  だそうですから、少し補足します。 >世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。  最も大きな指摘を要するのは、無限を「もの・こと」だとするこの前提にあるような気がします。ところが、この不可思議な前提が、進んで行くうちに無限本来の意味合いを取り戻してくる。無限というのは、ひとつの過程。それが極限の過程であるというだけに過ぎないわけで、その過程という概念が、どのように扱われているか再見してみましょう。  ――そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか  これが、過程を現わす言い方でなくて、何だと言うのでしょうか。自然数のように構成可能性の無限と、実数のように連続的存在としての無限とは、その過程において区別されるべきであり、その前提とは独立して結語が語られるところが、特徴だと思います。  構成可能性から始まる議論ですから、それが実数的でないのは当然なんですけど、つまり、一見すると筋が通っていそうな難しい過半の記述から、どういうわけか、最後の結論は突き抜けているのです。けれど、無限を過程として読むとき、結語の持つ意味は、その過程の違いを扱う処方を述べています。これが、抜けの正体だと思うのですが、  果たして、伝わるのでしょうか。

回答No.9

 ri_rong さん 検証していただき 大変ありがとうございます。太痲煩了。謝謝。  ★ 位相・位相幾何学・連続性(コンパクト)・集積点・有界閉集合  ☆ について勉強する前に 勘でお応えしておきたいと思いました。  ○ 集合  ☆ を出したのは 以前に 落合仁司:『「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか』を読んだときに カントールの無限集合だったかを耳にしていたというただそれだけのことからです。  さて ぜんぶ 勘ですが 次の反応を持ちました。  ★ 対話――コミュニケーションを通じて、区間に刻み目を入れることで、その行いによって、より集積点に近付けることをイメージされている  ☆ これには ウイとノンの二通りの応答があります。  《信仰類型論》 言いかえれば 《有神論と無神論とは 同等であり 有神論のいくつかの神は それぞれが 無神とも同等であるごとく 互いに 同等である》――この理論を共同主観とすることに関しましては ウイです。この理論を共有するというとき 互いの主観のあいだの隔たりとしては それがゼロとなる集積点を目指します。  ノンは 実際の具体的な主題や課題や政策をめぐっての対話ないし議論における 互いの主観のあいだの隔たりについてです。これは 互いに相違する見解や意見があってもよい。あるのが 普通だ。と考えます。ですから 目指すのは その違いを きちんと互いに了解することです。つまり こちらでは 集積点をねらいません。  ★ これがブラジュロンヌさんの定理(なんだか、それっぽい名前ですが)だと思うんですが、如何でしょうか。  ☆ かなしきかな 上に述べた点をのぞけば 反応いたす能力が まだ開発されていません。  ★ どうでしょうか。  ☆ という疑問形から始まって  ★ で、そういうことであれば、このコンパクト性を持った網目を想定するブラジュロンヌさんのお説は、その通りだと僕は同意いたしましょう。  ☆ というふうに 《同意》という言葉を頂戴したのですが けっきょく全体として どういうふうなのか 掌握しえないでいるからには 反応が定まりません。   これから 開発に乗り出しますが 何か 鍵語などがありましたなら これこれを当たってみたまえなどと記しておいてくださいませ。不一にて。

ri_rong
質問者

お礼

 お答えをありがとうございます。 > ☆ カントールの無限集合だったかを耳にしていた  落合氏の本は読んだことがありませんから何とも言えませんが、それは可算無限と非可算無限のことですよね?   それを使っていったいどんな宗教を説明するのでしょうか。アラン・ソーカルの軽蔑的な視線が気になりますが、覚悟を決めて書けば、こういう事でしょうか。   (1)考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと→可算かどうか (2)《考える》と《信じる》→様相論理 (3)超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。→双射かどうか  という事でしょうか。数学のカテゴリーで質問したら何を言われるだろう――という慄きを感じつつ、思うことを書いてみたいと思います。 >何か 鍵語などがありましたなら これこれを当たってみたまえ  ということですから、森毅さんの『魔術から数学へ』という本を掲げておきます。 >これには ウイとノンの二通りの応答があります  さて、その本に倣って説明するとすれば、p.65の「石」と「砂」の比喩が良さそうに思います。少しかいつまんで説明すると、古代ギリシャの数学には二種類の系譜があって、著者に依ればそれは「数論」と「幾何」だという事です。  「石」の数学とは数論のことで、石を並べて1,2,3,4…と数を数える。「砂」の数学とは、砂に絵を描くものです(要するにコンパスと定規が使えるヤツ)。前者は粒を基本にしているので、それ以上はわけられない原子からできているのに対し、線のほうは連続して繋がっているので、幾らでも分けることができる。  前者の考えではそれ以上には分けられない点からできている線が、後者の場合にはどこまでも分けられるという――この食い違いが問題になるケースです。  遥かむかしに、南イタリアあたりで、この「石」と「砂」の争いがくり返されたわけですが、この違いについてはどうでしょうか。  ところで僕のリカちゃんは、いったいどうなるのでしょうか。質問者の手応えとしては、《信仰類型論》は、どことなく何か関係しそうだとは思いますが、少なくともカントールは関係ないのではないかと思いますよ。