ri_rong さん ご返答をありがとうございました。No.9です。
前回の投稿は リカちゃん人形に直接かかわらずに 失礼しました。
そのつてで ただちに お応えしようと思えば
★ 似像の所有を考えるとき、リカちゃんは僕にとってのそれだとでも?
☆ これは リカちゃんを介して誰かの存在やその人とのいろんな意味での出来事が 似像として 外から 内に入ったという場合が考えられると思うわけです。
★ 沼
☆ は 考えてみれば おどろおどろしいですね。ま 水が澄んでいるのでしたら ありがたいと思うべきですね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
けれど、お答えを頂いて、少し肩の荷が下りた気がします。
まったく策士ですねぇ。愛の膠でしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここは はて何のことかいな?ということなんですが 《肩の荷が下りた》のでしたら よかったと思いますし あるいは 《策士》というのは 次の箇所の
★☆ 《信仰類型論》
☆ のことでしたら これは すでに 二三度ここで投稿しています。数学の観点から見ていただこうという魂胆でした。
国立一期を受験しましたので 高校の文系数学までは終えており成績もわるくはありませんでした。けれども 驚くなかれ わたしたちの時代(それとも 地域差でしょうか)は 集合については 学んではいないのです。
そういう意味ですよ。でも 評価は わるくはないのですね? 自信を持てますか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか
という教父の御言葉は、その水鏡を指すときに特有の(些か通訳が必要な)表現なのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 微妙な意味合いを見出す必要があるでしょうか。
上に 《外から内に入る》という言い方をしました。
たとえば 胃は 内臓ですが 外から入った食物が消化されるまでは まだ身体にとって 外部だということを どこかで聞いたことがあります。それと同じように 精神の胃袋で 消化する概念や思念や表象物は 外のものか内のものかを区別する必要があるということなのではないでしょうか?
精神そのものだとか 自己そのものだとかというとき そういう内と外の区別という意味で言おうとしているのだと思います。必ずしも 本質論としての自己探求なのではないと考えます。
そのためには
▲ 愛の膠
☆ を――《愛》というからには 棄てがたいでしょうが―― 剥がすことが 必要だと言っていると思います。
これで わたしも肩の荷が下りると思います。当否の問題は ri_rong さんご自身の側にありますから。触れ残していないと思いますが。・・・
お礼
たぶん、これ以上の回答はつかないだろうね。 納得した。そうか、哀悼の意――か。そうだったのか。