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リカちゃんについて

 1967年にタカラから発売された、初代リカちゃん人形にはヘソがついています。けれど、確か一年後にはヘソが無くなったと思います。メーカーの言い分はわかるのですが、この背景には、もっと人間社会に結び付いた深い理由がある気がします。  その理由について、何か思い当たることがあれば教えてください。  過去の質問は一応当たってみましたが、僕には見つけられませんでした。以前の情報でも結構です。実は個人的な理由から、急いで回答を見つけなければなりません。どうか、よろしくお願いします。

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回答No.19

こんばんは、ri_rongさん。 BGMに かたちあるもの / 柴咲コウ を ききながら(You Teub) あったものがない  あった期間 と なかった期間 あった期間はなかった期間より短く なかった期間はあった期間よりも長い なかった期間が長くなると人の感覚からして なくて当たり前となり あることがめずらしいと おかしな感覚が芽生える 英語で人形を≪doll≫ドールといいもするけれど…人形は人を形どったもの ならば、へそがあってもよさそうなのになぜかない、ないないない 「ないないない」 と いくら叫ぼうとも 返ってくる言葉は 「バカね、人形だからおへそはないのよ」と 答えであるかのようで答えになっていないような言葉 「ないんだ」と受け入れたとき「あること」に気付く 原爆で亡くなった少年少女は約1万人… http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa1.html 1967年8月9日、「長崎平和折鶴会」が設立 リカちゃんから、へそがなくなったのは 哀悼の意ではないでしょうか?

ri_rong
質問者

お礼

 たぶん、これ以上の回答はつかないだろうね。  納得した。そうか、哀悼の意――か。そうだったのか。

その他の回答 (18)

回答No.8

 ri_rong さん ご返答をありがとうございました。No.9です。  前回の投稿は リカちゃん人形に直接かかわらずに 失礼しました。  そのつてで ただちに お応えしようと思えば  ★ 似像の所有を考えるとき、リカちゃんは僕にとってのそれだとでも?  ☆ これは リカちゃんを介して誰かの存在やその人とのいろんな意味での出来事が 似像として 外から 内に入ったという場合が考えられると思うわけです。  ★ 沼  ☆ は 考えてみれば おどろおどろしいですね。ま 水が澄んでいるのでしたら ありがたいと思うべきですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  けれど、お答えを頂いて、少し肩の荷が下りた気がします。  まったく策士ですねぇ。愛の膠でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは はて何のことかいな?ということなんですが 《肩の荷が下りた》のでしたら よかったと思いますし あるいは 《策士》というのは 次の箇所の  ★☆ 《信仰類型論》  ☆ のことでしたら これは すでに 二三度ここで投稿しています。数学の観点から見ていただこうという魂胆でした。  国立一期を受験しましたので 高校の文系数学までは終えており成績もわるくはありませんでした。けれども 驚くなかれ わたしたちの時代(それとも 地域差でしょうか)は 集合については 学んではいないのです。  そういう意味ですよ。でも 評価は わるくはないのですね? 自信を持てますか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか  という教父の御言葉は、その水鏡を指すときに特有の(些か通訳が必要な)表現なのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 微妙な意味合いを見出す必要があるでしょうか。   上に 《外から内に入る》という言い方をしました。  たとえば 胃は 内臓ですが 外から入った食物が消化されるまでは まだ身体にとって 外部だということを どこかで聞いたことがあります。それと同じように 精神の胃袋で 消化する概念や思念や表象物は 外のものか内のものかを区別する必要があるということなのではないでしょうか?  精神そのものだとか 自己そのものだとかというとき そういう内と外の区別という意味で言おうとしているのだと思います。必ずしも 本質論としての自己探求なのではないと考えます。  そのためには  ▲ 愛の膠  ☆ を――《愛》というからには 棄てがたいでしょうが―― 剥がすことが 必要だと言っていると思います。  これで わたしも肩の荷が下りると思います。当否の問題は ri_rong さんご自身の側にありますから。触れ残していないと思いますが。・・・

ri_rong
質問者

お礼

 そして、この区間にどんどん刻み目を入れていって、それこそ、もうこれ以上は入らないだけ入れた状態を、例えばコンパクトであると呼んでみましょう。一次元とか二次元とかのユークリッド空間は、仰るような有界閉集合に対して、コンパクトである――という点で同値です。それならコンパスや定規が使える世界でしょう?  で、そういうことであれば、このコンパクト性を持った網目を想定するブラジュロンヌさんのお説は、その通りだと僕は同意いたしましょう。ゴーストやゾンビーはいません。逆に、このコンパクト性が損なわれるとき、彼らはどこからか抜けてきます。  これがブラジュロンヌさんの定理(なんだか、それっぽい名前ですが)だと思うんですが、如何でしょうか。

ri_rong
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  >そういう意味ですよ。でも 評価は わるくはないのですね? 自信を持てますか?  どうでしょうか。あのお説を検証するなら、おっしゃる集合よりも、まずは位相の問題じゃないかと思いました。  ――吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。  例えば、議論の対象を点だとみなしますと、そもそも点は、単独では意味を持たない。必ずそれに関連する別の点がひとつはあり、同様に、実際の議論ではたくさんの点が絡み合った網目のなかで、相対的に意味が生じています。ですから、問題としている点のまわりに、どんな網目が想定されているか――これによって、その点の置かれている網目の構造はそれぞれ異なったものとなる。  網目の構造は、言い換えてみれば他の問題との関連をどのように考えるかということであり、ある点から遠いとか、近いといったその距離がまずあって、しかも点は必ずしも離散的ではなく、ある点のまわりには稠密的にあり、またある点のまわりには空疎であるとか、あるいは非常に近しい点が存在するなど、必ずしも一様ではない。  この現実世界の複雑な網目の構造を通じて、他の問題との関連をどのように考えるかという作業を、数学では位相幾何と呼ぶのではないでしょうか。だから、ブラジュロンヌさんが仰っているのは、位相じゃないの? とまず、お返しします。  さて、それが集合だと直感されるのは、おそらく連続性(コンパクト)をイメージされているからではないでしょうか。  例えば数直線で説明すると、[0,1] の閉区間をn個に分割するとき、1/n (n=1,2,3…)の集合Sは閉区間の部分集合であり、ご存知のように要素は無限個あります。けれど、この任意の部分集合Sは、少なくともひとつ、集積点をこの閉区間のなかに持っているのではないか? だからこそ、区間に刻み目を入れるが如くに、対話を行う。  集積点とはnが大きくなればなるほど0に近づくときの0のことですが、対話――コミュニケーションを通じて、区間に刻み目を入れることで、その行いによって、より集積点に近付けることをイメージされている――そんなふうに感じましたが、どうでしょうか。  

回答No.7

 こんにちは。  まだ ずれてしまうでしょうか どうでしょうか。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか という不思議な問いがある。精神は問い求めるために何処に向かうのであろうか。あるいは 見出す( invenire )ために何処に到来する( venire )のであろうか。精神のなかで精神自身ほど近いものがあるであろうか。   しかし 精神は愛をもって思惟する感覚的なもの すなわち 物体的なものに愛によって慣らされているゆえに それらの似像(にすがた)なくしては自分自身のうちに存在し得ないのである。その点で精神の恥づべき誤謬が発生するのである。  精神は知覚された事物の似像を 自己だけを見つめるために自己から見分け得ないからである。それらの似像は愛の膠(にかわ)によって不思議な仕方で精神にへばりついている。これが精神の不純である。  というのは 精神は自己のみを思惟しようと努めるとき それなくしては自己を思惟し得ないものを自己であると思いなすからである。  したがって 精神は自己自身を認識するように命じられるとき あたかも自己から取り去られたもののように 自己を問い求めてはならない。むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。  精神は明らかに外側に存在している感覚的なものより内的であるのみならず 魂の或る部分において存在するあの感覚的なものの似像よりも内的である。   動物も 精神の特性である知解力を欠いているとはいえ これらの似像を所有している。そこで 精神はより内的であるから その愛の情念を感覚的なものへ向けるとき 自己自身から或る仕方で外に出る。感覚的なものは多くの意志の志向の跡として精神の中に残る。この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々に現在するのである。  だから 精神は自己自身を認識せよ。  不在なもののように自己を問い求めないで 他のものの上にさ迷っていた意志の注視を自己自身へ固着し 自己自身を思惟せよ。  かくて 精神は自己をかつて愛さず 知らなかったことがないのを見るであろう。  しかし 精神は他のものを自己と共に愛することによってそれを自己と混同し 或る仕方でそれと癒着したのである。  かくて 精神は異なるものを一つのもののように抱懐することによって 異なるものを一つのものであると思いなしたのである。  (アウグスティヌス:三位一体論 10・8 中沢宣夫訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ri_rong
質問者

お礼

 ブラジュロンヌさん、ご回答をありがとうございます。  >まだ ずれてしまうでしょうか     ずれない対話に、何か意味があるでしょうか。むしろ、合わすのは簡単です。適当に相槌を打てばよいですから。けれど、あなたに限って言うならば、あなたの言う「ずれてしまうでしょうか」は話の内容のことではない。「ちゃんと、映っていますかね」というような、あたかも沼の主がその静かな水鏡の精度を訊ねる言葉だと理解して、お礼を差し上げたいと思いました。どうでしょうか。  >それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか  という教父の御言葉は、その水鏡を指すときに特有の(些か通訳が必要な)表現なのでしょうか。似像の所有を考えるとき、リカちゃんは僕にとってのそれだとでも?  けれど、お答えを頂いて、少し肩の荷が下りた気がします。  まったく策士ですねぇ。愛の膠でしょうか。いっそ、懐に抱え込まず《信仰類型論》を早くここでお出しになれば良いのです。待たせる男はどうも、どうも、女性に受けが良くないようですよ。

noname#96295
noname#96295
回答No.6

臍。。。 68年に喪失? 全共闘にて臍を。 おお。 誰にもらった命なのか、誰のための命なのか、わからなく(わかる必要がなく)なったのかもね。 集合的無意識のようなアイドルに。 そしてファッションの時代の幕開け。 日本人デザイナーたち、三宅一生や高田賢三がパリで成功した頃です。 女の子はお洋服に夢中になります。 集合的無意識と衣。 夢の裏と表。。。 あなたの中でも それは 夢の裏では破棄し難い塊りであり、夢の表では色褪せた味がする。 喪失を約束されていたような 美や幸福や永遠の象徴の 固有性のない アノニムの 約束の国の リカちゃん。

ri_rong
質問者

お礼

 嗚呼、お答えをありがとうございます。  まず僕は、あなたに謝らなければならない。僕に弁解の余地は無く、強いて言えば僕があなたに男の友情を感じたからなのですが、それ以上でもそれ以下でもない、ただの空っぽの意地のような――わたしは男だとか、女だとか、そういうつまらないことは言わないで欲しいが――もので、僕の描くあなたの像に、気付いていたらすでに声をかけていた。  僕は果たして、変われるのだろうか。  ここ数日に立てた質問は、そのどれもが恐らく自分のなかで繋がっているはずのものであり、このような書き方しかできなかったという事実に、唖然としているのが実情です。  下の方にもこれから伺うところですが、僕のヘソがまだ開いていた頃、母親は僕のことをいったいどう思っていたのか。そのヘソを閉じるように差し向けたのは、本当に僕だったのかどうか。きっと誰もがそうだと思うのですが、目といわず口といわず、身体中のすべての穴を開いた状態で、ただ、ヘソだけを閉じて生まれてくるはずなのに、僕は未だにその閉じたはずのヘソが気になっているのかもしれない。違うのかもしれない。  よくわからないのです。  まったく、僕は何を言いたいのか。  ――夢の裏では破棄し難い塊りであり、夢の表では色褪せた味がする。  そんな感じなのかもしれない。人形を捨てたい気持ちはあると思うんです。でも、それは思い出を大切にするため――という理由ではない気がする。  そこで考えは、止まったままです。考えてます。時代? でしょうか。  よろしければ、言葉を重ねていただけると、僕は何かを見つけられるかもしれない。  

noname#117439
noname#117439
回答No.5

A1です。 大人が、りかちゃん人形や最近ではアキバハラなどで売ってる美少女フィギアですが、この手のものに憧れるかというと、第二次成長期以前の子供時代の女性への接し方が14歳くらいで自らが性を意識することで崩れた後、自らが変わったわけですから、女性への接し方や考え方も変わります。 そうして大人になり始めから、同じ大人の女性に恋愛などをして親密になり、女の子でなく女性を理解できるまでは、要するに自らがもはや大人であることを実感できるまでは、人形をお守りにしてまだ幼さを残した自分の心お慰めるのです。 このようにお守りの役目を果たした人形はもう捨てていいんですが、どこか幼馴染のような気持ちが残ることもあるでしょう。でも、思い出が本当に大切ならモノは捨てていいんじゃないでしょうか。

ri_rong
質問者

お礼

>このようにお守りの役目を果たした人形はもう捨てていいんですが、どこか幼馴染のような気持ちが残ることもあるでしょう。  ご回答を、ありがとうございます。  内容はだいたいわかりました。けれど、 >でも、思い出が本当に大切ならモノは捨てていいんじゃないでしょうか。  ということは、思い出が大切でなければ、持っているべきだということでしょうか。彼女の思い出は、僕の中ではすでに大切さという定規で測れなくなっていて、だからこそ捨てるべきなのかもしれないと、僕は思い始めています。  彼女は、僕が生まれる前から家にいました。  「この子は女の子に違いない」と、恐らくは早とちりした両親のせいでしょうけれど、そういう意味では僕よりも(両親に)愛された人形だったと思います。むしろ僕は、人形を捨てたいと望んでいます。その手を躊躇わせる何かに、悩んでいるのです。 >お守り、  では、あったと思います。それに僕は男ですからね、着せ替えの夢についても製造元へは訊いた事があります。そしたら「ヘソがそれに関係するのかい?」と言われました。言われてみれば、そうかと僕は納得したんですが、どうでしょうか。  閉じたつもりが、彼女はもう内にいたんですよ。

noname#149752
noname#149752
回答No.4

妊娠したから。

ri_rong
質問者

お礼

 お久しぶりですね。  あなたから回答をいただけるとは思ってもみなかったので、補足欄は少し空けておきます。実は折り入ってお願いしたいことがあるので、ちょっと待ってくださいね。

回答No.3

なぜ消滅したかは製造担当者に聞かないと分からないでしょうね。でも、「へそ」が持つ象徴的な意味合いが作用したのではという推測はできます。 リカちゃん人形の対象(メインターゲット)は3歳から6歳 設定は日仏の混血 父はフランス人の音楽家、母は日本人のファッションデザイナー この設定は幼児が持つ淡い「貴種流離」願望を満足させるものです。 つまり女児はリカちゃんになって「ごっこ遊び」をするからです。 まあ、それはともかく 推測1 身体の開口部は「性的シグナル」を送ります。 「子供のおもちゃ=性的であってはいけない」というサブリミナル効果から「へそ」がとられた。 推測2 臍は哺乳動物の証。人間が犬や猫といった動物と同じ「生き物」だというしるしです。3歳から6歳の年齢の女児が夢見る、そして手で触れる対象としては、切れば血を流す皮膚をもつ動物の生々しさのイメージはかえってその夢を壊す働きをする。「貴種」はうんこもしっこもしないしゲロも吐かない。 適当な感想の域を出ません。不尽。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答、ありがとうございます。  この際、適当な感想のほうが、案外、的を射るのではないかと思っています。ですから、大丈夫です。それに、お答えは決して適当ではないと思いますよ。推測1.はNo.2さんと同様ですね。そしてNo.2は、ヘソのお話です。心理面でのことですね。  よろしければ、ヘソについて、もう少し展開していっていただけると助かります。

noname#101110
noname#101110
回答No.2

どんなものでも作ったひとの思いが込められているものです。というのは、つくったひとはそのものに購買者や一般人の何十倍も何百倍も気分的に、時間的に密接に関わっているものだからです。 最初にリカちゃん人形(の身体)を造形したひとがへそをつけたいと思った気持ちは私にもまったく理解できます。彼が男であれ女であれ、人形が極力人間に近い、リアルであって美を損なわない完全に近いものを目指す姿勢の中でへそをつけるという選択をしたのは、作成者が自分の良心と創造欲の要求に忠実だったからだと考えられます。 さて、そのあとへそがなくなったのは、質問者様が補足にかかれているように純粋に製造的な理由が大きかったのでしょうが、それとは別に、その人形のはだかの形にはへそは不要である、いや、邪魔(余計)ですらあるという積極的な判断もあったのだろうと推測されます。仰るようにそれは着衣のままで売られるし、購買層が限られている以上、着衣を取って飾られることはないだろう、あったとしてもそれは変態的な人間に扱われることでもあり、常識人にとってはむしろ人形自体のイメージを壊すものだから、それがしにくくなるようにしよう、というようなことだったのではないでしょうか。 単なる1私見です。ご参考まで。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。    全体的に、わかりやすい内容でした。積極的にヘソを無くした――のだろうか、としばし考えました。それと、「あったとしてもそれは変態的な人間に扱われること」という表現に、思わず吹き出してしまいました(すいません)が、抑止という点ではそういう意図があったかもしれませんね。購買層は、はっきりしていたと思います。  ――積極的にヘソを無くした。考えてみます。

noname#117439
noname#117439
回答No.1

人形ってのは全て、わら人形やひな人形のように呪術性を予感するんですよ。 思いを人形に込めるゆえです。 へそは血縁のようなつながりを意味しますので、呪術性が高まるかもしれません。 それからりかちゃん人形についての知識や教養のある方はこのカテには少ないでしょうから、質問を立てるにあたってメーカーの言い分の内容と、自らの見解を説明しないと答えようがないです。

ri_rong
質問者

お礼

ご返事ありがとうございます。  確かに人形には思いが込められると思います。それに、ご指摘いただいたように、質問文が大雑把すぎたと反省します。少し記述を足しますので、もしよろしければ、お付き合いください。

ri_rong
質問者

補足

 まず、この質問を立てるにあたってどのように質問文を書いたら良いのか――どう書けば妥当で、また妥当でないか――ということが、わからないままに投稿しました。事実として僕は、くだんの人形を一体持っており、ずっと若い頃(もう十五年も前です)はこの人形のためにずいぶん悩んだ時期があり、けれど今はその悩みにも折り合いをつけ、どちらかといえばもう要らないやと思うくらいの感じです。  けれどいざ捨てようとすると、ちょっとした胸の痛みを感じる――付かず離れず、彼女とはその程度の関係のままに、深く考えもしないまま僕はずっと所有してきたんです。このような個人的心理が人形の生い立ちに何か関係するとは思えませんが、ただ、その人形に対する感情が、質問文に何かの影響を与えることはあるのだろうとは思います。    初代のリカちゃんは、タカラから販売されたものの、設計と製造は別な会社によって行われました。販売会社の言い分は簡単です。翌年モデルから採用されたツイスト機能のために、ちょうどヘソの部分でリカちゃんの胴体は2ピースになった。販売会社はヘソより、上半身の振り向き機能のほうが重要だと判断したのです。  そして自社製造に切り替わり、リカちゃんはタカラブランドになった。  事実はこれだけですが、設計に携わった方に当時の話を訊く内に、僕にはひとつの疑問が生まれた。というのも、人形は着衣の状態で売られる。その人形に、なぜヘソが必要だったのかという点です。決して見せない部分に対して、なぜ拘るのか――この販売会社の言い分のほうが、時代的な合理性はあるのだろうと思います。  僕が話を伺った人物は、この話になると途端に黙して語らない。    若い頃の僕は、その理由として、「見られるのを前提に」設計したからだと信じて疑わなかった。ただ、最近はそうとも思えなくなった。うまく言えませんが、このような背景があります。書き始めれば、ひと晩では終わらないくらいとても長くなる。  それに、すんなり正解が見つかるとは思っていない。むしろ、質問が妥当なのか、あるいは僕はいったい何を訊こうとしているのか、それすら覚束ない。言えるのは、僕とは違った方法でなければ、この疑問は先へは進めないということくらいでしょうか。  ですから、関心を寄せてくださるかたの言葉を待っているという次第です。

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