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ブッダとソクラテス(実はプラトン?)の思想の異同は?

中央公論、田中美知太郎責任編集 「プラトンI」から池田美恵訳 『パイドン』の10章(ステファヌス索引65b) 「さあ、それでは、知恵の獲得そのものについてはどうだろう?肉体は妨げになるのかならないのか、もしその探求に当たって人がこれと協力するとすれば。 つまり、こういう意味だ。視覚や聴覚は人間になんらかの真実を教えるのか、それとも、その点についてなら詩人でさえ、いつもくりかえし語ってくれているのではないか、われわれの見聞きすることは何一つ厳密ではないと。しかも、肉体のもつこの二つの感覚が厳密でも確実でもないとすると、ほかのものは言うまでもない。いずれも、この二つよりは劣っているのだから。そうは思わないか」 さて、質問です。 ここからは自ずと「五蘊皆空」を連想します。主人公ソクラテスは、即ち著者のプラトンはブッダが説く「五蘊皆空」と同じ認識にあるやに読めます。ブッダは此処から「色即是空」を導き、プラトンは最終的に「イデア」を導きました(?)。言わば同じ認識から一方は「無」を、他方は「有」を導いたことになります。 また、ほとんど同時代を生きた二人が一方は解脱し輪廻から外れることを確信したことによって、他方は肉体は滅んでも魂の不死不滅を確信したことによって、共に従容として死に就いたことにも関心をもちます。 ブッダとソクラテス(実はプラトン?)が正反対といってもよい結論に到達した理由は何ですか。このことが東西の後の二千数百年間に及ぼした影響も多少は視野に入れて回答して下さると一層、有り難いです。 よろしくお願いします。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.11

こんにちは。 僕なりに書いてみたいと思います。 ブッダは 「諸行無常」 起こるもの(「行<サンカーラ>」関係を持って条件が整ってなりたっている)は永遠や実体といえるものでなく瞬間瞬間変化生滅し続けている。 といい、五蘊もドゥッカ(「苦・空」たいしたことの無いもの)といっていると思ってます。 そこで我々が価値を入れたり煩悩を出したりする原因として五取蘊があると見つけたと思います。 「取」は執着といいましょうか。 もっと深い心の捏造のシステムにまで観察を深めているように思います。 西洋で行なわれる考え方に多く感じるのは「有」の前提条件です。 その根は深いものなのでしょう。 <<「五蘊皆空」と同じ認識にあるやに読めます。>> とありますが、よく調べるとまったく違うものと解るかもしれません。 五蘊とは生命の分析結果だと思います。 その一切は無常であるととくのですから。 「魂の不死不滅」が入る隙は無いと思います。 何か参考になれば幸いです。

sono-higurashi
質問者

お礼

ご回答を頂き少し読み直してみました。 私の読解力では、作中のソクラテスは肉体を離れ魂だけになれといっています。魂を重視しているところから、色蘊(しきうん)は空だが、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊は空ではないとの立場だと読むべきかもしれません。だとすると「五蘊皆空」でなく「一蘊皆空」に近いのかも知れません。主人公ソクラテスと般若心経の思想は2割が同じで8割が異なるというべきでしょうか(?!) ここを参照しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A  また、「魂の不死不滅」という点からいうと般若心経と作中のソクラテスは0割が同じで10割が異なることになりそうです。 こんなお礼を記すにも、あちこち読み直し大いに参考になりました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (13)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

仏説 という意味は「仏陀が説いたところによると」という意味らしいです。 仏陀は書物を残していません。 弟子たちがそれぞれ「これが仏陀が説いたところ」ってやったので、いくつも説が存在することになり派閥が存在することになったらしい。 ソクラテスの思想はプラトンのみが「ソクラテスが説いたところによると」ってまとめているので、いくつも説が存在せず、ソクラテスの思想はこうだってプラトンが決定しているので、そこを基点として、プラトン、アリストテレスが、たたき台にして自論を展開することになったと思えます。 で、仏陀が本当は何を言ったのかは誰もわかりません。 しかし 一般的?なものだと、仏陀は人間の知覚で認識可能なことのみをもって執着から離れることが可能だと説いたと言われています。 キリスト教のように不可知なものを持って理解しろ とは説いていない。 キリスト教の源はプラトンの思想です。 プラトンの思想は不可知なもが存在すると仮定して進めています。 そこが仏陀とプラトン、そのプラトンの思想をひきついだキリスト教との大きな違い。 仏陀の場合は、色即是空 すなわち 空即是色なり と言っているのが面白いです。 エヴァゲリで、レイが「自らの心で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ。」と言っていました。 色即是空で、全てが幻だと崩壊しても、新たに自分というものをイメージすれば、形を再構築できるってことですね。 レイは仏陀でもあったのかぁ。 って、監督が仏陀の思想も入れたからだと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

そうでした。般若心経を著すについては誰かプラトン役がいる筈でした。仏陀が著したが如き書き方はいけないことでした。ついつい横着をしてしまいました。 このご回答も論旨が明快でよく理解できました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • mmky
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回答No.2

ブッダとソクラテス(実はプラトン?)の思想の異同は? 同じものであるが、ソクラテス(実はプラトン?)の認識が仏陀より低かっただけだと思いますよ。 ソクラテス(実はプラトン?)のイデア論は仏陀が在家に説いていた「施論・戒論・生天論」の「生天論」程度ですね。簡単に言えば、良いことをして一生を終えれば天国にいけるという思想ですね。この思想に魂の不死不滅の考えは織り込まれてますからね。 こんなのは仏教では仏陀の初期の教えとなってますね。 仏陀が出家の高弟子に語った、例えば「般若心教」にある「・・色即是空・・」教えなどは、ソクラテス(実はプラトン?)の認識をはるかに凌駕していますね。 西洋哲学でこの意味がおぼろげにわかってきたのは、アインシュタインの物質=エネルギーの発見ぐらいですから2500年以上遅れているということですね。「物質→エネルギー」などは「色即是空」の一言ですね。もっとすごいのは「空即是色」ですから「エネルギー→物質」もあるといってるのですね。 東洋は2500年前に近代科学が知りえたところ以上の真理に達していたが、何故か科学文明は発達しなかった。しかるに西洋では「生天論」程度の哲学しかなかったが故に科学文明が発達し、2500年かけて仏陀の足元ぐらいに達したということだと思いますよ。

sono-higurashi
質問者

お礼

このご回答も私の能力では加工できません。このまま拝読するだけです。プラトンやブッダの思想にどれだけ通じているかによって分かったり分からなかったりするのだと思います。張り合いのないことで済みませんが私には分かりません。しかし、論旨は明快ですからご見解は分かります。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

回答No.1

プラトンとブッダの思想はその方向性の原点からまったく正反対ですので、結果も正反対になるのは必然かと思います。 そもそも西洋の哲学は、自身の存在意義を見出すための学問という側面があり、かたや東洋、特にブッダなどは、自身が悟りを開くため、いわば修行のための思想です。 西洋というのは、今ここにあるもの、つまり『現実』を解明すると言うことに根本的な目的があります。 だから、自分を分析するための哲学が生まれていますし、その後の科学(経済学も含めて)も、全て現実に起こっている事象を分析することが目的です。 しかし、東洋では、いかに自然と一体となるか、と言うことに重きが置かれていて、そのため風水、陰陽道などの呪術や漢方など自然を活かした学問が発達しています。 インドが生み出した「0」という存在こそが、まさにブッダの『空』であり、自然と一体となった状態です。そして、これが政治的な思想となって中国で『中庸』と言う発想に繋がっています。 自然を解明し、やがて支配しようとしてきた西洋思想と、自然と一体となって調和しようとしてきた東洋思想の差が、よく分かるのではないでしょうか。

sono-higurashi
質問者

お礼

こういうご回答は私の能力では勝手に加工できません。このまま拝読するだけです。東西の文化にどれだけ通じているかによって分かる人には分かる、分からない人には分からなくて当然なのだと思います。 正直を旨とする人間としては「分からん」というしかありません。 事実として自然や人に対する態度が西洋と東洋では異なることは感じていますが、それが何処から来るのかとなると分からないです。一因が風土にあると言われれば、そうかもしれないと思いますし、このご回答にもそうかもしれないと思います。張り合いのないことで済みません。 突飛な思いつきですが、ギリシャ人(西洋人)の精神文化に影響を与えているのは牧畜民のそれで、インド人(東洋人)の精神文化に影響を与えているのは農耕民のそれだ、というのは何の説明にもなりませんかね? ならないのでしょうね。いや、あまり素っ気無いお礼も書けないと思って苦し紛れに述べてみただけです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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