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薩摩島津家
なぜ島津家は秀吉にも家康にもとり潰されなかったですか? 島津は古くからの土着豪族と聞いています。いつごろから記述があるのでしょうか? あわせて九州四国の豪族についてのいいサイト教えてください。
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島津家が記録として現れるのは1185年、源頼朝から平家討伐の恩賞として薩摩の地頭職に任じられた時以降のようです。薩摩家は家柄に更に箔をつけるべく源の血を引くというような伝承があるようですが、史家は認めていないようです。 薩摩藩が秀吉、家康に取り潰される事なく幕末まで続いたのは、薩摩家としての団結力、軍事力(秀吉が来るのがもう少し遅かったら九州を制圧していたかも)に加え、武家政治の道を開いた鎌倉幕府以来の名家であること、遠距離の雄藩である事さらには島津家の生き残りにかけた判断力と交渉力によるものでしょう。 これらの状況、環境を無視して島津家を取り潰した場合、秀吉も家康も莫大な戦費と長引く戦闘で他地域の有力大名の叛乱などの恐れもあり、取り潰すよりも味方にする方を選んだのでしょう。 http://www.qeclub.ne.jp/hanrekishi/satuma/nenpyou.list1.satsuma.html 四国の諸藩 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku.html
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- cse_ri2
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No.4の方の意見に補足。 >詳しくは 潮出版 風雲児たち (漫画) 参照してください。 現在、リイド社よりワイド版で復刻本が出ています。 こちらの方が入手しやすいでしょう。 なぜ薩摩藩が徳川家康に取り潰されなかったかについては ワイド版の1-2巻を読むとよくわかります。
- 参考URL:
- http://www.leed.co.jp/
- fibula
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関ヶ原の戦いで西軍の島津家は、戦闘終了後、退却するときに家康の本陣前に退却路を取った。 東軍10万余が相手でした。 島津家軍勢1600人。 只、島津義弘を薩摩まで帰すために戦い、薩摩に生きた帰り着いたのは総勢60人。 雑兵足軽一人に至るまで、命を惜しむ者はなく、鎧武者は一人残らず義弘を名乗り、殺されても殺されても前に進み、その場を動かずに死にゆく者数知れず。 血路を開き自ら盾になり、まさに鬼神も哭く働きぶりであったと記録にあります。 だからこそ過酷な処断(義弘の切腹からはじまる戦後処理)を押しつけることが出来なかった。 もし実施すれば存亡を賭けた戦いが始まり、政治的大義名分を家康は失う。 詳しくは 潮出版 風雲児たち (漫画) 参照してください。
- toysmith
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惟宗忠久が島津荘〈宮崎県都城市内)を恩賞として賜った1185(文治元年)かな。
いつ頃というと、うろ覚えですが鎌倉時代に守護でした
お礼
全員のかたにありがとうございました。 風雲児たちは全巻もってます。だからそこから離れた意見や知識がほしかったんですが・・・最近になっていきなり売れてきて作者もびっくりしてんでしょうね。