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嫉妬は必要悪か
・私は恋人のかつての恋人に嫉妬します ・私は人気者に嫉妬します ・私は恵まれた環境に育った者に嫉妬します ・私は富と名声を得た者に嫉妬します ・私は才気溢れる者に嫉妬します ・私は幸福そうな者に嫉妬します ・私は皆さんの博識に嫉妬します ・私に嫉妬が向けられていると感じることは稀です ・私は嫉妬深いと指摘されたことはありません 私は嫉妬を感じるたびに、誰かを愛していることに気づいたり、コンプレックスを自覚します。 1:嫉妬とは何でしょうか? 2:なぜ嫉妬するのでしょうか? 3:嫉妬にいかに対処すべきでしょうか? 4:嫉妬は必要悪でしょうか? 5:嫉妬しない者は存在するのでしょうか? 6:嫉妬からは解放されるのでしょうか? 皆さんのご考察をお聞かせ願います。
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・私は恋人のかつての恋人に嫉妬します(そういう羽目を経験しておりません。) ・私は人気者に嫉妬します(人気の内容、理由によります。ばかげた評価は私には無関係です。自分に関心あることでの、関心ある人の評価は、多分嫉妬するでしょう。いえ、して来ました。) ・私は恵まれた環境に育った者に嫉妬します(はい、私も嫉妬します。) ・私は富と名声を得た者に嫉妬します(私も嫉妬します。) ・私は才気溢れる者に嫉妬します(このごろの人について限れば、小賢しいと思うだけです。他の経験がありません。) ・私は幸福そうな者に嫉妬します(嫉妬しません。私自身は人の生活や人生の幸福を、そして人間と人生を一生懸命考えてきた、小学2からの65年間でした。) ・私は皆さんの博識に嫉妬します(経験がありません。) ・私に嫉妬が向けられていると感じることは稀です(僧だと存じます。) ・私は嫉妬深いと指摘されたことはありません(指摘はされてはいませんが、大きな欠点だと存じます。) ・私は嫉妬を感じるたびに、誰かを愛していることに気づいたり、コンプレックスを自覚します。(私の場合は、愛していない事に気づき、自分を軽蔑します。) 1:嫉妬とは何でしょうか?(きちんと本来的自分を地道に生きていないのに、結果だけを要求する心理ではないでしょうか。) 2:なぜ嫉妬するのでしょうか?(自分としての努力にひたすら、打ち込まないからだと存じます。) 3:嫉妬にいかに対処すべきでしょうか?(自分と世界が、意識内容や意識結果である自分のものでもないし、その自分の行為の結果でもないということを、現実に知っていくことだと存じます。) 4:嫉妬は必要悪でしょうか?(戦い、超克する対象であると存じます。人生がしっちゃかメッ茶かであるためには、必要だと存じます。そうやっていろいろ学ぶためには、戦争相手として認めなければならないと存じます。そういう意味では必要悪。自覚しないでいくことは絶対に許されません。と存じます。) 5:嫉妬しない者は存在するのでしょうか?(それが、悟りだと存じます。聖者たちの特徴だと存じます。でも地上で存在するためには、聖者といえども、欠点はなければ、現象存在はできないので、嫉妬の残滓はあると存じます。) 6:嫉妬からは解放されるのでしょうか?(解放されることを信じ切り、それを目指しても、そして目指す事により、healthyと well-beingが齎されるとは存じますが、私には嫉妬に自己を振り回す権限を与えないようにするだけが関の山だろうと、存じます。) 午前・午後の自治体のシニア講座から一時間ほど前に戻りました。 皆さんの受験状況もちょいと覗き、私もpokoperopoさんのテストを受験します。
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>最近はケータイチェックをして、罵り合いながら愛を確認する、バカップル(死語)も珍しくはないようです。本人達はその剣幕に反して、結構楽しんでいるようにも見受けられます。こういう嫉妬ならば善といえるのでしょうか?よろしければお答え願います。 具体的に何を思ってなのかは想像するしかありませんが。 嫉妬が何かをする原動力になり、何かを得た場合なら、嫉んだのは結果的に良かったと言えると思います。 基本的に何かを得た時に良かったと言えるものじゃないでしょうか。
お礼
神野田さん、ご回答いただきありがとうございます。合理性に基づく結果を可とするならば、根本原因であるところの嫉妬も可とする。プラグマティズムですね。了解しました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.25 ☆⇒pokoperopoさん:>判らない人は触れない人です。まさしくおっしゃるとおりでございます。思えば、ぽこぺろぽも理解できないものには触れようとしませんでした ☆☆⇒krya1998:pokoperopoさんは必ず、そして充分にふれらるし、お分かりになりますよ。 触れるって、関心がない。思いもつかないってことです。 上田秋成の雨月に青頭巾ってありますね。 禅僧の周りを、鬼に化した住職が夜中中(よなかじゅう)歩き回り、探しても、見えない。 そういう事に類似している事項なんですよ。 http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0505aozukin.htm
お礼
カイラさん、ご回答いただきありがとうございます。数々の励ましのお言葉は、きっとぽこぺろぽの今後の糧となることでしょう。手始めに嫉妬を羨望に昇華させることに努めます。ヨガについても勉強します。
>>哲学には感情論は必要でもないんじゃないかと考えます。偏見となるから。 >~意味がわかりません。よろしければ詳しくお教え願います。 私の哲学を使う目的が、必要とされない身体的、精神的活動を回避して怠ける。ためであるからです。依然として人間らしい感情も持っているつもりではあるのですが(多分) 人類が進化してない証拠に、幼子にも全欲求本能は愛着行動や嫉妬として見られます。子供は無批判に、無思慮に既製の通念価値観を鵜呑みにすることで成長もし環境に適応しようとするからですよね。しかしながら嫉妬も偽善をするのも矛先の転換をするまで飽きるまでです。 しかし哲学では一生懸命、真面目に生きることは既成の価値観に踊らされることなく自由意志でもって、立場を入れ替えてみたりして多角的な考慮の上生き方の採用を決めていくことだから、その生き方の根拠を自ら示せない限り、自分で納得する生き方の根拠を自分で否定したり反論しなければならない。根拠が示せるならもはや反論の必要もなくなる。 そんな段取りさえ面倒なので自問自答することも放棄してしまう私ですが、哲学を究めたところたどり着く有意義なものは「都合の良さ」を採用の基準としてるだけのもので、人格者や人気者になれるかどうかという皮相な基準とは少し違うものにしてるからです。 都合について立派な理論はないのけれど、輝かしい経歴や贅沢を諦めるかわりに未練や責任や雑用に浪費する時間や立ち回ることをしなくて済みます。人類が発展すると遺伝子やミームが安全欲求として仕掛けている幻想を操作する工夫をするでしょうね。幻術士にかけられた催眠を解くために武士は自らの腿に刀を突き刺して幻術から解き放った。というような工夫。
お礼
御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。人間は余計な感情が入ることで、合理的な価値判断ができなくなることがままありますね。あなたはそんなふうに嫉妬などには翻弄されずに、目的に邁進されるのでしょうね。遺伝子やミームの安全欲求とは、これまた興味深いアプローチです。ドーキンスあたりはここらへんを強調するでしょうね。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>豚の崇高さに嫉妬されないのでしょうか? 結局、結果としてぶち殺して食っているのは、それ故です。 豚が可愛そうだよ・・でもすごくおいしい。 豚なんぞ殺して食ってしまえ。 どちらでもいいのですが、屍を貪り続けないと生きてゆけない人間が心豊かに生きる豚を作りだしこれに向ける殺意であり嫉妬です。
お礼
バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。嫉妬する者は自らの生存のために殺し、嫉妬しない者が、嫉妬の対象となるのですね。因業なもんです、この世は。豚の角煮は好物ですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.22 ☆⇒pokoperopoさん:大聖者に説明を受けても、実際には咀嚼できてはいない者が大半ではありませんか? ☆☆⇒krya1998:イエスの時代は大変でしたね。イエスも賊徒とされ。やはり判らない人っていますよね。 判らない人がいるから、ということではわからない内容を否定したり、価値を認めないのはおかしいことですね。 当時の人はともかく、イエスの実在を今、実証できないとして云々しているのも哀れですね。 側面やちょいとした葉隠れには気の付かない人がいて、その人の声が大きいからといって、実在には全く無関係ですね。 イエスも、我が敬愛の南洲・西郷隆盛も、一定期間は逆賊ですから、いろんなものを抹殺した、抹消しましたでしょう。 両方も目立つことや、自己の功績をがなるお人柄ではありませんで。 せごどんも一枚の写真もないのですよ。 判らない人は触れない人です。 実物に触れると、ことばは要らないのですね。 そのことばも、翻訳したり、解説するとわからないものに為りますね。 特にそこに含んでいる力、当為のエネルギー、迫力、パワーは翻訳も解説も出来ないですよね。 でも、pokoperopoさんにお会いできれば、pokoperopoさんの説明なんて何もいらないですよね。 それと同じように、イエスやその他の偉大な方々の仰せのことは、その方自身です。 ですから、理解ではなく、伝わるのでしょうね。 イエスのみ弟子さんたちはどうであったか。 イエスとともにされていただけでしょうか。 多分、イエスの抱擁と世界の中で、自己を孤独にする時間を持つ、作業をしていなかったのかも知れませんね。 それで、イエスの最後の栄光のときに自己を明確にできなかったのかもしれませんね。 イエスの雰囲気と世界はそれだけ、強いものであったのでしょう。 だからこそ、為政に携わる人は恐ろしかったのだと存じます。 伝えるということは存在自体ですからね。 パラマハンサ・ヨガナンダ大師のレッスンと行は、私にその経験をさせてくれました。大師の著書・バガヴァッド・ギータは更にそれを深めてくれました。
お礼
カイラさん、ご回答いただきありがとうございます。 >判らない人は触れない人です。まさしくおっしゃるとおりでございます。思えば、ぽこぺろぽも理解できないものには触れようとしませんでした。あなたとどこかでお会いできれば、私も何かを感じるのでしょうね。ペテロもイエスを三度も否認しましたが、それでもイエスは彼を教え、彼はイエスより授かったその名のとおり、岩のように堅固な意志を持つに到りました。彼も揺らぎながらもイエスに触れたからではないでしょうか。また、ヨガについても勉強してまいります。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maiami.susです。 >このぽこぺろぽのように嫉妬されなくなったのは、物事をどう理解されたからですか? 良い部分だけ見ていてはいけない、総体的に考えなくてはと言う事ですね。 例えば>・私は人気者に嫉妬します。とありますが、人気者は人気者故の苦悩があるというこ事です。 そうですね最近の話で言うとスマップの草薙さんとか、良い例ではないでしょうか。 大きい力を持つと言う事は、それだけ危険もあると言うことです。 高い所にいればいるほど落ちた時の衝撃も大きいと言ったところでしょうか。 それに、大きな力はコントロールも難しいとも言えます。 それだけの基礎と能力をもった人間が持つのが世の為ですね。 端的に嫉妬をしている人間にそれを与えるという事は、考え方によれば、極端な話、幼稚園児に大金を持たしてみたらとか、拳銃を持たしてみたらとかみたいな話です。(どうなるか分からん状態) まあ、そう言う人間が多い故に、今みたいな世の中なのかも知れませんが。 それに多分、そう言った力、お金とか名誉のようなモノの場合はそれを得るために、それ相応の自分自身の何かを犠牲にしなくてはならない場合が多々あると思います、例えば自由とか家族とか自分の気持ちとかね。 何かを手に入れれば何かを失うものですね。それが何かは人によって違うので分からないですが、何かを失うのです。 それが自分にとって不必要なものならそれはそれで言いのかもしませんが、大切な物であったなら・・・・・・。 まず自分が自分であり、理想の自分に近づける事を基準に考えるとそれは一寸、頂けない。(ここは、読み流してください。) そう考えるとね。あんまり羨ましくないし嫉妬もしないと言うのが、嫉妬をしない理由の一つ。
お礼
マイマイサスさん、ご回答いただきありがとうございます。おっしゃるとおり、持てる者と持たざる者は、どこかで均衡を保っているのでしょうね。持つということは、その落とし穴もまた深いのでしょう。彼らを嫉妬の対象から外すべきかもしれません。
補足
マイマイサスさんは、他人が多くを所有することには嫉妬されないのですか?よろしければお答え願います。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>あらゆる紛争は嫉妬に起因するのでしょうか? 紛争には色々な形がありますから一概に嫉妬に起因するとは言えないですね。突発的な事故に起因する場合もありえますしね。 しかし、多くの紛争の第一原因が嫉妬と関係が非常に深いことは間違いないとは思います。 あと、嫉妬から解放されているのは豚であるといういわばパラドクスでしょうか。屠殺され、細かく刻まれ、焼かれ、食卓にのぼって食われても、豚は人間に嫉妬はしません。無知だからともいえますけど、嫉妬心のない崇高で理想的精神性の行き着く先が豚ですね。 豚の崇高さには到達しない線が人間の限界でしょう。
お礼
バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。パラドックスを掲げられましたね。飼育され、いずれは屠殺される豚は、犬よりも高い知性を持つといわれています。ジョージ・オーウェルの『動物農場』、映画『ベイブ』などには、彼らの高い知性が描かれています。その一方でイエスは「豚に真珠を投ぐな」と説いております。彼らに物事の価値が、認識できていないのは疑いようもなく、故に自己と比較し、止揚することもできません。人間は知性と引き換えに、自己を絶対視する崇高さを失ったのかもしれませんね。
補足
バナナサンドさんご自身は、豚の崇高さに嫉妬されないのでしょうか?よろしければお答え願います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.21 ☆⇒pokoperopoさん:同じ言語を共有できるようになったとき? ☆☆⇒krya1998:私自身が、私たちというより私の[Paramahansa Yogananda の]Self-Realization Fellowship (ここにURLを乗せることはゆるされませんので)での私の意識と思考を拡大し、pokoperopoさんの意識と思考、その言語にあわせてものを叙述できるようになったとき。 或いは、pokoperopoさんが私を包括するご存在になられたとき、誤解のないお話ができることと存じます、ということです。 宗教やこういう哲理のことは、似ていて、違うということが多いですから、符合している、或いは理解したという、ことも意外と誤解や無理解があるものです。 新しいご質問は私たちの、認識(実現:実際にそうなるという認識)の基本基本課題でもあります。 いろいろな場面で使われざるを得ない日常語での、説明や叙述は時として、不必要で、且つ、見当違いのイメージや内容を以って理解されてしまいます。 そういう現象や結果を危惧したということです。 大聖者であれば、どんな人にもそのまま直ぐに受け取ってもらえる説明ができましょうが、私は漸く分かっているだけのものですので。 ことばで説明すれば、極く簡単などというと、者説明しろ、となりますが、これはそういうことではお伝えできないものです。 同じ言葉を使っても、人によって、使う人により、受け取る人により、意味も次元も、側面も、力も、イメージもそして情感も異なります。言葉の意味とはそういうものを担って往来するものです。 私にはとても難しいので、という意味でした。 団体名で検索すると、URLが出てまいります。 ご関心があれば、直接アクセスされることをお勧めいたします。 類似の名称の団体名が幾つかありますが、本部はロスです。 創立者は、パラマハンサ・ヨガナンダです。 現在の会長は女性で、シュリ・ダヤ・マタです。シュリは敬称です。
お礼
カイラさん、ご回答いただきありがとうございます。『われわれは・・』の問い掛けに、漸くわかっているとおっしゃる程の、境地に達しておられることにつきましては、若輩者の私は仰ぎ見るばかりであります。言葉での認識よりも、現象を静かに観察する聡明さが必要となるのでしょうね。バラマハンサ・ヨガナンダには関心があったものの、手をつけておりませんでした。お教えいただいたのを機に、手始めに彼の自伝を読んでみます。
補足
大聖者に説明を受けても、実際には咀嚼できてはいない者が大半ではありませんか?よろしければお答え願います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.14 ☆⇒pokoperopoさん:幸福そうな者に嫉妬しないとおっしゃる理由がよくわかりません。 ☆☆⇒krya1998:はい。幸福な人にも、幸福そうな人にも少しも嫉妬しません。そういう人とは、pokoperopoさんが新たにご質問している、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』ということを知っているからです。そういう意味では聖人や私より幸福な人はありえないのです。 pokoperopoさんの新しいご質問での論述段階では、光の射した影が必ず生じています。そういう状況では幸福もあり、不幸もある。という状況であることを、つぶさに見てきております。 決して嫉妬したり、羨望したりするようなものではない事を、その身となって経験できております。 pokoperopoさんがここで嫉妬を取り上げておられます。 人間の欠点はたくさんありますが、決してそれはバラバラではなく、みな連関し、現象しております。恰も別の欠点や弱さのように。 でもひとつの欠点であり、弱さでしかない。 そういうもの全体の、ひとつの代表例として、pokoperopoさんのご質問を拝読しております。 これは人間の弱さと迷妄の現象であるが故に、哀れと微笑を以って自己をみなさんを眺めています。 一口で嫉妬といっても、同じ事をどう嫉妬するかが大事であります。 何事も香りたかく、芳しいありかたで対処できないものかと、課題にしております。 雪山も、新緑の山も、枯木の山も、岩山も、渓谷も渓流も、自然に化している神は美です。 醜い嫉妬も香りのある歌になるような行をしたいと願っています。 どうかお導きをいただけますようね。 pokoperopoさんが新たにされているご質問、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』には、古今東西あまたの文章がありましょうが、pokoperopoさんと同じ言語を共有できるようになったときしか、誤解なくお届けできませんので、今回は謹んで立見席におります。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。なるほど、カイラさんのおっしゃるとおり、ぽこぺろぽの精神は空疎ゆえに脆弱を極め、その曇った両の眦は迷妄を映し出します。今後ともご指南いただければ幸いに存じます。新しく掲げた拙問をお読みいただきありがとうございます。私に格別のご高配を寄せられることは、感謝に堪えません。もしお気が向かれましたら、新拙問にもお答え願います。
補足
このぽこぺろぽと、同じ言語を共有できるようになったとき?申し訳ありません。よくわかりません。よろしければ詳しくお教え願います。
- garcon2001
- ベストアンサー率15% (22/140)
これは、やはり「貧しいエゴ」こそが根本原因ではないでしょうか。拙質問「エゴより情報にはならないのか」でも提議したのですが、結局人間の大部分、聖人君主や類まれな向上心を持った人でなければ、人のことを気にしながら、われの惨めさや、優越感やらに浸りながら、心を慰めて、安全安全に生きようとする。これが一般的人間の姿でしょう。 そもそも、なぜ有益なネットの情報交換の場が、エゴの張り合い、質問しかしない、回答しかしない、その他もろもろの「自己を防衛し、他を攻撃する」というくだらない行為に費やされているのでしょうか?みな、小さな「エゴ」に屈しているからです。素直に、自分が足りないところを気付いて、ああそうだったと認めればいいのです。そんなことができないほど、自己が脆弱で、かつ傲慢で、救いようのない人間があふれている。それが現状の世界じゃないでしょうか。 質問しかしないの提議で大分こちらも勉強できました。かなりこの点については自分なりに確信を持って、またもっと広い観点に立った問題につながっていくものとして認識できました。 その世界は、なんとも救いようのない人間たちの集まりだということです。 多くの人は、惨めな思いを抱えている。 多くの人は、他人から身を守ろうと思う(他人が信用できない(これはある程度正しい)) 多くの人は、どうしても他人に屈するのが我慢できない(自分が惨めだから、せめてネットの世界だけでは質問なんてするものかと思う←これが「情報よりエゴ)) 多くの人は、質問にいたるような疑問を感じるような頭脳の柔軟さが失われている。 多くの人は、純粋さなどもちあわせていない 多くの人は、素直さ、謙虚さ、率直ささえ、気付かないままに失っている。 そんな世界にわれわれは生きているのではないですか? どうしたらいいのでしょうかね?こちらが質問を立てたいと思います(しかし、この質問にはまた蒸気の人がこぞってエゴ丸出しの回答をするのですよ。この無限スパイラルから逃れるすべは? ユートピアの不在。それが、宗教の起こりなんですよね。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。なるほど「貧しいエゴ」が、彼らの嫉妬の深層に巣くっているのですね。比較的平穏との定評のあるこのサイトにも、嫉妬深い者がウヨウヨ棲息しています。その一番手が・・。お答えはガーコンさんにお任せします。ユートピアの不在は、人間に克己心を与える一方で、猜疑心も芽生えさせます。猜疑心が信仰心へ昇華されたとき、われわれはユートピアを見出だすのかもしれません。ガーコンさんがユートピア思想の下に、浄化運動に邁進されていると誤解されている点は、大いに同情します。『履歴チェック』われわれの合言葉です。
補足
『教え魔』『教えてちゃん』『恩知らず』。この3者はそれぞれ、何に嫉妬するのでしょうか?よろしければお答え願います。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。嫉妬とは克服すべきもの、悟りへの課題と考えてよいのですね。カイラさんには何度もぽこぺろぽの質問にお答えをいただいております。その達観されたご様子を拝見してなおテストなどとは滅相もございません。これより勉強させていただきます。それではお言葉に甘えておつきあい願います。
補足
幸福そうな者に嫉妬しないとおっしゃる理由がよくわかりません。よろしければ詳しくお教え願います。