- ベストアンサー
比企家について
中学生に家庭教師で勉強を教えています。 歴史は教えていないのですが、質問されて答えられなかったので教えて下さい。 その子の学校では名札を友人とバラバラに交換するのが流行っているようで。 で、彼女の名札を付けた友人が、部活の先生に名札を見られた時に「その子はお姫様だ」と言われたそうです。 彼女の苗字は「比企」といいます。 友人に「そうなの?」と聞かれたそうなのですが、彼女は家族から先祖についても聞いた事がなく、家族自体がそういった家系について興味がないのでよくわからないそうです。 小学校の時にも、社会の時間に先生から御家人の話の時に何か言われた記憶があるそうです。 気になるとの事で質問をされました。 私は歴史に詳しくありませんし、比企の名も彼女で初めて知った位なのでネットで調べて教えたのですが、「苗字が同じだからと言っても、関係があるとは限らないのでは?」と言ったら、「田中、佐藤 等、数の多い名前ならそうかもしれないけど、珍しい名前だから関係あるのではないか?」と言います。 珍しい名前で一緒だからと言っても、関係あるのでしょうか?? 昔は名前は適当に決めて良かったと聞いたことがあるのですが・・・(正しい情報かどうかはわかりませんが) 彼女の父親は新潟出身だそうで、鎌倉の比企家とはかなり遠いのです。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
■下で幕臣・比企家の話が出ていましたので、『寛政重修諸家譜』を調べてみたところ、比企を名乗る家は三家ありました。 ■そのうちの一家が下のリンク先にもあったように、比企能員の裔を称しており、家紋も丸に割菱でした。なお他の二家(未勘源氏、未勘氏)は、綱吉の頃に取り立てられた小禄の御家人で、それ以前のことはよく判りません。 ■同家譜によれば、寛永系図に家伝を引いていわく、比企能員が北条時政に誘殺された際、胎内にいた子を領内に隠し、これを岩殿観音堂の別当が子として育てたそうです。 ■建保年間、その子が十七歳の時に上洛し、順徳院に使えた後、越後にいたり、十四代を数えたとありますから、その時期に比企一族が新潟県内に広がったのかもしれませんね。 ■同家は、戦国時代には比企郡に住しており、上杉氏に従って戦功を重ね、後に家康や秀忠に召され、幕臣となります。ただし越後時代の系譜は、幕臣・比企家には伝わっていなかったようです。 ■したがって幕臣・比企家が本当に比企能員の裔であったのか、それとも比企郡を領していたことから、たまたま同地に伝わる比企家の遺児の話を利用して、系図を作り上げたのかまでは私には判りません。 ■同系図の最後の代に記載されている人物は、元禄年間、禁じられていた殺生を行い、追放されたとあります。その際には、三年ほどで罪を赦されたようですが、少し下った時代の幕臣を網羅した『御家人分限帳』を見ても、同家の当主の名前は見当たりません。何らかの事情により、断絶してしまったのかもしれません。 ■余談になりますが、下記ページによると、能員の子を匿い、育てた正法寺は、かつて能員が頼朝の命を受け、復興した寺院であったそうです。 http://www.saiwebguide.com/west/butsu2.htm
その他の回答 (3)
- gonveisan
- ベストアンサー率20% (477/2365)
*新潟の北蒲原郡。これはドンピシャここだそうです(笑) 地元でも近隣近郷ではそういわれてますね
お礼
お礼が遅くなってすいません。 地元の方にもそう言われているのですね。 彼女の父親ももしかすると言われた事があるのかもしれませんね。 彼女が田舎に行った時に親戚に聞いてみるそうです。 情報有難うございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
越後と関東 はい、新潟県出身者です。私。 その娘さんの家の事は、正確にはお寺の過去帳とかみないとなりませんが、一般に、越後と関東の武家というか御家人層というか豪族層は、両方を流動しています。 ちょうど、大河ドラマで上杉家が出ていますが、元々は長尾家。 長尾家は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%B0%8F とあるように、上司である関東管領上杉氏に従って、関東と越後に広がりました。長尾家の人間が単独で分立するわけでないので、その長尾家に仕えていた比企家の人間が長尾家と一緒に越後に行ったことは大いにあり得ます。 もっと古くなると新田家が、越後に多くの分家を作っています。上野の新田家に武蔵の比企家がついて行ったのもあり得る話。 また http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E6%9C%9D%E5%AE%97 で、娘婿が北条朝時で、越後守護だったので、比企氏が現地に派遣され土着したなんてことも考えられます。
お礼
有難うございます。 御家人層は流動しているのですね。 そう考えると、新潟に比企家がいるのも考えられますね。 新潟に行く機会があったら、お寺の過去帳を見てみたいと言っていました。 情報有難うございました。勉強になりました。
- 大空 二千翔(@oozora2000)
- ベストアンサー率48% (296/616)
そうですね。埼玉県にも比企郡という地名があり、比企理恵さんという埼玉県出身の女優もおられますよね。まして、新潟は鎌倉からは遠いように感じますよね。 明治3年(1870年)9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に苗字を持つことになりましたが、地元の有力者に倣って苗字を変える者などもおり、血のつながりとは無関係に同じ集落の家の苗字がみな同じということも起こったようです。従って由緒のある苗字だからといって本当にその一族かどうかは分からないと思います。一つの判断材料としては「家紋」がその苗字のものかどうか確認するというのも一案だと思います。比企家の本来の家紋は「丸に蔦」のようですね。↓ http://www.asgy.co.jp/cgi-bin/search.pl?name=%94%E4%8A%E9 たまたま「比企」、「新潟」、「鎌倉」の3つのキーワードで検索したら次のサイトを見つけました。↓ http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100144.html ずっとスクロールしていくと [52]に新潟県北蒲原郡にお住まいの「比企家」に関する記載が見つかりました。 確かに日本人は6代遡れば皆親戚だということですから、だれでも巡り合わせによればその苗字(姓)を名乗る可能性は出てくるのだとも思います。直系ばかりでなく、女性がその姓を継ぐこともありますし、養子が継ぐこともありますから、少なくても何らかのつながりが鎌倉の比企氏とあるというのは間違いではないのでしょう。
お礼
有難うございます。 家紋という手もありましたね。彼女も調べてみると言っていました。 ただ、このようなものもありました。 http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_hi.html 丸に蔦と違うので、どちらが正しいのか・・・ 家紋は沢山あるので、どれが本家?か特定は難しそうですね。 しかも徳川旗本って・・・ 日本史が全くダメな彼女と私で「何で徳川が出てくるんだろうねぇ」って不思議になってしまいました。 新潟の北蒲原郡。これはドンピシャここだそうです(笑) 彼女も楽しんで読んでました。 情報有難うございました!
お礼
お礼が遅くなって申し訳ありません。 詳しく教えていただいてありがとうございました。 彼女に教えたらとても興味をもち、日本史全体にも興味を持ったようです。 有難うございました。