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死ねない理由

生きる意味は?のような疑問をもっている人は,たくさんいます。 逆に考えて,何故,死ねないのかを教えてください。 そして,世間一般では,死ぬことを悪としています。 この理由も,教えてください。 周りの人が悲しむから,親からもらった命だから等の一般論ではなく, ユニークな意見だとうれしいです。

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noname#77271
noname#77271
回答No.39

No.34、38です。お礼ありがとうございます。 >つまり,自己否定したくないし,現世に満足しているということね。 「自己否定したくない」は確かにその通りです。 自分で自分を憐れみたくないです。 生きるエネルギーはまだゼロになっていないと思うので。 まだ世を儚むほどボロボロになってはいないと思うんです。 (以前も書きましたが自分自身は、まだ死ぬ権利を持つ程生き抜いていないと思います。) ただ、上手くきっかけがつかめなくて、過去に引きずられがちですが、そんなものに負けたくないんです。 ここで回答しているのもきっかけが欲しいからだと思います。 問答していると自分の中のわだかまりの本質が何なのか解りそうな気がするんです。 「現世に満足している」のとはまた違います。 変われるはずだと思っているとか諦めたくない気持ちがあると言ったところです。 やはり、自分に負けたくないんです。 >悩みが深刻だと開放されたい気持ちが芽生えるとも考えられますね。 まさにそうだと思います。 でも、死ぬ瞬間って発作的なものなのではないのかなと思ったりします。 迷いがあると遂行するのは難しいと思うんです。 最後まで迷ったまま実行して、そのまま死を迎える人もいるのだとは思うんですが、多くの人は迷いを振り切って、「悩みから解き放たれたくて」死ぬんだと思います。自殺は迷いがあっては難しいことなのだと思います。 一瞬でも悩むと現世に引き戻されてしまうんじゃないでしょうか。 >”怒”により,死ぬことを悪としているのでしょうか? 自分は,死ぬことを卑怯だと考えたことがないのですが,多くの人達はそのように考えているのですかね。 相手が友達だったり肉親だったり、掛け替えのない人であれば卑怯とは取らないでしょうね。ただ、置き去りにされた悲しみや、亡くなった人を苦しめていた現実や自分が無力であったことに怒りのような感覚を持つのではないかと思います。 「もっと生きていて欲しかった。何故相談してくれなかったんだ」と。 あと、自殺した人が世の中に大きな不利益を被って、後始末をせずに突然死んだ場合は一般人に卑怯と取られるのではないでしょうか。 身内でも、先ほど述べたような感情とは別の怒りを持つことがあると思います。この場合は身内は加害者側でありながら被害者の側面を持つのだから怒りは複雑だと思います。 良くニュースで中高生がいじめを苦に自殺したとニュースが流れますよね。 私個人としてはその子を卑怯だとは思いません。 このようなニュースを聞いて自殺は良くないという人の多くは、亡くなった子を責めているのではなくて、救えなかった事実(社会)に怒りを感じるのだと思います。何か手だてはあったのではないかと思ってしまうので、もっと生きていて欲しかったと言う気持ちが自殺はいけないと言わせるのだと思います。 自分も社会の一員であるから、何とはなしに加害者になってしまったような感覚になるのではないでしょうか。

MAXMIN2008
質問者

お礼

ありがとうございます。 回答者さんには,いろいろ教えていただきました。 これから,自分の中できちんと消化していきたいと思います。

その他の回答 (39)

回答No.29

それは、やっぱり、何時、良い事が起こるか分からないから。 例えば、すごく自分好みの異性に会うとか・・・。 例えば、そのあとその異性と付き合うとか・・・。 例えば、宝くじ拾って当たるとか・・・・・・・。

MAXMIN2008
質問者

お礼

ありがとうございます。 小さな出来事でも,「大きな感動」を得られるならば,生きていて楽しいですね。 明日,「大きな出来事」が起こるかもしれないと思えば,なおさらですね^^

noname#77271
noname#77271
回答No.28

No.26です。前回よりも更に長文です。m(_ _)m 今回はもっと大きな視点から考えてみることにしました。 もしかすると私が参加した、この質問なんかがこのテーマに被っているかも知れません。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4236151.html ごく初期のもので、その後退会したのでnonameになっていますがNo.2が私です。 その時の質問は、『クレオパトラのため息』についてで、 「カオス理論上、今でも私たちの肺にクレオパトラの呼気が入っているから、人の体は完全に滅びない。また、焼かれた煙はいつまでも残っている。このことはどういうことなのか?」 と言う話で“そのものズバリ”は自分で調べても解らず、興味深いので回答が付くのを楽しみにしていたのですが、解らないまま自分でも次の資料から推測することにしました。(だから、今でも正解は解りません。) 『クレオパトラの溜息』 クレオパトラが死ぬ直前に溜息をしていたら、それから2000年以上が経過した現在、その溜息は地球上全体に拡散していると考えられる。すると現代の僕達が呼吸している空気の中には、数個~数十個のクレオパトラが溜息で吐いた空気分子が含まれている、というのだ。 http://homepage3.nifty.com/logical/column111.html 『クレオパトラの黒い溜息』(小峰元/著 講談社) “人はすべて「縁」がある。クレオパトラのため息の様に。” http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4236151.html ――ここから推測した『クレオパトラのため息』とは、 人は本人が望むと望まないとに係わらず何処かで繋がっている。他人の呼気が自分の体から完全に抜くことが出来ないように。自分の意思で物事を考えているようでも、何処かで他人の思考の影響を受けて(受け入れて)生きている。 人が他人の呼気の一部を体内に取り入れて生きているように意思も(全てではなくたった一部分でも)引き継いでいかれる連鎖を不死のように喩えた言葉ではないか。 その様な考えに私は至ったわけです。 (そして、この時の回答でも、やはり私は一緒に回答したNo.1 さんの意見の影響を少なからず受けているのです。) 「死ねない理由」 それは、自分の中に沢山の人達の思考が入り込んでいるからじゃないかと思います。自分は自分でありながら、今の自分を作り上げたのは、自分の親や恩師、友人だけではなくて、自分でも出会ったことのない遠い太古から続く人の意思が溶け込んでいるから。 人は知らず知らずのうちに、自分というものは個人でありながらも個ではないという感覚を持ち合わせているのだと思います。 「世間一般では,死ぬことを悪としています」 これも同じ理由だと思います。 自分というものは個人でありながらも個ではない。 それが、一般では通っているのだと思います。 一般的に個人の本質は個ではないという感覚があるのだと思います。 自ら命を絶つ人は「個であることを選んだ」と言うことになると思います。 「全体から切り離された存在になることは悪だ」と言うことになると思います。 >これを「悪い事」とは言いませんが,自分の考えも持ちたいと思って,色々,試行錯誤を繰り返しているのです。 質問者さんは絶命ではない「個のありかた」を模索していらっしゃるのですね。 私は、強く個を意識したことがありませんでした。 全体意識は楽なようでもあり、孤独から遠いようでもあるけれど、それ故に孤独を強いたり、強制力にもなり得るし、無力とも不自由とも言えるのですね。 考えさせられました。 福祉に優れた国家に自殺者は少なく、「悪い事」を実行する人もまた少ないと言うことになると思います。 「悪い事」を考えずにすむ人達の社会を作るためには、優れた個が必要と言うことですよね。 改めて考えると、とても深いテーマだったんですね。 質問者さんのご考察からはほど遠いかも知れませんが、やっと少しだけ解ったような気がします…。

MAXMIN2008
質問者

お礼

ありがとうございます。 素晴らしい「個」を作り上げるためには,多くの人と出会い,多くの考え方や体験をするべきだと考えています。 そこで,色々と悩み,自分の答えを模索して「信念」を確立できれば良いと思います。 「死ねない理由」にしても,一人ひとりが「答え」を導き出せているなら,ベストですよね。 また,「死ねない理由」に何か共通点が存在するのではないかと期待しているのです。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.27

私の車は私じゃない 私のお金も私じゃない 同じように 私の体は私じゃない 私の体は私の所有物および管理物ではあるが私そのものではないです。 故に体の生死うんぬうんは私にとっての私の死とはイコールにはならないです。 私の体を殺すことは出来ても、私が私を殺すことは出来ません。 だから自分の体を殺すことは筋違いです。 私にとっても、私の体にとっても 生きる意味は生きることがその意味であり価値であります。

MAXMIN2008
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分は,私の中の一部に「私の体」があるように思っています。 >>私の体を殺すことは出来ても、私が私を殺すことは出来ません。 shift-2007さんの「私」とは,何でしょうか??

noname#77271
noname#77271
回答No.26

No.21です。回答をして不十分に思えたので再投稿です。 >何故,死ねないのかを教えてください。 もっとシンプルに死ねない理由を考えると、自分がまだぺらぺらだからです。 自分の一生をここに書き出したら、何も面白くなさそうです。 ここでで終わる理由が何も見つからないくらい、薄っぺらです。 自分を不運かも?と思ったことはなかったわけではないけれど、どうせ不運だというのなら、映画の主人公クラスほど不運でなければ、死ぬ理由はないと思えるし、生きていれば何か良いことがあるかもしれません。 幼稚園児の頃アポロ11号の月面着陸をリアルタイムで見ました。 小学校に上がって間もなく沖縄の本土復帰がありました。 つまらない自分でも、自分が何かを率先して行ったわけでは無くとも、時代のうねりというか歴史の生き証人というか、幼いながらにも自分が歴史の一部みたいに感じてちょっぴり誇らしく感じたのを覚えています。 何かに感動したくて、死ぬのがもったいないから私はまだ「死ねない」のだと思います。 手塚治虫さんは生前、 「漫画を書くアイディアならいっぱいあるんだ。でも時間がないんだ。」 と仰っていました。アイディアは尽きないけれど、命が尽きる。 そのことを愁いていらっしゃいました。 自分のアイディアが尽きるまで、作品を作り続けていらっしゃいたかったのでしょう。自分が感動するだけではなくて、人を感動させたくて死ねない。 なかなかまねできないけれど見習いたい生き方です。 本当の意味で死ねないと強く念じてきた人達は、みんな何かを確実に残してきていると思います。 人間ほど何かを残すことに拘る生き物はいないのではないかと思います。 マンモスのように、絶滅した太古の生物さえもクローン技術で復活させようとしたり、遺跡しかり、伝統芸能しかり、映画に小説、音楽、小さなことでは個人の日記やブログ。 ――そんなことを考えると、私も何かを残したいから、ここに書き込んでいるんですね。今は本当に小さなことしかできていないけれど、いつか何かちゃんとしたものを残したい。やはりこのままでは終わりたくない気持ちがあるんです。 そして何かを残すというのは共生や共感に繋がることだと思います。 自分が地球や歴史の一部だと感じると、そうあっさりとは「死ねない」と思います。 >世間一般では,死ぬことを悪としています。 死ぬことは、力の限り生き抜いた結果、訪れるものであれば悪ではないと思います。野生動物が子供を守るために、自ら外敵に倒されてしまうことを悪と呼ぶ人はいないと思います。 次の命に繋いでいく為に、どうしても避けられない場合もあります。 それは「死のう」と思っているのとは違います。 悪と呼ぶのは、前回回答したように人のトラウマになることであったり、人を不幸にすることであったり、残された人に対する思いやりに欠ける場合じゃないかと思います。避けようがなかったとどうしても思えない場合だと思います。 「生きるエネルギーが無くなった。生きる価値が無くなった。生きる方法が無くなった。だから私は死のう」そう言って誰かが死を選んだとします。 ――まだ策はあるだろうに、安易な道を選んだと感じた場合は悪と呼びたい心理が働くのではないでしょうか。苦しいのはお互い様なのにと。 それに、それを悪と呼ばねば阻止できなかった方が悪になってしまいます。 人の死を認めることは生を否定することになってしまいます。 生きていることに価値がないことになってしまいます。 それでは生きることに価値を見いだすことが虚しくなってしまいます。 明るい方を見ていないと生きていくのが辛くなってしまうから、生きていくことに価値を見い出したいから、死ぬのは悪だと言いたくなるのではないでしょうか。

MAXMIN2008
質問者

お礼

そうですね。 自分も,生きた証を残したいです。 素晴らしい「自伝」になるように努力しようと思います。 しかし,私の場合,「生きるならば」という考えの下ですね。 ちょっと,ネガティブですが,今は,このような考えです。 >>安易な道を選んだと感じた場合は悪と呼びたい心理が働く そうなんですよ。 そのような感情になることを,無意識のうちに,植えられているんです。 これは,日本国家に洗脳されたと言えるかもしれません。 これを「悪い事」とは言いませんが,自分の考えも持ちたいと思って,色々,試行錯誤を繰り返しているのです。

  • pkm35143
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.25

本来、魂は現世に出たくてしょうがないものなのです。たまたま与えられた姿が人間か犬か魚か虫かの違いで生きる為に出てきたのであります。何に成るかを決めるのは、もちろん神様です。そして与えられた寿命を一生懸命に生きようとします。でも本当の事を言うと自分が死ねないのは、自分自身が現世物語りの主役で有りますから簡単に終わってはいけないのです。主役は最後までいなければ。物足りなければ続編に、

MAXMIN2008
質問者

お礼

私は,「哲学の素人」です。 ですから,「哲学」について詳しい知識はありません。 >>本来、魂は現世に出たくてしょうがないものなのです。 哲学の基本なのでしょうか? なぜなのか,よくわかりません。 >>何に成るかを決めるのは、もちろん神様です。 なぜ,「神様」が決定していると知っているのですか? >>主役は最後までいなければ。 なぜでしょうか? 現在,出版されている多くの物語に「主役」が最後まで生きているからでしょうか? 主役が,物語の中盤~終盤等でいなくなっても,おもしろい「物語」にはできないのですかね?

  • markx01
  • ベストアンサー率20% (12/59)
回答No.24

 人は死後の世界を勝手ながらつくり出しました。 幽霊などという懐疑的な存在まで作り出し、死後あたかも 別の世界があるような錯覚をさせています。 直接的ではなく、頭の片隅の奥で死を前にして、そんな世界の存在が チラっと頭をよぎった人もいるでしょう。 まだ見ぬ正体不明な世界に「怖さ」を感じてしまう事もあると思います。  それと人間に一番大きく存在する「好奇心」 まだ見ぬ世界への想像世界に対する好奇心よりも 鮮明に見える現世での、≪死ななかった場合の今後≫を想像し、 未練と成り得ます。  おわかりとは思いますが、状況次第では人間はいとも簡単に 死の世界へ足を踏み入れます。  自殺が全てではなく、自己犠牲なるものもそうですね。 人助けで自らの死をもって目的を達成させた人物は沢山います。 もちろん失敗に終わった人も統計すれば相当な人数になるでしょう。  宗教での死を美化する傾向は信者が洗脳されているとよく聞きます。 有名な神風特別攻撃隊を筆頭に戦艦大和まで特攻に使った 大日本帝国は国民の大半を洗脳していた事になり、自殺者人数も 相当数です。 国民は頭の中に死よりも怖い存在への恐怖があったのですよね。 米帝国しかり捕虜の辱めしかり・・・  要は、【生活環境や人生経験によりけり】 これがベストでわかりやすい回答かと思います

MAXMIN2008
質問者

お礼

>>【生活環境や人生経験によりけり】 もちろん,おっしゃるとおりです。 しかし,「死ねない理由」を突き詰めていくと,1つの答えに辿り着けないのかいう期待があります。

noname#85878
noname#85878
回答No.23

NO4です。 そう言われると、『死』に対し『悪い』と言ってしまう事はあっても『良い』とはなかなか言えないです…ただ、上手くは言えないのですが、『良い』ではなく『素晴らしい』とは思う事があります。例えば病気の子ども達。自分の半分にも満たない子ども達が必死に病と闘い、死への恐怖より生きる希望や残された人生をどう生きるか。毎日を確実に生きる子ども達の最後は決して誰も批判してはいけない。とても苦しい人生だったはずなのに最後には周りに感謝の言葉を口にできる。とても素晴らしい最後だと思うんです。 自分に与えられた運命から逃げずに戦う。歩ききる。歩ききった時、きっと後ろめたさもなく綺麗な気持ちで死と向き合えるんでしょうね… 私は寄り道ばかりで(笑)死を語るには100万年早いですね(笑) ちなみに我が家は私がカカア天下だと思いこんでいるだけです(笑)主婦ですから!家庭を守り旦那様と子ども達をコントロールする為には強くならなくちゃなんです!ただ、私にとってカカア天下は旦那様が優しい証拠です(笑)

MAXMIN2008
質問者

お礼

「死までの姿」ですね。 一生懸命生きている人,又は,生きた人を尊敬しています。 自分も,胸を張って死を迎えられるようにしたい! 自分で納得できる人生にしたいです^^

noname#84922
noname#84922
回答No.22

死ねないのは何故か。 若い頃、生きてて何になるの?と思っていたことがあります。 自殺も考えたけど、どうしてもできなかった。足がすくんで。 生に未練はなかったけれど、私の場合、死よりも死に至る苦痛のほうが怖かった。 今は死にたいなんて全然思いません。生きてて良かったです。 ただ、そのときの悲しい気持ちを忘れたことなどありません。 世間一般が死ぬことを悪としているのは、 やっぱり人間も生き物で、自己保存本能が基本にあるからじゃないでしょうか。 個人的には、自殺は本人が悩んで下した決断なのだから、否定しません。

MAXMIN2008
質問者

お礼

貴重な体験談,ありがとうございます。 とても,参考になります。 やはり,「死に至る苦痛」は怖いですよね。 私も,「死」(苦痛も含め)より怖い「何か」が無ければ死ぬことができません。 今の私にとって,「死」が最大の苦痛です。

noname#77271
noname#77271
回答No.21

「死ねない理由」 普通の文章しか書けません。ユニークではありませんが… 私の場合は、まず、子供がいるからですね。 でも、実際のところ旦那がいるので私が死んでもちゃんと面倒を見てくれるでしょう。 あと、生きているのが面倒になって死んだ自分の死体を想像すると、みっともないからです。そんなものは見苦しい。多分、汚い。 そんな死体は自分でも見たくないから、人に見せたくない。 生き恥を晒すではなくて、 「死に恥を晒す」…どれだけみっともないことだろうと。 精一杯生きた人が死ぬのならそれはそれで良いのだけれど、死ぬのにも資格がいるのではないかと思ってしまうんです。 不慮の死…こればかりは本人の力だけではどうしようもないですけれどね。 「立つ鳥跡を濁さず」と言うけれど、その心境です。 今、鬱気味で自分自身も家の中も濁っているので、片付けなくてはならないことばかりです。 死ぬときは身辺整理をやらないと安心して死ねません。 終わりよければ全て良し。 死ぬのならせめてそのくらいは実行したいです。 そのぐらいのエネルギーは残しておきたいです。 せっかく生まて来てまともに生きることが出来なかったのなら、せめて死に方ぐらいはまともにしたいです。 生き直しが出来ないように、死に直しも出来ないですからね。 死ぬときは死体も人目に付かないように、冬山が良いかも知れません。 …でも、そうなると死ぬ準備というのは大変です。 捜索費用がかかって家族にも偉い迷惑でしょう。自己満足?難しいです。 鼻を垂らしているのとか、漏らしているのとか、ぐちゃぐちゃな死体は嫌ですね。飛び降りも下にいる人にぶつかって、下敷きになった人が亡くなるという話を聞きます。そう言う迷惑な死に方はしたくないです。 小学生の時、同級生が首を吊って亡くなった人の死体を見てしまい、どれだけ気味悪かったか、恐ろしかったか語っていました。 妹が幼稚園のときはクラスが違う子でしたが、家に帰るとやはりお母さんが首を吊って亡くなっていたそうです。その子は幼稚園に引き返して先生に報告しに行ったそうです。 自分が人のトラウマになるのだけは嫌ですね。 人のトラウマになるんですから、やはり死、特に自殺はお勧めできません。 わざわざ人目に付くところで、むごたらしい死に様を見せるのは無責任です。 私にとっての「死ぬことの悪とは、人のトラウマになること」です。 話を自分に戻して死ぬ準備をしている間に、 「おっ、やるじゃん私。」 「なーんだ、ここまでやれるんなら死ぬことないじゃん。」 となるんじゃないかと。 だから、今はまだ死ねない。多分自分からは余程のことがなければ死なないのではないかと。 (余程のこととは、自分が不治の病・難治性の病気を患う、半身不随になる。または身内が廃人になってしまうとか、受け入れがたい事実に直面したときです。) 感情が凍っていて、孤独で、家族も何も本当に持っていなかったら、体は病気でなくてもあっさり死ねる様な気がします。 人は何の執着もなく本当に空っぽになったら、死に方さえも拘らなくなったら、死を選んでしまうものなのだろうとも思います。 天寿を全うする人は本当の意味で生を貫いたと言うことで、満たされた状態にあるのだと思います。 本当に満たされればまた、死ぬ条件は満たされたと言えると思います。 半端に持っていると、簡単には死ねないんじゃないかと思います。

MAXMIN2008
質問者

お礼

迷惑な死に方は,悪ということですね? 「死」は,少なからず人に迷惑をかけますね。 >>話を自分に戻して死ぬ準備をしている間に、 >>「おっ、やるじゃん私。」 >>「なーんだ、ここまでやれるんなら死ぬことないじゃん。」 この気持ちの転換が素晴らしい!!

回答No.20

個人的な理由でいいなら、もう完璧に「惰性」。この一言に尽きますね。 昨日生きていた、今日も生きている。だから明日も生きるだろう。 それが私の生きる意味であり、死なない理由です。 自ら死を選ばない(死ねない)のは、私も考えたんですけど、死ぬ理由がないからです。 「自殺」という結論を導くのって難しいと思いませんか? 例えば 「自分は世の中にいても価値がないんだだから死のう」 →たいていの人は価値なんてたいしてないけど、ふつうに生きている。 →自分なりの価値を見つければいいじゃない! →そもそも、首相だって辞めたら次の首相に代わるだけ・・・価値があるかどうか疑わしい また 「自分は世の中の害にしかならないんだ。ニートだし親の金を食いつぶしてる」 →働けばいいじゃない! →働くのが怖いならカウンセリングに行けばいいじゃない! →そもそも、世の中の害になるほど自分はたいそうな存在ではない 「借金が・・・」 →弁護士事務所へGO このように、自殺という解決策じゃなくても、もっと合理的で効率的な解決策が他にあるんですよね。そこで死を選ぶ理由なんて、何もない。 もしあるとすれば、自分が人を殺してしまった場合くらいでしょう。でもこれも、「殺してしまった人の代わりに精一杯生きる」と考えれば、死ぬ必要はないような気がします。 世間一般のことは、すみませんよく分かりません。 でも、自殺に限って言えば、日本は死ぬことが美化されているような気がします。栄誉の死ですね。恥をかくぐらいなら自ら死を選ぶ・・・それが人のあるべき姿だ、みたいな。この辺りは、新渡戸稲造『武士道』に面白く書かれてますよ。

MAXMIN2008
質問者

お礼

「惰性」。 そうですよね。 多くの人は,「何故,生きる?」「何故,死ねない?」なんて,毎日,小難しく考えませんよね。 私も,人生の多くは「惰性」で生きていると思います。 また,「死を選択する」という結論を導くのは,難しいです。 現時点で,私は,絶対に無理です。 私も,「死の選択」より,楽で簡単な解決方法をたくさん持っています。 しかし,死よりも恐ろしい存在が出現し,合理的な解決法を見つけられないとすれば・・・。 私の場合,「死」より怖い「何か」がキーワードとなってきそうです。

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