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死ねない理由

わたしは「おしえてgoo」では「哲学」のカテゴリーでよく質問をしています。名ばかり、形ばかりとは言え哲学科卒ですから(苦笑) そこで頻繁に目にする質問は「みなんさんの生きる意味はなんですか?」というものです。 そこで今回は逆に「何故,死ねないのか」ということについてご意見をお聞かせください。 また世の中の大半の人は「死ぬこと」を「悪」としていますがそれは何故でしょうか? 周りの人が悲しむから、親からもらった命だから等の一般論ではなく、 ユニークな意見をお聞かせください。

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noname#228784
noname#228784
回答No.10

||ω・) こんばんは。 御礼をありがとうございます。m(_ _*)m あの… 私のは、ユニークな回答を御希望という事で 出てきた回答なので。 倫理的理由だって、語ろうを思えばいくらでも出てきますょ。 極度の精神病でもない限り、 「死にたい」って感情は、「生きたい」っていう前向きな感情の表出だと言えますから。 これを語ればそりゃあ、色々出ますw でも、そういう ある意味オーソドックスな(?)回答はお望みではないと感じたので 誰にもわかる物理な回答となりました☆ 物理な回答も、程々に倫理を含んでいますょ。^^ 人の死は、1人だけの死ではなく。数多の細胞の死でもある。 なので自殺の場合、それは同時に他殺でもある。 私は身体的に難しい疾患を抱えていますから 体の反射に助けられることや 体の反射に痛めつけられることを、実感する機会が多いのです。 痛めつけられるのもまた、病状を勉強し、体内の変化を理解すれば通りがわかる。 意識本体が何を考えようと、感じようと、体内の細胞たちは必死に生きようとしてるんですね。 色んな経験を踏まえて、現実的に 「どんなに辛くても苦しくても、体自体は生きようと必死に機能している。自分は、主人である。自分の意識を1つと数えるなら、体内では、1人はみんなのために・みんなは1人の為にという世界が、綺麗に成り立っている」 ということを実感しています。 数多の細胞が主人(心臓・大脳・意識)を見捨てる事はないのに、 主人の意識が数多の細胞を裏切って道連れに死ぬ(=自殺を選ぶ)というのは、とんだ暴君の所業ですw 細胞は種類によって、体内での寿命が異なっていますが たとえ寿命が3日間の細胞であっても、精一杯 生きてるんです。 寿命をまっとうさせて、意識的な行動によって良い行いを重ねて 数多の細胞も、自意識も、ともに成仏させてあげたいですよね♪

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは、h-poirotさん。 今回も十分にユニークな回答をいただきました。 >「死にたい」って感情は、「生きたい」っていう前向きな感情の表出だと言えますから。 これは正に仰るとおりですね。でも「死にたい」と「生きたい」が表裏一体のものだと考える人は多くないようです。 >意識本体が何を考えようと、感じようと、体内の細胞たちは必死に生きようとしてるんですね。 そうですね、爪も伸びるし髪も伸びるし心臓は鼓動を止めませんね。 >数多の細胞が主人(心臓・大脳・意識)を見捨てる事はないのに、 主人の意識が数多の細胞を裏切って道連れに死ぬ(=自殺を選ぶ)というのは、とんだ暴君の所業ですw >たとえ寿命が3日間の細胞であっても、精一杯 生きてるんです。 なるほど。実にユニークなご意見ですね。 とてもいいご意見を伺うことが出来ました。 再度のご投稿に感謝します。

その他の回答 (12)

  • LOLIPON35
  • ベストアンサー率30% (861/2838)
回答No.13

こんばんは。 身体にしてみれば、自殺を考える「自分」のほうが プログラムのエラーに過ぎないのでしょうね。 生きるために高度な知能を獲得した生命ですが、 知能は、放っておくと、余計な矛盾を作り出したり、 勝手な妄想を展開してしまうから困りものです。 たしかに、人体が発生する課程でも、手の塊から 指ができるように、アポトーシスが起こって、 身体を作ることもあります。それ以外でも、身体を 維持するために、細胞が自殺することはあります。 でも、それもこれも、生きるための仕組みです。 「自分」という、目み見えない結び目を作って、 「自分」が「自分」であると強く思えば思うほど、 その結び目は固くなっていくわけですが、結局、 死の瞬間には、手品のように解けてしまいます。 初めから目には見えない、幻かもしれません。 あらぬ妄想を膨らませる、厄介な幻です…。 例えば、人生の意味を考えるより先に、 義務感や使命感などに追われて、ひたすら 働き続けて来た人でも、一定の目的に達して 安心してしまうと、うっかりと「自分」で「自分」が いらなくなってしまったと判断してしまいます。 うっかり「自分」という幻が消えてしまっても、 それでも肉体は生き続けているわけです…。 生命は、「自分」を作るよりも先に、生きるために プログラムされて生み出されてきたもので、 「自分」がそれを超克しようなどと考えるのは、 おこがましい限りなのかもしれません。 「死」そのものを知ることもできず、概念として 理解したつもりになっているだけで、そこには 善も悪もないのではないでしょうか。 自然のままに生きれば、当然のように「死」が あるだけのことで、わざわざ自ら死ぬというのは、 「自分」の生み出した矛盾ではないでしょうか。 人として、人のプライドのようなものとして、 「自分」が「自分」を守るために「自分」を殺すのは、 そう思い込んでしまっているだけで、変化する可能性は まだ残されているのだと思います。わずかでも 可能性が残っているなら、生命の限り生きて、 よりよく生きるしかないのだと思います。 少なくとも、十分に生きた人でない限り、 安易に「死」を選択肢に加えることは できないのだと考えています。 本当は、別のことを紙に何枚も書きつけて、 つらつらと考えていたのですが、ふと、 この回答を思いついて書いてみました。 正直、「自分」でも何が言いたいのかわかりません。 …失礼しました。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 自分の身体的な存在が第一義であって、個々の意識が「人間」の種としての生命存続の意図を超えようとすることはそもそも自然に反する、ということでしょうか? これは「実存は本質に先立つ」の実存主義ではなく「本質主義」のようですね。 つまり「わたし」「あなた」「彼・彼女」という個別性、一回性を最優先させるのではなく、「人類」という「種」が「個」に先立つ、ということかなと思いました。 >少なくとも、十分に生きた人でない限り、 安易に「死」を選択肢に加えることは できないのだと考えています。 逆に「十全に生きることができないから」死を選ぶという見方はできないでしょうか?言い方を変えれば、「充分に生きることが出来た」人は死を考えることは少ないのではないか、とも思うのです。 いろいろとお考え下さり、貴重なご意見を聞かせていただきありがとうございました。

noname#244657
noname#244657
回答No.12

>どうすれば生を愉しむことができるのか、精神科通院歴23年の障害者に教えてほしいですね。 精神病を理由に、楽しいことなどひとつもないとするのは暴論ですよ。 気にいらないことがあるとすぐ、精神病なんだ!と逃げ込む人は私は嫌いです。 ”楽しさ”なんて、そんなに気負わなくても彼方此方に散りばめられていますでしょ。 例えば、こうしてアンケートをすれば、答えてくださる方々がいらっしゃいます。 そういう考えもあるのか~、あら、そうきましたか!などなど、それはそれは至福のときです。 質問者様も、楽しいから質疑応答をなさっているのでしょう? 幸せなんて、地味なことの積み重ねなのです。 それを知っているから死ねないのです。 以上です。

noname#226970
質問者

お礼

アンケートでも、哲学でも、異なる意見でも真摯に答えていただけると嬉しいですね。「至福の時」かどうかはわかりませんが、 >質問者様も、楽しいから質疑応答をなさっているのでしょう? そうですが、やはりおっかなびっくりの部分もありますよ。自分も含め人間て得体のしれない動物ですからね。そういう気持ちは『人間失格』の大庭葉蔵の気持ちに近いですね。 >幸せなんて、地味なことの積み重ねなのです。 それを知っているから死ねないのです。 随分と自信を持っておられますね。 そのような自己信頼は何処から来るのか知りたいところです。 重ねてのご投稿ありがとうございました。

noname#231734
noname#231734
回答No.11

こんにちは。 全然ユニークではないのですが、 やっぱり母親が命がけで産んでくれたので、 その命を自分から断つのは・・と 思っています。 どんなに医学が発達しても、 出産で命を落とす人はいますから・・。 親からもらった命というのと一緒かもですけど・・。 あとはやっぱり死は未知のものですから、 怖いですね。理屈抜きでただ怖いです。 遺伝子か何かに「死ぬのは怖いことだよ~」って 書いてあるのかも。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >全然ユニークではないのですが いえいえ、 >やっぱり母親が命がけで産んでくれたので、 その命を自分から断つのは・・と 思っています。 よくわかります。 >どんなに医学が発達しても、 出産で命を落とす人はいますから・・。 そういう発想はなかったですね。女性ならではのご意見だと思いました。 >親からもらった命というのと一緒かもですけど・・。 でも表現が違います、ユニークな意見というのは、別に奇を衒った意見ということではなく、紋切型ではない表現=ご自分の言葉で語って欲しいという気持ちでした。 >あとはやっぱり死は未知のものですから、 怖いですね。理屈抜きでただ怖いです。 遺伝子か何かに「死ぬのは怖いことだよ~」って 書いてあるのかも。 簡単にいえばそういうことなのかもしれませんね。 生れるときに意識が合ったらどうだろうなどとご回答を読んでいて考えてしまいました。 素敵なご意見をありがとうございました。

noname#236410
noname#236410
回答No.9

私の場合は、一思いに境界線を越えてしまうのが怖いというのもあるし、 それに今、自分の人生が終わってしまったら、納得がいかないでしょう。 ましてや自分の意志で人生を終わらせるというのならなおさらです。 まだ人生折り返しくらいだし、満足いくまで人生を楽しみたい、 堪能したいです。 今よりいい暮らしをしたいし、趣味を通じて人とつながって おもしろおかしく生きたいです。 死ぬまでに言われてみたい言葉がいくつかあります。 「きゃしゃな奥さん」 「あの人といるとほっこりしてくつろぐ」 「楽しいことにはあの人がいなくちゃ」 「性格はおとなしいけどお祭り好き」 「ぜひご一緒したい人」などなど。 いつか周囲に言わせて見せるぜーと心の中でこぶしを握っています。 (ただし「きゃしゃな奥さん」以外。私は子どものころから小太りで、 おそらく一生小太りだと思うので、これは見果てぬ夢なんです。) まあ、これからの人生が楽しいのかどうかは生きてみなきゃわからないですが、 まあまあぼちぼちよく生きたワと自分なりに納得したいです。 将来的に罹る病なら、能天気病が良いかと。 ついでにgrassroots さんにもうつしてあげます。 えいっ、どうだ。ガンバ!(*゜ー゜)ノ"☆/;^-^)ノ

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。仔犬が成長したんですね。 わたしは成長しないようです(苦笑) 人生観って結局「習慣」的なものの見方なのかなと思います。 わたしは物事の、世の中の、人間の暗い面しか見えないところがありますが、それは障害者としてこの国に長く生きていると・・・いや、個人差かな? 死ぬまでに言われてみたい言葉で、見果てぬ夢になりそうなのは「きゃしゃな奥さん」だけで、あとはなんとかなりそうですか? わたしはなんというか、あらゆる夢が、「きゃしゃな奥さん」と呼んでくれと言っているようなものですから(苦笑) はは、能天気病のひとはこんな妙な質問に回答はしませんよ。 >ついでにgrassroots さんにもうつしてあげます。 えいっ、どうだ。ガンバ!(*゜ー゜)ノ"☆/;^-^)ノ この絵はかわいい!(笑) きゃしゃな奥さんもついでに目指しましょう! それとも「ほっこり」は華奢じゃない方がいいのかな?(笑) ご回答をありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

お答え、なんとなくほっこりしました。(*´▽`*)

noname#244657
noname#244657
回答No.8

>先ずいつもいる場所が哲学のコーナーで、そこでは当然「正解」と言うものはなく、質疑応答の中でなんとなく方向性を見出してゆくので、このような議論にお付き合いしていただくことをお願いはできませんが、お礼の仕方についてはそのような事情でご容赦ください。 →”悩むための悩める提議”に、私は興味ありません。 >ご回答のように、ほとんどの宗教が「自殺」を認めていないのなら、わたしは到底宗教には救われません。 →grassroots様は自殺したいのですか?私は自殺幇助などできませんよ。 >「親に先立つ子の不幸」であるなら、天涯孤独の人の自死は許されるということになりませんか? →親のいない人など存在しないのです。 木の股から生まれたとでも? 天寿を全うすること、それこそが使命であり、社会に生きる限りは社会に役立つ使命もあります。 そういうことを習えなかった人は不幸ですね。 >>→哲学とは「内的体験」「啓示」「悟り」そのものではありませんか。 その他で謂うならば、”本能”でしょうね。 >それはどのように「哲学」を捉えるかによると思います。宗教的体験のような言語化できない、抽象化できないことはあくまで体験者個人の経験としてとどまるのみですが、それを深めること、考証し、検討すること、思惟することは言葉(概念)によってです。 →言葉に頼り過ぎではないでしょうか? 相手の一挙手一投足にでさえ、意味はあります。 ”生”を楽しんでから”死”を考えて下さい。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 >”悩むための悩める提議”に、私は興味ありません。 普通はそうですね。おしえてgooでも「哲学」は「その他」あるいは「雑」の部に分類されているとみる人も多いようです(苦笑)答えのないことをああだこうだといいあっているわけですから。でもそれを不毛で、時間の無駄だと思う人もいれば、そこから何かしらのヒントを掬い出す人もいるのです。 >天寿を全うすること、それこそが使命であり、社会に生きる限りは社会に役立つ使命もあります。 そういうことを習えなかった人は不幸ですね。 なるほど、MJ-spyさんは極めてまっとうに生きていらっしゃいますね。 >”生”を楽しんでから”死”を考えて下さい。 それは理屈としては正論ですが、誰もが生を愉しめるわけではない・・・と、一般論にはしないで、どうすれば生を愉しむことができるのか、精神科通院歴23年の障害者に教えてほしいですね。 ご回答をありがとうございます。

noname#244657
noname#244657
回答No.7

>寡聞にして水子の話は存じませんでした。とても興味深いお話です。 →これが宗教観念です。 これらは子供の頃から親より教えられるもの。 悪いことをすれば地獄行きだよ、天国は楽園なんだから、そこに行きたいでしょ?と刷り込まれてきたなかに、自殺は悪という観念があります。 水子のお話にも、親より先に死ぬのは親不孝とありますね。 勝手なお話のように聞こえますが、堕胎は罪だと、同時に説いています。 >「ユニークな意見を」と言う表現に抵抗を持たれたのだと思います。 そのことについては誤解を与える表現であったと思います。 →そうですね。反省を求めたいところです。 >ユニークという言葉に抵抗があることは認めますが、死を語ることを避けることが「思慮深いこと」とは思いません。少なくともわたしは真面目に問うています。 →言葉を重視するなら、「ユニーク」この表現はあり得ないでしょう。 なにも死について語るなとは言っておりません。 私は歳柄、自分の死についてもよく語ります。タブーだとは申しておりませんけれど。 畳みかけ、ご自身の”言葉の選択の誤り”を隠そうとするかのような上塗りはどうかと思います。 >理解するとは最終的に言葉に依ります。所謂「内的体験」「啓示」「悟り」などについて語っているのではなく、言語化し得る時点での死生観をお聞きしています。 →哲学とは「内的体験」「啓示」「悟り」そのものではありませんか。 その他で謂うならば、”本能”でしょうね。

noname#226970
質問者

お礼

先ずいつもいる場所が哲学のコーナーで、そこでは当然「正解」と言うものはなく、質疑応答の中でなんとなく方向性を見出してゆくので、このような議論にお付き合いしていただくことをお願いはできませんが、お礼の仕方についてはそのような事情でご容赦ください。 ご回答のように、ほとんどの宗教が「自殺」を認めていないのなら、わたしは到底宗教には救われません。 「親に先立つ子の不幸」であるなら、天涯孤独の人の自死は許されるということになりませんか? >→哲学とは「内的体験」「啓示」「悟り」そのものではありませんか。 その他で謂うならば、”本能”でしょうね。 それはどのように「哲学」を捉えるかによると思います。宗教的体験のような言語化できない、抽象化できないことはあくまで体験者個人の経験としてとどまるのみですが、それを深めること、考証し、検討すること、思惟することは言葉(概念)によってです。 ◇ 季路問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼、曰敢問死、曰未知生、焉知死。 季路(きろ)、鬼神(きしん)に事(つか)えん事を問う。子曰わく、未(いま)だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん。曰わく、敢(あ)えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。 現代語訳 季路(きろ)が死者の魂に対してどうやって仕えたら良いか尋ねた。 孔子は、 「まだ人に仕える事さえ十分に出来ないのに、どうして上手く死者の魂に仕える事ができようか。」 そこで季路は死について尋ねた。 孔子は、「まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろうか。」と答えた。 論語先進十一/十二 http://blog.mage8.com/rongo-11-12 という立場もあり得ますが。 再度のご回答をありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

「ユニーク」=「独特な」「個性的な」という表現に関しては、所謂「一般的」「紋切型」への対置として使ったつもりでしたが、どこか浮ついたニュアンスもあり適切な表現ではなかったことを、ご不快に感じられた皆様にお詫びいたします。

  • 19800923d
  • ベストアンサー率17% (44/250)
回答No.6

こんにちは。 ユニークではないですが、切実に 私が最近になって一番思うのは、 自分のペットへの責任が残っているうちは、死ねないなぁ。。。です。 「死ぬこと」を「悪」としているのは、 生きる事に価値があると考えるからなのではないかと思います。 (私の勝手な思いです^^;)

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >自分のペットへの責任が残っているうちは、死ねないなぁ。。。です。 そうですね。またペットがいるから生きていられるという面もあるのだと思います。十分すぎる生きる理由であり、死なない理由だと思います。 >「死ぬこと」を「悪」としているのは、 生きる事に価値があると考えるからなのではないかと思います。 生きることは価値あることです。けれどもわたしが引っかかっているのは、 あたかも「死」が「生」への反逆のように見なされている点です。 お答えを感謝します。

noname#244657
noname#244657
回答No.5

>「何故,死ねないのか」 年間にして3万人くらいは自殺しています。 水子は、自らの意思で死んだのではありませんが、自分を殺した親のために、賽の河原で石を積みます。 ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んで母のため。。 望んでいない死であっても、親に先立つことは悪い子と、自分を責めて重労働。そこへ鬼がやって来て、積んだ石を崩していく。 鬼がやってくると幼子たちは、怖くて隅に重なりあって泣きますけれど、守ってくれる者はなし。 そしてまた、いちから石を積む。 ユニークでしょ。 ”死”というものを浅慮するものでは無いと思いますが? どうお考えなのでしょう。 宗教観念でしょうね。 それを理解できない人には何を言っても無駄です。 言葉を上っ面だけで分かったふりはしないで下さい。

noname#226970
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 寡聞にして水子の話は存じませんでした。とても興味深いお話です。 「ユニークな意見を」と言う表現に抵抗を持たれたのだと思います。 そのことについては誤解を与える表現であったと思います。 そのことから「死」について語ること、尋ねること、考えることが「浅慮」(あさはか)であると判断されたのでしょう。 ユニークという言葉に抵抗があることは認めますが、死を語ることを避けることが「思慮深いこと」とは思いません。少なくともわたしは真面目に問うています。 >言葉を上っ面だけで分かったふりはしないで下さい。 理解するとは最終的に言葉に依ります。所謂「内的体験」「啓示」「悟り」などについて語っているのではなく、言語化し得る時点での死生観をお聞きしています。

回答No.4

一番は「怖い」という感情です。 取り返しがつかない行為だからだと思いますし、未知数だからです。

noname#226970
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 わたしは精神的(情緒的)な障害を持っています。 そして >一番は「怖い」という感情です。 取り返しがつかない行為だからだと思いますし、未知数だからです。 これはわたしにとっては同時に「生きること」を表す表現でもあるのです。 お答えを読んで、「ふつうの人」はそのようには感じないのだろうか?という疑問が残ります。

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (397/2006)
回答No.3

>周りの人が悲しむから、親からもらった命だから等の一般論ではなく、ユニークな意見をお聞かせください。 確かに、他人云々より、自分のために生きるべきかと。 ただ、多かれ少なかれ他人の影響を受けることも事実でしょうね。 死んだ経験がなく、死後の世界について全く知らない(死が怖い) それに、どうせいつか死ぬ それならば、とりあえず生きてみようか!!! と、消去法で、生きている人も居ると思う。 ちなみに、私は、鈍感なので、ほぼ何も考えず生きている。 (私は、悩まない豚なのでしょう。) >また世の中の大半の人は「死ぬこと」を「悪」としていますがそれは何故でしょうか? 根本は本能的なもの『種の保存』に起因すると思います。 もし、宗教の所為で、「死ぬこと」を「悪」と定義付けしたのであれば、それは、死んだら信者や寄付金が少なくなるから?という邪推も出来ますが、 逆に、宗教のためならば「死ぬこと」も「善」とする教えもありそうです(苦笑) ただ、生きていれば、こうやって考えたり、Q&Aが出来る。 生きていれば、何かを産み出すことが出来るのでは?とも思うわけで。 また、現在世の中で起きている事件、歴史、芸術、スポーツ、等にも出会うことが出来る。 う~ん、誰に与えられた命なのかは判りませんが、どうせいつか必ず死ぬのだから、まだ、死ねないな~。 とうことで、ギリギリまで粘ってみます!!!

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは、oya_zicoさん。 どんな人間でも人生の浮き沈みはあります。もっとも万事快調という人も中にはいるのかもしれません。人生の山あり谷あり、で、運悪く奈落の底に落ち込んでしまった人もいる。そこで生きることを放棄する人もいればとどまることを選ぶ人もいる。そのことの判断に対し「善し悪し」があるのはおかしいと思います。けれども現実には前者の判断は「負けた」「逃げた」更には「卑怯」と評されるように思うのです。 >逆に、宗教のためならば「死ぬこと」も「善」とする教えもありそうです(苦笑) 大体「戦争」なんてそんなものじゃないでしょうか。無論中世の十字軍とは違いますが、「ある理想・信念(信じるところ)」に殉じるという意味では、所謂「正義」も宗教のようなものではないでしょうか。 >ただ、生きていれば、こうやって考えたり、Q&Aが出来る。 生きていれば、何かを産み出すことが出来るのでは?とも思うわけで。 また、現在世の中で起きている事件、歴史、芸術、スポーツ、等にも出会うことが出来る。 それは今現在なんとか心身ともに深く病んではいない、という僥倖によるのではないでしょうか。「生きることが苦痛である」場合、多くの人はどう考えるのだろう、と。 ドルトン・トランボ監督の『ジョニーは戦場に行った』では、彼は戦場で被弾し、両手、両脚、視力、聴力、嗅覚、そして口を失い話すこともできなくなる。その状態で「死ぬ」ことは不可能だ。 それでも尚生きることにわたしはまったく異論はありません。 あらゆる命はそれがどのようなものであっても尊重されるべきです。 けれども何故自らの意思で「死ぬ」ことが、これほどまでに忌み嫌われるのか? それは「生命尊重」の思想に反しているからだ、とはいえないと思うのです。 いつもお付き合いくださってありがとうございます。

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