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絶望から何を学びますか・学ばれましたか?
新年おめでとうございます。 元旦早々暗いですが。絶望から何を学びますか・学ばれましたか?
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新年おめでとうございます。 元旦早々、 ずばり一言の すごい質問ですね^^。 絶望と言える体験なのかどうかは知りませんが、 存在(あるいは神)こそ悪魔と思ったことがあります。 悪の因の因の因の因… は存在に存在してる。 つまり当時は擬人化的ではありましたが神こそ悪の根本因であるはずだと 思えたのです。 そしてそれがあるかぎり この世から悪も悲惨さもなくならない。 そう思った時のどうしようもなさ、 善の虚無感、 むなしさ、 それは、好きだった酒をあびるように飲むことから始まりました。 やぶれかぶれ どうにでもなれという感じです。 私がお酒が好きだったのは 始めて飲んだ地酒がこの世の物とも思えないほど自分のその時の体と何か合っていたのでしょうが おいしいなんてものを越えて、安らかで新鮮な感覚にしてくれたものだったからです。 でも その後 大酒飲みとなったのは おいしいからではなく 別な理由からです。 ともかく 酒が好きだからって、 悪酔いしたことは無いですし、自棄酒とかも一度も無いです。 ただ、単に飲むこと自体が好きになっていたんです。 で、生まれて始めての自棄酒(やけざけ)だったのでしょうか? いや そんな時には自棄(やけ)なんてもんじゃないすね。 すで酒に強くなっていた私が とうとう目の神経を失いました。 時どきこれに近い感覚で、 記憶に無いのに 家まであるって帰ったりしたこととかは何度もありますが、 この場合は 意識ははっきりしたまま あたりは、真っ黒でした。 でもちゃんと 人の位置とかはほとんど手に取るように解かりました。 神秘的な感覚でした。 ままに 自分の部屋までしっかり戻っていました。 そこで私は 叫び始めたんです。 「神様よ、 あんたこそ悪魔じゃないか。 いや あんただけが悪魔なんだよ。 どんな人間だって どんな悪人だって 弱い生物なんだからな。 長いその因果があって 頭の混乱もあっていつしか悪人になってただけなんだよな。 その因の奥には 神様よ。 あなたしか因は存在しない。 あんただけが 悪魔だ。 違うのか? 」 「ううううう」 という感じでした。 目が見えるようになってくると、 何か変だと思っていたんですが 血を吐いていました。 急いで 洗面器を用意してはいました。 冷静でした。 いや、おそらく そんな時には 意識朦朧とした意識なんかじゃないです。 普段以上に すべてが冴えています。 が、 うなり声だけは どんどん大きくなっていきました。 ちょうど、嗚咽の時に 涙や声を抑えようとするほどに かえって声や涙が大きくなってしまうのと一緒でした。 「お前だけが 悪魔なんだ! 存在の根源よ。 どうしてくれるんだ。 せめて、 せめて、俺は 生きてる間だけでも お前の敵になってやる。 どうしようもねえやね。 そんなこと言ったってどうしようもねえやね。 でも、 でも、 意識があるかぎり 唯一のろうべきあんたをのろいつづけてやる ! 」 文字通りそんな風に言ったのではなくて、 出てきた言葉も 別な言葉だったのですが、 心の中の 苦痛の叫びを 言葉にすれば そんな感じでした。 夜中中、 頭は考え続け そして巨大に思えるその疑問を 血とともに吐き出していました。 朝方 私の体は ぐったりしていました。 静かでした。 ただただ静かでした。 それだけでした。 でも、 ぐったりしたその男の口からは 弱弱しくですが、 「もう わからないよう。 なにもかもわからないよう。 わからない わからない」という言葉が漏れていました。 涙だけが、うめきの代わりに流れていました。 もう ほんとうに何も考えられませんでした。 ただ、ただ 木の葉のように弱い生き物がそこに横たわっていました。 何も考えられなくなったこと これが絶望ですかね。 生物ですから死にもしなかったけれども、 たぶん、心は一度この時 死んだのかもしれません。 そこから 何を学んだのか? 考えたことありませんでしたが、 どんな大きな目標も 一歩一歩から という当たり前の事を 無意識的に学んでいたようにも思えます。 よく解かりませんが そんな感じですね。 また、 この体験がこの世への絶望の体験だったとするならば、 それ自体というよりも、何も考えずに それ以後生きた中で それでも悩んだり考えたりしたことのすべてが、かなり物事を明快に考えることができ、それが役立ちましたね。 「存在は それでもなお無限にすばらしい贈り物」であるという思索は、その過程の長い長い道にて生まれてきたものです。 悪が その感覚の欠如から生まれてる姿が 如実に見えてきたのも その長い過程でのことです。 結果 それは 一つの大きな分岐点でもあったようです。 絶望自体から何か学んだと言う感じは無いのですが、 そこまで行ってきたというか そこまで沈んだ体験は 後に 物事を深く見つめる力にはなってきたようです。 後に 私が長い間に学んだことを 一言でいうならば、 でもそれは「希望」でした。 その一歩一歩は価値があるということでした。 それでも 生きることには どんな生にも どんな弱い存在にも価値がある。!
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- HIKARU 0321(@HIKARU0321)
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>新年おめでとうございます。 あけましておめでとうございます。 >元旦早々暗いですが。絶望から何を学びますか・学ばれましたか? ずばり、”開き直り”です。 元旦早々、暗いのかな?暗くはないでしょ。誰もが人生で(何度も?)経験することだから。 絶望に浸ってると何事も良くは展開しません。 だからこそ、”開き直って”笑顔で前に進むのみです。 私も10代の頃、約5年間、絶望に浸っていました。 嘘だ!嘘だ!と信じられないことを調べてはそれが真実である可能性が強いことに愕然としていました。 でもいつか俺が全て良くしてやる!と息巻いてもそれがひっくり返せない長い長い歴史とデカイ(×300万倍)組織だと気付いた時に深く絶望しました。 あの頃は、社会に絶望してその中で生きる自分の未来に絶望して何のために生きて良いか解りませんでした。 男は夢、希望、目的があって前に進みます。未来志向? 対照的に女性は現実主義です。 その絶望を救ってくれたのが交通事故による記憶喪失です。 > 絶望の虚妄なること 希望の虚妄なるに等し でした。 自縄自縛の結果、約5年間の記憶を喪失しました。 思い出せるのは幼少から中学まで、高校1年の終わりまでおぼろげですが、虚無だった頃の高校2年から事故直前は消えてました。 良かったことはすべて嫌なことを忘れて再び”自分の足で立って歩き始められる=一生懸命に生きる”という点です。 悪かったことはそれまで勉強していたことすべてを忘れ、親しく付き合っていた友達の存在、付き合い方を忘れたという点です。 中学までの友達が残り、それ以降の友達は一時的に消えました。 もうすでに事故後、10年が経ち、今では”開き直って”ます。 ”それもまた必要だから起こる、存在することなんだ。” とある意味悟ってます。笑。 結論的に 絶望したければするのも結構、 希望したければするのもまた結構、 ただ、絶望するとすべてが悪い方向に流れ、 希望するとすべてが良い方向に流れることを学びました。 ”少年よ大志を抱け” 少年でなくても結構、いつもどんな時もくじけない大志を抱き続けることはとても大事だと学びました。 .
お礼
大変な御経験をされたんですね 若い時は恋愛の悩み、中年期は仕事に悩み、老年期は健康に悩み、と何かで言ってましたが、人間とは良い意味で悩みながら生きて行くのかもしれませんね。 >結論的に 絶望したければするのも結構、 希望したければするのもまた結構、 ただ、絶望するとすべてが悪い方向に流れ、 希望するとすべてが良い方向に流れることを学びました。 ”少年よ大志を抱け” 少年でなくても結構、いつもどんな時もくじけない大志を抱き続けるこ>とはとても大事だと学びました。 なるほどそうですか、御回答有り難うございました。 .
- 00880088
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つらい事は慣れる 苦痛のあとの幸福はいちだん上
補足
御回答有り難うございます。 00880088さん自身が感じた事でしょうが、何方かが言われた言葉でしょうか。
No.14です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >希望の星をあおぎつつ 前へと進む そういう行き方から 自由になりました。 これは信仰を得た瞬間だと言えるかもしれませんが、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 参考になるのでしたら お答えします。 これは 信仰を得た結果 信仰をとおして生きて来たその後の過程をまとめて捉えたものです。《瞬間》ではありません。潜在する可能性としては 瞬間であったのかも知れません。 ★ それが出来ずに困ってる訳ですが、何故そう言う心境になったのでしょうか。 ☆ 《何故なったか》は 信仰を与えられたからですが なぜ与えられたかは なぞです。分かりません。風は気ままに吹くと言います。 信仰を得たというその内実を説明したほうがよいでしょう。 ちなみに 先に言っておきますが ★ 刀折れ矢尽きましたか。 ☆ という情況とは 別です。そもそも 闘いだとは それまで思っていませんでした。なぜ ひとは分かり合えないのか――コミュニケーションの不通―― これが 不思議で いったい ひとは どうしたのだ? と考えつづけていたという情況です。 ひとこと具体的にも つけ加えますと 日本社会では ホンネとタテマエと言います。《ホンネはそうだが それは言えない。タテマエで通すしかない》というようにでも 意志疎通を図るなら まだ ましなのではないか というようなことで説明できると思います。なぜ柔軟になれないか という問題でもあります。 《たたかい》と言うなら むしろ 信仰を得たあとのほうで 始まりました。《何もしないたたかい》と言うようになったのですが それは 要するに 《話し合い》であり 《井戸端会議》です。 (単なる挿話ですが こうでした。最初は 《神の戦士だ》と意気込むほどでした。戦争を始めるわけではないと考えなおし これを《神の国の外交官である》と位置づけ直しました。しかも もはや 外交活動すら必要がなくなった。ゆえに 春告げ鳥であると自己規定しました。――民主主義としての話し合いというたたかいは 続きます)。 では 信仰を得たとは どういう現実か。 信じるという意志の行為が なくてよいという状態になったことです。はからいを必要としない。しかも なぞの何ものかとの関係が 不思議にも どこまでも 透き通って来ていて わが心は その世界に――あたかも 心身ともに たも網で掬われたかのようにして―― 自由に動く。この心境が 以来 ずっと 続いているという事件です。 この状態ないし心境を 受け容れたという行為は 意志行為であり わがはからいです。このように 1.なぞの何ものかが 向こうからやって来る。これは わがはからいには拠らない。 2.このなぞがわが心のドアをノックするので これを聞き入れ 中に受け容れた。これは わがはからいである。 これらをまとめて 信仰の成立というのだと捉えます。 その結果 前回では ☆(ANo.14) 希望の星は むしろ 内面に入って来た ☆ と言いましたが したがって 一定の何かを目標として進むという行き方からは 自由になったということです。(自由になったということは 以前と同じように 目標を持って進んでも構わないという意味です。すべて 自由だという意味です)。 ちなみに 信仰は 主観の問題ですよ。ひとから 自己満足に過ぎないと言われても 仕方ないですし 一向に構わないという事態です。 さらに ちなみに(余計なことですが) 信仰が この主観内面から外へ出ようとするなら――つまり ひとに説明するのではなく 信ずる内容を教義として固定して それをひとに押しつけたり それによって ひとをさばいたりするなら―― それは 自殺行為です。 さづかった自由を殺すことになります。ひとの自由は 自分の自由と同じものですから。そういう自由をさづかったのですから。 つまりそのように信仰が自殺行為をした結果としての《宗教》は 悪です。おのれの善(自由)を傷つけ――教義化をとおして ちいさく縮め枠をはめ狭いものに固定化し それによって―― ひとの善(自由)を傷つけてもよいというところから出発しているわけです。信仰の自殺行為のあと その遺骸によって 宗教は 成り立っています。
お礼
参考に成りました、なんどもお付き合い頂き有り難うございました。
絶望から学んだことは、 神様が不公平だということ。 一生懸命やって、必ずしも報われるものではないこと。
お礼
>神様が不公平だということ。 なるほどそうですか、若い時、私もそうでした、それから少しずつ宗教書とか読んだりしていました、最近では少し宗教の要が判ったような気がします。まが解ってはいませんが。どうしても宗教を解るには、壮絶な苦しみがその人に降りかかる事、解る、鍵ではないかと考えますので、お聞きしてみました。 御回答有り難うございました。
No.13です。 ★ 信仰を得られましたか。 ☆ はい。与えられました。次の文章のあとに添えるとよかったですね。 ☆☆ (ANo.13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 依然として 苦しみが続きます。と見るようになったこと これが 学んだことになるのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 絶望だから 信仰体験に到ったとは 言いたくなかったのでした。絶望体験を持ったからこそ 信仰を与えられたとは見たくなかったのです。 ★ 絶望から何を学びましたか。 ☆ の問いを あえて ひとつの断片として捉えたかたちを採りました。そして たしかに 信仰を得るということは 《学んだ》というわけのものではないとも考えます。向こうからやって来たのですから。 さらに ここで 添えるとすれば 信仰を与えられたということは もうこの世界において 経験を持つそのつど 何かを学ぶというあり方から自由である地点に立たされたことだと考えます。 ★★ (No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ おこがましいですが、宗教は判っているつもりですが、私の場合は信仰まだ得ずです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とお書きですので 出しゃばって つづってみます。 学ぶことがなくなるわけでは むろん 毛頭 ありませんが 学んで学んで学び続けて歩むという視点からは 自由にされてしまったのです。修行を怠らず続けるという姿勢から自由になりました。 表現がむつかしく伝わるかどうかをおそれますが こうです。 希望の星をあおぎつつ 前へと進む そういう行き方から 自由になりました。星が 自分の内面に入ってしまったかたちになり 自分が前へ先を急ぐということがなくなり 相手に対して自分は半歩ゆづるというお節介焼きかつ要らぬお世話をするようになりました。うんぬんです。 でも これは たぶん 絶望体験とは 切り離して捉えることだとは 今も 思っています。切り離したあと その体験も 貴重なものになると考えます。 ですから 絶望から学んだこととしては 絶望がつづくということであり それは 絶望と言っている限り 絶望ではないということでした。
お礼
>希望の星をあおぎつつ 前へと進む そういう行き方から 自由になりました。 これは信仰を得た瞬間だと言えるかもしれませんが、それが出来ずに困ってる訳ですが、何故そう言う心境になったのでしょうか。刀折れ矢尽きましたか。
絶望から学んだこと それは ことばで 絶望と言っている限り 絶望ではないということでした。 絶望の虚妄なること 希望の虚妄なるに等しい。という誰だったかの文句にも出会いましたが この種の言葉をいっさい超えて 何ものかをつかみたい。どこかにたどり着きたい。と思っていましたが 絶望という言葉が浮かぶたびに まだ 絶望ではないと知りました。 だからと言って 何か 救いがあったのでもありません。わたしの場合は コミュニケーションの不通――むろん 愛の不毛や 信頼関係の破綻もありますが そもそも 話が通じるかどうかの問題―― これが いちばんの障害でした。それに対する何か解決が 見えたとか 解決への望みが 消えていないから だいじょうぶだとか そういう答えが出たのではありません。 依然として 苦しみが続きます。と見るようになったこと これが 学んだことになるのでしょうか。
お礼
>コミュニケーションの不通・そもそも 話が通じるかどうかの問題 何か精神的な障害をお持ちなんでしょうか。。 brageloneさんの文章は時として判りにくい時があります。 >苦しみが続きます。 なるほどそうですか。 brageloneさんは大変宗教的な事をご存知ですね、日頃から他の質疑をたまに拝見させて頂いてますが。信仰を得られましたか。
- hosiboshi
- ベストアンサー率9% (15/158)
望みがないなかから、一片の可能性を感じた時 それは希望でした。
お礼
絶望の先に見えたのは一片の可能性を感じましたか、人間とは、そんなものか知れませんね。 御回答有り難うございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.9 はい。宗教には私たちが、通常確認したいというような、そういう概念や次元の底というものはありません。 この四次元や五次元の中で自分確認する自分を捨てて、創造の意志と意識に即する世界においては、もう絶望という現象や経験、セットバックは存在しません。ありえません。 宗教精進の底は仰せのように深いです。しかしないのではありません。そして我らを超え、無関係ではありません。 森羅万象の根源、親しき支え手であり、もっとも身近。そのもの自体です。
お礼
>森羅万象の根源、親しき支え手であり、もっとも身近。そのもの自体です。 言ってる事は良くわかりますが、そういう心境に成るのは中々難しいですね。 言い方を変えれば自分を救うのに人智を捨てろ、人智を超えれば絶望は無いと言う事だと存じますが。 お若い時は参禅でもされたんでしょうか?それともキリスト教から信仰に入られたんでしょうか? 有り難うございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
絶望という形で来ている、自分の狭さ、勝手さ、エゴ性。 人の受け入れ、人からの学びの仕方。 中学に入ったばかりのことですが。 これでしばらくは絶望するような自分ではなく生きていたが、自分を上回る、転校生に高校で遭遇し、自信をなくした。 それも絶望に繋がるものであったが、只管ら自己性を生きることに専心することにして、己たる存在性であろうという方向を見出した。 65年以上以前。 絶望するような勝手な自分を捨てて、今は絶望はありません。
お礼
>絶望するような勝手な自分を捨てて、今は絶望はありません。 そんなもんでしょうかね。。宗教の底はもっと深いような気もしますが。。。 御回答有り難うございました。
絶望のは果てには希望が見えますね。何方かが思考の転換とおしゃってますが、自分の意思で変えなくても、宗教が解けるのは・信仰を得るのは。絶望の底だと思います(人間が素直であればですが、ちゃくすような人間は無かもしれませんが。。)。
お礼
知性(自我)が自分自身を絶望の追い詰めていると自覚し、絶対他力というこてでしょうね。 御回答有り難うございました。
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お礼
禅の鈴木大拙が、宗教はどんなに必死で学んでも解る物ではない、心に問題を抱え(解決できそうにない苦しみ)を抱え、悶え苦しみ、のたうち回り、血へど吐き、死に掛け、そこから蘇生して初めて解ると言っていましたが。 そう言う意味で絶望の底で信仰体験(信仰を得た)をお聞きするのが質問の趣旨でありました。 arayata333さんの場合は立派な宗教体験(信仰を得た)様ですね。 おこがましいですが、宗教は判っているつもりですが、私の場合は信仰まだ得ずです。 御回答有り難うございました。
補足
宗教はどんなに必死で学ん「でも」解る物ではない 宗教はどんなに必死で学「んだ、だけでは」解る物ではない のが正しいかもしれませんね。修正です。