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類友?

明らかに不正や間違いを行っている者をただすことができず、そのため被害を被った人を逆に責めることすらも厭わず、あくまで根本的には善良であり同情すべき者として、不正や間違いを行った者を庇わずにおれないということには、どのような心理があると考えられるでしょうか? 自分自身が同様の不正や間違いを行っていた、あるいは、間違いを行わせる原因をつくった者であるゆえの、一種の投影のようなものでしょうか。 あるいは本人が自覚していない、または何らかの深層心理により自覚を避けているところの盲目的な強い愛着感情から来ているものでしょうか。 事態が明らかであるにもかかわらず、全く的のはずれた理由を持ち出してまで目をそらそうとするような心理には、どういった原因が考えられるでしょうか。

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noname#82286
noname#82286
回答No.1

まあ両方だろうね、それ以外にも理由があるとは思うけど noname002さんの推測とそのままだと思う なにかしら関連性があってその関連性の方を優先してしまう心理だよね 間違えを指摘すると関係性が崩れるというある種の意図が根底下にあるんだろうね、不正や間違いを行う友達を庇うというのは不正や間違いを指摘する位で直ぐに崩れる関係性ということを意味すると思う。 僕も似た経験があるので受けた側の悔しさは並大抵ではないですよね、僕なんか殺してやろうかと思ったほどですからね、なかなか腹立たしい出来事ですよね

noname002
質問者

お礼

早速のアドバイス、有難うございます。 >間違えを指摘すると関係性が崩れるというある種の意図が根底下にあるんだろうね、不正や間違いを行う友達を庇うというのは不正や間違いを指摘する位で直ぐに崩れる関係性ということを意味すると思う。 ああ、なるほど。つまり「固い絆」の、まさに逆であると。誰かしらをターゲットにするとか、いわゆる「祭りあげ」的イベントをやることで、あるグループ内の結束に役立てなくてはならない。 脆いからこそなんですね。 その脆いものをナントカと執着するというのは、やはり本人自身の嗜好が、そこにあるからなのでしょうが、その面で、結局は同レベルの「類友」ということなのでしょうか。共依存の傾向が見受けられることも多いですね。「似た者夫婦」ってコトバもありますし(笑 >僕も似た経験があるので受けた側の悔しさは並大抵ではないですよね、僕なんか殺してやろうかと思ったほどですからね、なかなか腹立たしい出来事ですよね 回答者さまは辛い思いなさったことがあるのですね、もうだいじょうぶですか? この質問をするきっかけになったうちの一人は、実際ある人からマジ「リアルで出会ってたら殺してた」など言われまして、はたで見ていた私も思わず息を呑みました。 こういうことが積み重なっていくうちに、やがては取り返しつかない事態に襲われて怖ろしい惨めな思いを味わう日が来てしまうのでしょうか。 ある意味、自分から求めているような心理も窺えますから仕方がないのでしょうね。一種マゾヒスティックですね。 私は「殺してやる」ほどの値うちすら感じません。こんなんならずに済んだという意味で自分の身代りを引き受けてくれてるかもくらいに思ってます(笑

その他の回答 (1)

noname#132831
noname#132831
回答No.2

 釈迦に説法かも知れませんが…  質問者様に何があったのでしょうか…。  >「全く的のはずれた理由を持ち出してまで」 …そうですか、残念ながら回答者としては、「全く的外れだと(質問者様が思っている)理由を持ち出して…」と読み替えるのが妥当だと考えます。なぜなら、具体的な状況を知らない、的外れかどうかを判断できない第三者だからです。あしからず。たしかに、「○○だと思います」と書くより「○○だ」と書く方が、インパクトがありますが、同時に「私は正しい」という想いの強さを暗に感じてしまいます(行間を読み過ぎでしょうか^^;)。この質問の仕方ですと、「自分は正しい」ことが前提の回答しか集まらないと思います。典型的な“確証バイアス”(Wiki参照)に陥るパターンだと思います。  まあ、それはそれとして、質問者様のおっしゃるように、的外れな理由を後付けすることは、一般的によくある現象だと思います。ただ、このことに正しく回答することは、それほど容易ではありません。“メタ認知”について足を踏み入れる必要があります。僕は、この疑問を単なる合理化(=言い訳)として片付けるのは早計だと思っています。そもそも、《正しくわかる》とは、どういうことでしょう。私たちは物事をありのままに理解することは不可能ではないか、と僕は考えます(哲学的?)。物事を理解するには、ある種のレッテル貼り、簡略化、意味付けが不可欠であり、理解したと自覚している人は、物事をありのままに見ていないからです。たとえば、人物像などという複雑なものは、理解したと感じた時点で既に誤謬を含んでいると断言できるでしょう。  「自分が正しい」と「相手が正しい」が競合する場合、つまり「自分が正しいのなら相手が間違っている」あるいは「相手が正しいのなら自分が間違っている」という関係性のケースでは、≪相手を非難する≫あるいは≪相手から非難される≫という事態が生じると思います。こういう関係性では、「結果先にありき」で相手が悪いに決まってます。デール・カーネギーは『議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける』と結論付けています。相手も正しいが自分も正しいというWin-Winの関係を築くことが大切です。    http://www.din.or.jp/~honda/e-ai25.htm Win-Win    http://www2s.biglobe.ne.jp/~musimusi/coach18.html 自己重要感    http://homepage2.nifty.com/zunou/kannkei/2.html いじめ  そう、善いか悪いかは初めから決まっていたのです。それを言葉でどう表わすかは決まっていないうちにです。善悪の判断は左脳(言葉・理論)が決めているのではなく、感情が決めているのです。左脳は優先脳と呼ばれることがあります。右脳が感じた「言葉にならない感情的判断」を左脳が表現するのです。理屈に関しては右脳は沈黙せざるを得ません。  理屈っぽい説明をする人は、理屈で言われた時に「わかった!」と感じる人です。他の人は、自明のこととして初めからわかっています。「なんて理屈っぽいんだ!」と嗤っています。  とことん理論的に言うと、他者から非難されたからといって自分が不機嫌になる必然性はありません。では、正しければ何を言ってもいいのかということになります。確かに蓋然性はあります。他者を非難する理論がみつかったとして、何かが良くなるのでしょうか?    http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/04/4.html 他人に振り回されず生きる    http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/11/7.html 他人を変えようとしてはいけない  心理学カテの回答になっていませんね(笑)。確証バイアスを崩すためです。  

参考URL:
http://www.kitami.tv/subnote/2007/05/post_201.html
noname002
質問者

お礼

今現在、かなり真相が分かっていることもあり、仰るように >善いか悪いかは初めから決まっていた~それを言葉でどう表わすかは決まっていないうちに~善悪の判断は左脳(言葉・理論)が決めているのではなく感情が決めている まさに先方は、こういう情態だったようで、これについては、わりあい早くから私としても察しはついてました。 こうした人についてよりも(欲求や感情が勝った人、その言動など、いちいち追及するほどのフシギさなどありません) むしろ、その周囲の言動が腑に落ちなかったのです。 >他の人は自明のこととして初めからわかって ところが、こちらは、ほぼ初対面、他の人たちが「自明」としていることを共有できていたわけでは全くありません。Win-Winの関係を築くなど不可能でした。それでも私は「嗤」われなければなりませんか? 私自身、本来あまり理詰めで考えないタイプです。 >他者から非難されたからといって自分が不機嫌になる必然性はありません。 恐縮ですが、「必然性」などと理屈を仰っているのは回答者様の方ではないでしょうか。どう考えても不当に非難されたとき全く不機嫌にならない人がいたらお目にかかりたいですね。回答者様に限っては立派なお心をお持ちなのでしょうけれど私は至って凡庸ですし不機嫌を通り越しフシギですらある心境です >他者を非難する理論がみつかったとして、何かが良くなるのでしょうか したがいまして、「良くなる」かどうかについては無関係です。「非難するための理論」探しをしているのとは本来的に違うということ、むしろ納得したいがためです。 残念ながらこのたび予想外の事が多く結果的に「振り回され」もしましたが(とにかく時間的損失が大きかった。あと持病の悪化) 「他人を変えようとしては」いないのです。少くとも初期段階で私は全く逆の立場でした。それが何故か失敗したらしいですが、ということは、相手を変えようとしたほうが、かえってよかったかということになってしまいますが。私を「変えようと」したのは、これも先方です。 質問本文「同様の不正や間違いを行っていた或いは間違いを行わせる原因をつくった者」というのも元は先方から出た言葉です >心理学カテの回答になっていませんね 確証バイアスを崩すためです ということで「確証バイアス」は無関係でした。 リンク、ゆっくり拝見します。有難うございます

noname002
質問者

補足

なかなか辛口のアドバイス、有難うございます。 たくさんリンクをつけていただきましたが、まだ目を通していないまま、とりあえず返事させていただきますね。 >釈迦に説法かも知れませんが…質問者様に何があったのでしょうか…。 「釈迦に説法」なんてトンデモない(笑)心理学のシの字もわきまえない無学者です。 何かあったからこそ質問しているわけですが、その「何」というのは、当質問より数日先に投稿した質問を知っているかたなら大よそ察しはつくと思います。多少事情を御存じらしいかたが回答してくださってもいます。 しかし本質問では、実際の詳細な事情を説明したうえで、ではどうしたら?ということを問いたいのではないのです。悩み相談ではありません。ですから >具体的な状況を知らない、的外れかどうかを判断できない ままで結構なのです。「読み替え」不要です。 >「私は正しい」という想いの強さを暗に感じてしまいます 「私は正しい」という強い想い、などはありません。それは先方のほうがそうなのでしょう。はたして、どちらが正しいとか間違っていたのかの真相も実際のところ、まだ不明なのです。なので純粋な疑問です。 >「自分は正しい」ことが前提の回答しか集まらないと思います。典型的な“確証バイアス”(Wiki参照)に陥るパターンだと思います。 ですから「確証バイアス」ということも、今回は問題にしておりません。 >的外れな理由を後付けすることは一般的によくある現象だと思います。ただ、このことに正しく回答することは、それほど容易ではありません。“メタ認知”について足を踏み入れる必要があります。 「このことに正しく回答することは、それほど容易ではありません。」そうですか、こちらは、「正しい回答」なるものがあるのかどうかも存じませんで。 「メタ認知」ですか、なるほど。 そもそも私が、わけもわからないまま振り回されたあげく「相手から非難され」ましたので、先方に理由を訊ねたところ、罵倒されたというのが大まかな実際の事の経緯です。 しかもカーネギーはイザ知らず『議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける』とやらの徹底戦法をとったのは、これも相手側ですが、そのくせ、こちらの痛くもない腹を探っては私の真意を執拗に引っ張り出そうとしたわけです。 その理由を訊ねても、まるで嘲笑の口ぶりで、ますます混乱に引き込むような荒唐無稽な話の羅列、しかも、これが一番不快なことに、何度抗議しても、全く関係ない人までを次々巻き込んで、決してやめようとしなかった、そういう人を早い段階で一言の注意もせず敢えて弁護するような発言がなされたので、こうした言動の動機や背景にある心理として、どういうことが考えられるかを、お尋ねしようと思ったしだいです。お分かりいただけましたでしょうか? >僕は、この疑問を単なる合理化(=言い訳)として片付けるのは早計だと思っています。そもそも《正しくわかる》とは、どういうことでしょう。私たちは物事をありのままに理解することは不可能ではないか、と僕は考えます(哲学的?)。物事を理解するには、ある種のレッテル貼り、簡略化、意味付けが不可欠であり、理解したと自覚している人は、物事をありのままに見ていないからです。たとえば人物像などという複雑なものは、理解したと感じた時点で既に誤謬を含んでいると断言できるでしょう。 このあたりの仰ることは分かります。この部分、基本的に私も同意致します。 ですが、この御意見に反するような考えと言動を示したのもまた、相手側なのです。 私は横着者ですし、分からないことを無理して分かる必要もない、さしあたり困らないなら、そのうち分かればというのが本来です。 問題は、私が、先方や、その事情について、いっさい「分からない」=予備知識が皆目なし、ということに付け入った相手が、そのくせ、先に申し上げたように、私に関しては「レッテル貼り、簡略化、意味付け」を急激に強行しようとしたことです。 そんな虚しさなど先刻ご承知でいらっしゃるはずの高い見識をお持ちのはずのかたがです。 いかが御考えになりますか?

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