- ベストアンサー
叱りつけること
ご意見きかせてください。 知的障害者に子どもをおこるように叱ることについてどう考えますか? 普段 ほとんどの生活を管理されています。 外出時に渡されたお金の使い道が悪い ちよっとしたウソをつく 叱るようなことでもなく 静かにはなせばわかるのに 上からきつく 怒る。 職場で外出に誘われたのに 出かけすぎ と叱って いかせない。 だから 叱られたくないと神経をつかう。 うまくかけませんが 援助が大変なかたではありません。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
あくまでも私なりの考えなのですが、 その都度お金を渡す、というのは、あまり適切だとは思いません。 ある程度決まった額を前もって渡しておき、 その中で本人なりにやりくりさせる、ということこそ必要なのでは?、 と思います。 このとき、たとえば、本人が予定以上にお金を使い過ぎてしまい、 しつこく「お金がほしい!」と迫ってきたとしましょう。 すると、援助者としては、本人に非があるわけですから、 それなりにきちっと「叱る」理由を作ることもできますし、 併せて、本人に再びそのような失敗が起こらない方向にサポートする、 ということもできるのではありませんか? つまり、ただただ「その場の状況」だけで怒ったり叱ったりするよりも 見通しを立てた対応が可能になると思うのです。 同時に、本人にとっても、上手に生活してゆく力がついてくるのでは? と思います。 本人が自由に使えるお金であった以上は、 その使途に支援者が口を出し過ぎることは、 いわば職権濫用のようなものではないか?、と私は思っています。 支援者の目から見たときに 「どうしてこんなものを買うの?」「これはむだづかいでは?」などと 思ってしまったとしても、 それはあくまでも支援者がそう思っただけ(支援者の決め付け)で、 本人にとっては、当然、そうではないことが多いわけですよね? となれば、いつまで経っても、本人には自立心が育ちませんし、 支援者の顔色をいつもうかがいながら、びくびくして暮らすという そんな人間になってしまいます。 いろいろな考え方があるのでしょうけれども、 基本的には、どんなに障害が重い人であっても、 その本人なりの自己責任の下で生活していったほうが良いはずだ、 というのが、私のポリシーです。 ですから、本人がお金の使い道で1度は失敗することがあるとしても、 支援者はあえて我慢し、口を挟まないようにしてゆくべきでしょう。 但し、たとえば、悪徳業者に騙される・債務超過になってしまうなどの 明らかに本人に不利過ぎる状態になったときには、 そのときはそのときでサポートすれば足りるのでは?、と思います。 暴言になるかもしれない、ということを承知の上で言えば、 知的障害を持っている方は、ある意味において 「失敗を重ねることで自立を学習してゆくのだ」と、私は考えます。 知的障害を持つ方に対しては、 支援者がその感情の赴くままに言葉をぶつけて指導しようとしても、 逆効果になるだけです。 そうではなく、易しい言葉で丹念にじっくりと諭し、語りかければ、 本人は必ず理解できます。 「どこがまずかったのか」「なぜ私は叱られるのか」と。 そして、そのことで、支援者との心のつながり・信頼関係が増し、 よりスムーズ・効果的に自立ができてゆくのではありませんか? そうでなければ、先ほども申し上げたとおり、 本人は「その場の不利」だけを回避するために、 なかば狡猾にふるまって見え透いたウソをついてみたり、 あるいは、支援者の顔色を必要以上にうかがってびくびくしたりと、 そういうふうになってしまいますよ。 本人の「悪い部分」にだけ短絡的に目を向ける、という支援者では、 ダメだと思います。 その場の表面的なものだけを追うと「悪い部分」だけが目立ちますが、 なぜ本人がそのような反応をしているのか、 そして、そのような反応を起こさせる理由・責任が支援者にないか、と 自問自答し、改善しようとしてゆく、そんな支援者の心がけこそが 知的障害者本人を変えてゆくのだと思います。 ですから、ただただ「叱りつける」ということは、意味がありません。
その他の回答 (1)
- kurikuri_maroon
- ベストアンサー率85% (1980/2320)
元・知的障害者施設職員です。 ご質問の件ですが、「叱る」と「怒る」とを混同してしまうと、 デメリットのほうが大きくなってしまうのではないでしょうか? その人のある行為がなぜ許されないのか、 たとえば、社会的に認められるとは言いがたい行為である とかの 理由をきちんとその人にわかるように言い聞かせた上で、 半ば「諭す」ということをより前面に出し、 その上で「叱る」べきだと思います。 なぜウソをつくことがいけないのか、ウソをつくとどうなるのか、 お金を上手に使うことによってどんなメリットが増えるのか‥‥など、 その人の「うまく暮らしてゆけない部分」を補ったり修正する、 という気持ちを持って接してほしいと思います。 にもかかわらず、その場の状況だけに反応して、 こちらが半ば感情的に接してしまうと、 それは「怒り」にしか過ぎないと思います。 援助者が感情にまかせて、その感情をその人にぶつけているだけ。 そこには「その人をサポートする」「その人とともに歩む」といった 福祉的援助の基本的な考え方が欠落してしまっています。 そうならないようにしていただきたいものです。
お礼
きまったこずかいをわたされていず そのつどおかねをわたしていますが 自分では使う経験は乏しいとおもえます。 ヘルパーと外出 日帰り旅行をしたとき自分で考えて購入したものに 無駄ずかいときめつけ ほかの本人の希望する外出にいかせません。 お金の使いすぎとおこったみたいです。 無駄ずかいするほどお金はもたせてもらっていません。 また食事制限されているかたがウソをついて菓子をかわせようとした時も普通に話せばわかるのに頭にきているみたいでした。 悪質なウソはつきません。おこられるのが嫌とおびえています。 ほかにご意見あれば 寄せてください。 ありがとうございました。
お礼
私が漠然と感じていた疑問点を整理しておしえていただきありがとうございました。 本人がこのようなあつかいをうけていることを 訴えることはできません。 このような接しかたがさらにひどくならないかと危惧しています。 密室でのことなので。 なにかの時はまた相談にのってください。