• 締切済み

私の体は私ですか?

私の車は私ではないです。 私のお金も私ではないです。 私の恋人も私ではないです。 すると、 私の体も私ではないことになりますね? ならば、 私の命も私ではないことになりますよね? しかるに、 死んでも命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね?

みんなの回答

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.11

#9です。 >単純に考えれば所有物を失う事と所有者がなくなることはイコールにはならないはずだと思うのです。 :それはそうです。 ですから、「私の車」と「私の命」どちらも「所有物」として論を展開することによって発生する問題点を提起したわけです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>「命を所有しない私」に対して「無くなるとは限らない」と推定することが果たして妥当であろうか。 これはもっともな疑問ですが、それは生=私という前提があるからではないでしょうか。 ;生=私とは思いません。 草花にも生はあるでしょうが私があるとは思いません。 生>私といったところでしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >たとえば脳死状態の人にとって「私」という概念は存在しないはずです これは本人に確認しようがありませんので正確には分からないとするべきではないでしょうか。 :厳密に言えばそのとおりでしょうね。 しかし、「私の体は私ですか?」について話をする際には、ここも重要な判断のポイントになるでしょう。 「どう思うか」ということを示すべきで、「どちらかわからないということ」を前提にしていては、そこで話が終わってしまいます。 『脳死状態の人にとっても「私」という概念は存在する』を前提とすれば、「私の体は私ではない」となるでしょうし、 『脳死状態の人にとっては「私」という概念は存在しない』を前提とすれば、「私の体は私である」となるでしょうから。  

shift-2007
質問者

お礼

なるほど、結局は私とは何かに行き着くのですね。 とりあえず今の私の理解度ではこの質問にある程度の「私」でよしといたします。 ご回答ありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.10

<<そうですね。そうかもしれませんね。>> 論理的に国語的にいうなら全ての起こるものは変化生滅し続け、「変わらない私」と言うものは成り立たないと言う論。これは何か強い信仰などが無ければなんとなく理解できますよね。 <<しかし、勘違いだとしてもそれが私を主張しているのは事実ですので、なぜそれが存在するのか。>> 無知ゆえに、渇愛(もっと欲しいという原初的な心)・パパンチャ(捏造機能)を働かせてしまうことが問題だと言われています。データを六根から得てそこからデータを捏造してそこに「変わらない私」が入ってくる。 論理的にも実際的にも無いと頭では解るのだが心から理解していない。主張してくる。ほとんどその変わらない私と言う錯覚から、受け取るデータに対して、嫌だと怒りを発し、好ましい欲しいと貪りを発し、刺激を感じずつまらないと・認識しないと無知を発する。現実の現象は避けることが出来ずいやおうなしにやってくるもの。思い道理にはならない。その現実との軋轢によって、悩み苦しみなどが生じてくる。そしてそれは理性を圧迫し、より苦しむ方向に行く危険をはらんでいる。 現在の状態はこのようなものなのではないかと思っています。 そのように観た人は、今をありのままに観ることで「パパンチャ・捏造」を破り「私と言う錯覚」を破ろうと精進していますね。 「私」を破り、「煩悩・悩み苦しみ」を滅し、その果てに渇愛を破ったなら、生命としての働きを滅して、心が回転する原因を滅して、死後輪廻することも無く涅槃に至り生命を乗り越えると、滅することが出来るといわれています。 <<(主張するにいたったのか)が不思議ですね。やはりそれなりの理由があるのでしょうね。>> ここは生命の始まりについての考察であるならば成り立たない論ではないかと言う論もありますよ。 全ては変化生滅していることは理解していると思います。そこには原因と結果がありますね。全ての現象は原因であり結果ですよね。ならば遡っていっても始まりが成り立たないと言うことになりますね。始まりが有るといったらその原因は?と言うことになって成り立ちませんね。 今無知ゆえに「変わらない私」と錯覚している。その原因はこれではないか。これを破ればその原因は破れるのではないか。間でが考察の限界と感じます。 これ以前に無知でない智慧の状態から無知になった原因と言うことも成り立ちませんしね。無知になるなら智慧の状態でもありませんしね。 「無始(始まりが成り立たないほどの)の過去から無知な状態が延々と続いて今に至る。この原因はこれで、この原因をこうすれば原因が滅する。それが滅すれば悩み苦しみも滅する。」 これ以上の考察はちょっと無理があると私は思いました。 <<死んでも命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね?>> 心の回転する原因を滅しない限り、死んだらまた生まれると考えてます。その際記憶を司る機能などをついでいけるかは解りません。し、「変わらない私と言う錯覚」自体も瞬間瞬間変化消滅しているのが現状だと思います。また新しい「変わらない私と言う錯覚」が生まれるだけで、現在持っている「変わらない私と言う錯覚」が生まれるわけではないと思います。むしろ物質的に縛られていたこの環境が大きく変わるのですから「変わらない私と言う錯覚」も大きく変わると憶測できます。それは今もっている「変わらない私と言う錯覚」とは大きくずれたものとなるでしょう。 今現在も「変わらない私と言う錯覚」自体は大きく変化消滅しているのですから。この生命としての束縛を糧に六根からデータを得て捏造して、何とかうまくつながってるように見えるパラパラ漫画の如く無くなって新たになっているのですから。新たな環境に至れば大きなずれも生じるでしょう。そこには新たな「変わらない私と言う錯覚」が生まれるでしょう。 私の見解が何かお役に立てば幸いです。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~

shift-2007
質問者

お礼

国語のカテゴリからだいぶ外れてしまいましたが、 参考になりました。もう少し思索を深めたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

私の車は私ではないです。が私の所有物です。 私のお金も私ではないです。が私の所有物です。 私の恋人も私ではないです。が私の所有物です。 という前提で述べられていることになりますよね。 すると、 >私の体も私ではないことになりますね? :に対しては、 「そう思います。ですが、私の所有物です。」 と答えることが可能になると思います。 ならば、 >私の命も私ではないことになりますよね? :に対しても、 「そう思います。ですが、私の所有物です。」 と答えることが可能になるはずです。 そこで、 >死んで命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね? :に対してですが、 これまでの論理展開上、 「私の命」は「私の所有物」なわけですから、「死んで命が無くなった」とすれば、「私の所有物としての命」も無くなるばですす。 そうすると、「命を所有しない私」に対して「無くなるとは限らない」と推定することが果たして妥当であろうか。 という問題が浮上することになりますから、国語的に解釈しようとするのは無理があるのではないでしょうか。 元々、「私」に対する定義が曖昧なままの論理展開なので、その点でも無理があるような気がします。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「私」というのは「自己に対する認識」だと思います。 たとえば脳死状態の人にとって「私」という概念は存在しないはずです。 死ぬということ=命が無くなること=私と認識できなくなること=私が無くなること。 と単純に思います。  

shift-2007
質問者

お礼

単純に考えれば所有物を失う事と所有者がなくなることはイコールにはならないはずだと思うのです。 >「命を所有しない私」に対して「無くなるとは限らない」と推定することが果たして妥当であろうか。 これはもっともな疑問ですが、それは生=私という前提があるからではないでしょうか。 >たとえば脳死状態の人にとって「私」という概念は存在しないはずです これは本人に確認しようがありませんので正確には分からないとするべきではないでしょうか。 生=私とするなら脳死状態という生があるのに「私」がないというのは少し乱暴に思います。それならば逆に生がなくても「私」はあるともいえるのではないでしょうか。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.8

No.3の回答者です。 まず、 お礼の欄はお礼を書きましょう。 ここまでの回答者さん、全員かわいそうです。 「虚数は哲学で言う神みたいなものですか」や「命とはなんですか」のときは、書かれていたじゃないですか。 さて、 >>> >体 ⊂ あなた  (体はあなたに属する、含まれる) >命 ⊂ あなた  (命はあなたに属する、含まれる) >は正しいです。 この部分が正しくないとしたらどうでしょうか。 正しくないとすれば、たとえば、 (失礼な例で申し訳ありませんが) 仮に、あなたが手にナイフを持って人を殺したとすれば、あなたが殺人罪に問われるのではなく、あなたの手に対するあなたの監督責任、若しくは、手に対する殺人教唆の罪になるということで、刑法を書き直さないといけないですね。 また、こういう見方もあります。 イチローがNHKの番組(たしか、「プロフェッショナル・仕事の流儀」の特番だったと思います)で、こんなことを言っていました。 (文章は不正確ですが、こんな感じの発言でした。) 「僕は、他の人のグラブや他の人のバットに触りたくないんですよ。  感覚が変わってしまうのが怖いんです。  バットを持ったとき、バットの先までが自分の手の一部のようになるんです。」 それに対して、茂木健一郎氏が、 「そういうの、脳科学的にあるんですよ!」 と言っていました。 事故で片腕を無くされた人が、無いはずの腕の痛みを訴えることがあるそうなので、 それと似た話なのかなあと思いました。 現実にある自分の体、体ではないバット、そして、すでに無くなっているはずの片腕。 これらに共通するのは、脳(や神経)と、それ以外のものとを分けて考えていることです。 したがって、 ご質問文の「私」を、すべて「私の脳(や神経)」のことであると解釈するのも、一つの考え方ではないかと思います。 以上、ご参考になりましたら。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 法律に関して道義的な理屈は分かっているつもりですが、たとえば私は細胞内のミトコンドリアを制御してはいません。心臓の心拍数もそうです。体は体の本能によって生きているといえないでしょうか。そういう意味で体は私に属していないと思うのです。脳科学はいまだ脳内に意識を見つけられないと聞きますので必ずしも脳=私とはいえないのではないでしょうか。

  • ms_7
  • ベストアンサー率17% (5/28)
回答No.7

この論理展開だと、最後の「しかるに」は「しかれば」の書き間違えのように思われます。 それはともかく、 >>> 死んでも命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね? これは国語の質問なのですか?

shift-2007
質問者

お礼

>この論理展開だと、最後の「しかるに」は「しかれば」の書き間違えのように思われます。 おお、そういう言葉を使うのですね。勉強になります。 >これは国語の質問なのですか? 哲学的な回答もあるでしょうが、国語的に考えて間違いがないかを確認したかったのです。国語として間違っているならお話にならないでしょうから。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.6

もうちょっと深く見ても面白いかもしれません。 そもそも「私」とは何?と 一般的に私と言っているものについて考えて見ましょう。 肉体がありますね。 これは変化生滅するものですね。 手・足・胴体?どれも私であると言えませんね。 その肉体などを通じて五感意思の六根の認識がありますね。 これは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 六根による苦・楽・不苦不楽の感覚が生まれますね。 これらは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 苦・楽・不苦不楽の感覚によって 怒り欲無知の感情が生まれることがありますね これらは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 慈悲喜捨などの感情も生まれることがありますね これらは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 今までの経験から何かを見分ける能力がありますね これらは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 何かしたいという原初的な意思がありますね。 これらは変化生滅するものですね。 どれか一つをもって私といえませんね。 常に変化生滅するものは私とはいえませんね。 私達が知ることの出来るものは変化するもので、変化しないものは知ることも出来ませんし、関係を持つことも出来ませんね(関係を持ったら変化しないものでなくなるから)。それはないと言っても問題ありませんね。 全ての生じるものは滅する性質を持っていますね。 全てのものは変化生滅するものと言えるのではないでしょうか。 結局「私」と言うものは存在するものでなく、我々の錯覚によってこの一つの生命のシステムの中に「あると勘違いしている」。というのが理性的な思索だと私は思います。 しかし行為の責任主体はこの一つの生命のシステムの中に有ると思います。 僕の見解が何かお役に立てば幸いです。

shift-2007
質問者

お礼

そうですね。そうかもしれませんね。 しかし、勘違いだとしてもそれが私を主張しているのは事実ですので、なぜそれが存在するのか(主張するにいたったのか)が不思議ですね。やはりそれなりの理由があるのでしょうね。

  • yambejp
  • ベストアンサー率51% (3827/7415)
回答No.5

私の車やお金や恋人は、他人のモノになるかもしれませんが、 私の体は他人のものにはなりません。 いや、死後臓器提供で他人のものになる場合もないとはいえません。 その場合、臓器は私のものではなく他人のものになり、 私の体は私ではなくなります。 さて、私の命は他人のものになるのでしょうか?

shift-2007
質問者

お礼

臓器移植が可能という時点で命の移転が出来ることを意味していないでしょうか。 臓器は無数の細胞から出来ており、それぞれが命を持っているのですから。

回答No.4

あなたの体はあなた自身ではありません。 あなたがあなた専用の自家用車を所有していてもあなたの自家用車があなた自身ではないように、あなたの体は、あなたが占有はしていますし、使用権もあなただけにありますが、あなたの所有物ではありません。 あなたの体は、神様が、あなたがこの世暮らしをするために、あなたに貸し与えた物であって、所有者は万物の創造者である全治全能の神様であり、所有権も神様にあります。 ですから、あなたは、勝手に自殺して、神様の所有物を破棄、毀損することは許されませんし、ピアスしたり刺青をしたりなど、神様の所有物である体に勝手に造形を施すことも許されません。 また、喫煙行為や、薬物依存なども、神様の御心にそむく邪悪行為なので絶対にしてはいけません。 いずれにしても、人間の肉体は、神様からの借り物なので、善管注意義務を持って、大事にしなければなりません。 健全な食生活、をすることによって、体の健康を維持することは、神様に対する義務です。 おろかな無神論者どもや、唯物論者どもは、肉体が死んだらそれで終わりだと思って、この世でむさぼりと悪行の限りを尽くしていますが、この世で生前、神様、イエスキリスト様久保徹様の御心にそむいて、悪を行ったものや、神の存在を否定し続けた者は、来世地獄にお落ちます! ゴキブリやハエに生まれ変わったり、よしんば人間に生まれ変わったとしても、小児麻痺になって一生苦しんだり、盲目や聾唖になったり、飢餓難民になったりで一生苦しみつづけます! だから、常日頃から正しい生き方をしていなければならないのです! 人間の肉体が、神様からの借り物であるのと同様、地球も、当然神様の所有物ですし、人間は、この宇宙船地球号という惑星の、居住区に押すまわさせていただいているに過ぎません! おろかな無神論者どもや、唯物論者どもは、人間が自然を支配しているかのように大それた勘違いをしていますが、とんでもない不遜なことです! 自然の神様が人間を含めたあらゆる生命体を、支配しているのです。 おろかな、資本主義者どもは、土地を、自分たちの所有物のように勘違いしていますが、土地も神様からの借り物です。国有地ならぬ神有地です! 一部の不動産屋やゴウツク家主どもが、土地を個人所有する主張をするのはとんでもない間違いです! 土地は、善良なる自然界の生物、みんなのものであり、みんなで分かち合わなければなりません!

shift-2007
質問者

お礼

恐れ入りました。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.3

こんばんは。 論理には飛躍があるとも言えますし、論理が不十分とも言えます。 「われ思う、ゆえにわれあり。」 という格言がありますが、部分的には通ずるところはありますけれども、一致はしていないです。 たしかに、車、お金、恋人は、あなたではありません。 そして、 体 = あなた   命 = あなた でもありません。 しかし、 体 ⊂ あなた  (体はあなたに属する、含まれる) 命 ⊂ あなた  (命はあなたに属する、含まれる) は正しいです。 東京都は日本の首都です。 大阪市は日本の市です。 東京 ⊂ 日本 大阪 ⊂ 日本 東京や大阪は日本ではない、ということにはなりません。 >>>しかるに、死んでも命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね? ご質問文にある論理からの帰結であるということに関しては、はっきり誤りです。 ただし、 死んでも魂が残る(=周囲の人の思い出になる)というのは、一つの考え方です。 以上、ご参考になりましたら。

shift-2007
質問者

お礼

>体 ⊂ あなた  (体はあなたに属する、含まれる) >命 ⊂ あなた  (命はあなたに属する、含まれる) >は正しいです。 この部分が正しくないとしたらどうでしょうか。 私の構成要素としての体ではなく、単に所有権としての「私の体」ではないかと。

  • looksno1
  • ベストアンサー率28% (238/821)
回答No.2

言葉遊びですね。 おっしやる論法でいけばそのとおりです。 しかし、 <<私の命も私ではないことになりますよね 命は私の構成要素の一部分であるといえます。 ですから結論の <<死んでも命は無くなるかも知れませんが、私が無くなるとは限りませんね は、論理的に誤りです。 楽しい遊びでしたでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

>命は私の構成要素の一部分であるといえます。 指が手の構成要素なら一本くらいなくなっても手が無くなるとはいえないのではないかと。

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