N0.10です。個人的に気がかりな点がありましたで、死刑についてちょっとだけ・・・
およそ人は自身の幸福を追求しつつ生きて行くことが認められています。自然権や自由権などと称されますが、ご存じのようにこの権利は、本来国家の存在の有無に関わらず自明として存在するものです。
ですが、人は他人の自由、権利を不当に害してまで自分の権利・幸福を追求する事は認められていません。にもかかわらず、人は時として他人の自由、権利を侵害する過ちを犯してしまいます。
このため、人はこの自由、権利を保護するために国家を通じて実効的な仕組みを確立しました。
憲法や法律をはじめとした強制的な約束事である法規範と、それに従って構成される刑事機構がそれです。
かくして、法益(自由、権利)を不当に侵害した者は犯罪者として制裁を受けることとなります(ここで注意すべき点は、この制裁は、犯罪者が国家の構成員でないにも関わらず発動されることです(刑法1条(属地主義)))。
そして、時にはその制裁として死刑が選択されることもあるでしょう。
制裁としての刑罰の存在は、自由、権利を保護するための手段としてその意義を認めることができると考えます。
ですが、死刑についてはまた別に考えなければなりません。死刑の選択が、制裁の側面はともかくとして、理由の如何を問わず人の前国家的権利であるはずの「生きる自由、権利」を恒久的に奪うことになるからです(この部分は重要です)。
それは、国家は私人に対しては殺人を禁止(刑法199条)しておきながら、その国家は国家による殺人を認める(同35条)という自己矛盾(?)を生じさせることにもつながります。
また、百叩きでたとえられる身体刑等残虐な刑罰が否定されている(憲法18,31,36条)にもかからず、死刑が認められている点もあわせて考慮しなければなりません。
ではなぜ死刑が存在しうるのでしょうか。 国家が人の生殺与奪の権利を握る根拠は何なのでしょうか。
なぜ国家は刑罰という手続きによって人を殺すことができるのでしょうか。
---------------------------------------------
・・・と、ここまでは私が述べるまでもなくこれがご質問の趣旨であったと思われます。
これに対して私などが安易に意見することはためらわれますが、私はこの死刑の存在する根拠を「正義」に求めます。正直に白状しますが、この「正義」、実は先に挙げました植松先生の言葉を借りています。(どうでもいいことですが私はこの正義の名において死刑を肯定しています。)
ところが困ったことに、この植松先生(や団藤先生)の能力をもってしても、死刑の存在に対する明確な解答は得られないようです。一方的な正義だけでは語り尽くせないということなのでしょう。
では、果たして(少なくとも私のような)初学者にこの答えを導き出すことができるでしょうか。
この点から、この問題を考えるに当たっては、まずそのヒントを得るために過去の蓄積に当たることが不可欠ではないかと考えて先の書き込みをさせていただきました。私はこの程度のアドバイスしかできません。ごめんなさい。
ちなみにヨーロッパでは、多くの国において死刑が廃止されているようです。
参考として、死刑廃止条約のリンクを張っておきます。
お礼
ううむぅ。 法実証主義。「悪法もまた法」(ソクラテス?) …。多分法のことを勉強している人には基本的なことだと思うのですが…。やはり、門外漢にはちょっとわかりにくくなってきました。 やっぱり、一つ一つの語の理解が足りないと、物事を正確に 理解することがしずらくなりますね。 ただ、いろいろな議論を見ているととても面白いですが。 回答ありがとうございました。