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エレン G ホワイトの信憑性について
- エレン G ホワイト(EGW)についてお聞かせください。SDAで預言者とされているEGWの信憑性について疑問を抱いています。
- 私はSDAの施設でEGWの著書を学んでいますが、預言解釈には疑問を感じています。他の生徒や施設のスタッフも同様です。
- EGWには熱心さや洞察力があるが、間違いもあるのではないかと考えています。信じるかどうかについて、賛否両方の意見をお聞かせください。
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ANO 13 です 私の質問にお答えを頂きながらお返事が遅くなって申し訳けありませんでした。 1 SDAの「信仰の大要」はご覧になった事がありますか? 18.預言の賜物があります。 日本語のサイトでも英語のサイトでも見る事が出来ます。 その中に 「主の使者としての彼女の著書は、つねに信頼のおける真理のみなもとであって」 ”As the Lord's messenger, her writings are a continuing and authoritative source of truth ” とあります。 即ちエレン・G・ホワイトを“主”の使者と認めているわけです。 2 では彼女の著書は全てエレン・G・ホワイトが書いたものでしょうか? これは予測されるより多くの部分が、代作者によって書かれた物であります。 (アドベンチストライフ誌を読まれましたか質問させて頂いたのはアドベンチストライフ誌上で 多くのSDAの牧師がこの事を認めて居るからです。) “主”の使者=エレン・G・ホワイトであればその著作は“主”の御心に従ったものでなければ なりません。 それが代作者がいるのはエレン・G・ホワイトの著作の信憑性が疑われます。 3 又エレン・G・ホワイトは神の霊感のによって書物を書いたと言われてますが、かなりの書物が 他の書物からの引用(時にはまったくのコピーもある)という事実です。 これもアドベンチストライフ誌を15年ぐらい前から読まれるとはっきり判るでしょう。 各時代の希望は1898年に書かれています。その各時代の希望と全く良く似た本が、それ以前に書かれています。 カニンガム・ゲイキー著「キリストの生涯と言葉」が1877年 アルフレッド・エデルシャイム作の 「メシアなるキリストの時代と生涯」が1883年に発行されてます。 英語のお勉強中との事ですので比べて読まれると参考になるでしょう。 4 英語読む事ができられるとの事ですので 先ず 元SDAの牧師 Walter T. Rea の http://www.ellenwhiteexposed.com/egw17.htm や同じくSDA元牧師の J. Mark Martin の http://www.exadventist.com/ をご覧になり 祈りの中で精霊様の導きをお求めになったら如何でしょうか? その後ご感想をお待ちしてます。 私も同じ疑問を持ち同じ過程を通りましたのでこの後の結論も導き出しているつもりです。 正しいか否かは判っていませんが。。。。。。
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- kigurumi
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預言と予言って違いますよね。 預言とは、神からの言葉を賜った時言いますよね。 例えばモーセは神から10の戒めの法律を授かったので、モーセは預言者とされますよね。 予言者は、未来を予知する人のこと。 この違い わかりますよね? で、ジャンル・ダルクは神から言葉を授かったと言った。 神から言葉を授かったのであれば、預言者になりますよね。 キリスト教会は「本当に神の声だったと確信できるか」とジャンヌに問いただした。 ジャンヌは神の声だったと断言できず、処刑された。 妻を帽子と思ってかぶろうとした男、目の前にデズニーのキャラクターが出て来て来る男、自分の意思に全く関係なく動き、時には自分の腕が自分の首を絞めてしまう男。 皆、脳神経学者のオリバー・サックスが関わった患者さんたち。 脳障害が原因。 ヒルデガルド・フォン・ビンゲン。 彼女は神が降臨したとき見たビジョンを絵に残していた。 その絵を見たサックスは、偏頭痛の前触れの発作を起こした患者の中に同じビジョンを見る人がいるが、ヒルデガルドの絵は、まさにそれだとと気づいた。 http://72.14.235.104/search?q=cache:U4vxk0ORCAoJ:www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%97%85%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93-%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%87%91%E6%BE%A4-%E6%B2%BB/dp/4525381426+%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%80%80%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93&hl=ja&ct=clnk&cd=3 いますねぇ ジャンヌ・ダルク。 http://72.14.235.104/search?q=cache:-6WGxqXDhPkJ:blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/39df0e072fc51e78a0d34b2064c96add+%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%80%80%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93&hl=ja&ct=clnk&cd=7 なんだって? 側頭葉てんかんにより、宗教が生まれる? 信仰が誕生する? えーー まさかーー ↓ http://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%B9%BD%E9%9C%8A-%E8%A7%92%E5%B7%9D21%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%8F%A2%E6%9B%B8-V-S-%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4047913200 わあ 本当だ。 さて、側頭葉てんかんを起こした女性患者はこう言う。 「1000回分のエクスタシーが一度に起こったようだ」と。 エレン・G・ホワイトに1000回分のエクスタシーが一気に来たのは、、、、 http://homepage3.nifty.com/newSDA/egwhite.htm 12歳の時? このマンモス快楽を、彼女は神だと思った????? ペトロだって異言とか体験した? じゃあ ペトロも側頭葉てんかん患者だったのか? 男性患者は、1000回分のエクスタシーを発作の時には感じないそうです。 第一、ペトロって実在の人物じゃなく、ペニスの比喩ですから。 それに異言の解釈は、ディアスポラして、いろいろな国の言葉を話すイスラエルの民が、一同に集まり、話す言葉は違えど、同じイスラエルの血を引く兄弟だと改めて感じたってことをこの箇所で言っているわけでしょ? 炎は穢れを清めると古代からされており、散らばって穢れたイスラエル人が清められたって描写なわけでしょ? EGWの解釈もぶっとんでいるが、私の解釈もぶっとんでる? いや、理屈でいけば、(普通に考えれば) そうでしょ? イエスもてんかん患者? イエスって実在していない、、、というか 太陽のことでしょ? 地球は12の星座の方向を向くわけでしょ? 今はうお座の方角を地軸が向いていて、やがて水がめ座になるわけでしょ? イエスの弟子が「時代の終わり」のことについてイエスに聞いたら、イエスは次は水がめ座の時代って答えますでしょ? 地球が爆発したり、神が人類を滅ぼすことで終わるのではなく、うお座の時代が終わるってだけの話しでしょ? で、うお座の方向からもうみずがめ座の方向にかなり近づいているわけで、完全にみずがめ座を地球が指したところで、別段 どうってことない。 おヒツジ座の時代が終わって、イエスの時代 すなわちうお座になったとき、地球滅んでないでしょ? 人類 滅亡してないし、地球の運行がいきなり太陽をグルグル回るのをやめて、銀河系のかなたにぶっとんで、暗い・・・・ってことにもなっていないでしょ? モーセは預言者? じゃあ その神ってエジプトの神のこと? モーセが神から授かった法ってのは、全部 エジプトの死者の書からもらっているわけでしょ? じゃあ モーセの神はエジプトの神ってことになる。 エジプトでは、人が死ぬと、40.。。いくつもの事について、「私はやっていません」と言うとされる。 罪をてんびんにかけるとされる。 ユダヤ人の祈祷の言葉は「我らの神はアテンなり」と言っている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%B3 『アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形とする異説[1]も存在する。』 異説? どうでしょう。 翻訳ミスで、アテンとするところを間違えたので、アテンになっていないだけじゃないか と。 『ツタンカーメン王の時代にアメン信仰に戻り、アテン信仰は消滅した。』 アメン信仰に戻った? ええ、 アメンって唱えていますもんね。今でもユダヤ教もキリスト教も。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3 『春と秋の特定の日に1回ずつ、奥まで届く太陽の光によって照らし出されるようにするために、天文学的計算に基づいた配置となっている。』 はい その通り。 太陽の具象化のイエスの復活も春分の日。 当時はイエスが磔刑に処されることを表す。 12月25日のこと。 で、3日間、地上ギリギリにぴたっと停止し、それ以降 上昇する。 イエスの復活 つまり 太陽の復活のこと。 というわけで、質問ではエレンさんの信憑性についてですが、私は、キリスト教の言うことの信憑性について疑問を持っています。 うお座の時代が終わると、地球に神がやってきて、人々を滅亡させたりなど し な い。 新しい時代 みずがめ座の時代に入ったところで、地球は太陽のまわりを相変わらずグルグル今までまわってたわけで これからも回る。 一気に地軸がずれるのではなく、徐々になので、どんかんな人間は、毎日徐々にうお座からみずがめ座に地軸の方角がずれいっていることすら、体感できない。 1つの時代の終わりと新しい時代に始まりの差を、人間は実感できない。 そりゃあ 2千年前に比べたら、天候が違っているが、徐々に変化していっているので、「うわーー 時代が変わった途端 天候が激変して、砂漠がいきなり緑になり、海の水が消えた 」とはならない。 北極が無くなったり、南極がハワイ並みの気候になったりなどしない。 天空の星の運行から未来を読み取ろうと古代の人々はしたようです。 未来を事前に知ろうとし、こうなる と予測することは、予言であって、預言じゃないですよね。
補足
ご回答ありがとうございます。 しかしながら、この質問は正統派キリスト教の教えを信じている前提でされています。 もちろん、様々な角度からのご意見をお待ちしておりますが、基本的にはキリスト信者 の立場から答えて頂きたく存じます。 それから、これから答えてくださる方もこのページを読む事になりますが、正直、今までのご意見はそう言った誠意の方々の読む気を削ぐ様な内容でもある事はお気づきでしょうか。 質問者はまじめに質問をしています。 ご回答を下さった方がまじめで誠実な気からご回答下さったのであれば大変失礼な事を言っている事になりますが、どうかこの辺りの事情を考慮した上で、あくまでも誠実にお答え頂きます様お願い申し上げます。
brageloneです。 説得をあきらめました。
ヰキぺディア(→セブンスデー・アドベンチスト教会http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A)によりますと ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ キリストの十字架による贖罪死を信じる信仰によって救われるという立場をとり、十戒を現在も守るべきものと解釈する。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これが まづ最初の内容紹介です。 ★ 十字架による贖罪死を信じる ☆ これが もしEGW自身の表現に忠実であるとしますと まったくの間違いです。これは 経験的な思惟であるかも知れませんが 《信仰》ではありません。 《十字架上の死》 これは そのまま 経験事実です。 《贖罪死》 つまり《死》は 上のようでありそれを除くと 《贖罪》というものは 経験思想です。イエスの死を解釈した考えです。 むろん パウロを初めとして そういう解釈をしている箇所がありますが 思想も やはり 経験事実なのです。 したがって わたしたちは イエスがキリストであること そして そのキリストの神を信じるのではあっても 経験的な歴史事実や思惟の成果を 信じるのではありません。それは 考えるのです。行為事実が 神ではないのと同じように 精神のはたらきの結果としての行為事実を つまり要するに精神を 神とするわけには行きません。 ★ 十戒を現在も守るべきものと解釈する。 ☆ 律法の一点一画をも 実現させるように 信仰によって 生きるのは キリスト者ですが その方針と この解釈内容とは 似ても似つかない隔たりがあります。 律法の規範を そもそも 人間の能力行為として その努力によって 守ることが出来ると考えること このこと自体が 間違っています。努力はしますが あくまで 信仰の力のもとにです。そうでなければ イエスの死は 何だったかということになります。再び 十字架から かれを引きずり降ろそうとしたいのでしょうか。あるいは もう一度 十字架に架けたいとでも 思っているのでしょうか。 信仰のちからを言わないとすれば それは キリスト者の発言ではありません。 この二点 以上のように 批判します。
補足
ご回答ありがとうございます。 ただ、内容が少々解りづらく、どう受け取ったものか迷います。 宜しければ、もう少し解りやすくお答え頂けますでしょうか。 それから、私は、預言者と言えども間違いを犯す事はあると考えています。 例えば、彼女の本はセブンスデーアドベンティスト教会では”預言書”として取り扱われており、聖書とほぼ同等の権威を持ってさえいます。 しかしながら、その中に、私にとってはこれは「間違い」または「勘違い、或は方便にもほどがある」と思う箇所がいくつもあります。 私自身も、天からメッセージを受け取った事のある人間ですが、だからと言って私の言葉や思想が必ずしも常に正しいとは言えない事を良く承知しているつもりです。 もし私が天からのメッセージを受けた当時、本を書く人間だったとしたら、きっと私はそれを書いたでしょう。しかし、それはその本全体が天からのメッセージのみで仕上げられるという意味ではありません。中には私の個人的な意見や見解が入る可能性は大きくある訳です。 つまり、何かしらの間違いを指摘できたからとて、それをもって彼女を偽預言者だと判断するのは少々早計だと考える訳です。 著書中に1カ所や2カ所誤りが合ったとしても、それをもって偽預言者と判断するのはどうかと思うのです。 誠実に、慎重に、細心の注意をもってのご指摘をお願い申し上げます。 ※※※ ご存知かもしれませんが、彼女の著書は膨大な量に上ります。 その中でも最も良いとされている5冊の本の内、1冊と半分を読んだ訳ですが、その本でさえ、私にとっては”小説を書くのが好きなクリスチャンだったらこの位は書けるのではないかな”というのが正直な感想です。 私にとっては預言書というよりは小説に見えるのです。もちろん、鋭い洞察や敬虔な信仰姿勢を持っているとは思いますが。。。
No.1です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかしながら、仰っている程度の事は当然の事として踏まえた上での質問でございます。 言葉足らずで申し訳ありませんでしたが、質問文があまりにも長くなってしまうのであえて省かせて頂いたのです。 教派間での党派心争いをするつもりは全くございません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということでしたら わたしの考えでは――あらゆる教会は自己解体すべきというものですが そこまでは控えるとしても―― あらゆる教派は すべて 解消するということにならなければおかしいということなのですが? 解釈に 違いが 出るのは 仕方無いと考えます。けれども すべては その解釈の違いにかかわらず その意味で教派を解消したかたちで キリスト者であるという一つの立ち場に立つということ これを言っているのですが? この姿勢が現われていなければ パウロ派やアポロ派を作っていると見なします。それは キリスト者の態度ではないという意味です。 《わたしの羊を養いなさい》との声を聞いて 牧者が 次から次へと現われても それは ふつうのことです。指導者がいても かまわないわけです。ただし 党派をつくるのが 目的ではないはづです。そのことが 徹底していなければ もうそれは キリスト者だとは言えないと考えます。
補足
再度ご回答ありがとうございます。 私はカトリックですが、カトリックの中にも、日頃よくお邪魔しているセブンスデーアドベンティスト教会の中にも「おかしいな」と思う教義はあります。 この意味で、私は「この教派が正しい」とか、「あの教派の教えが最も正確だ」等の考えそのものにあまり重きを置いていません。 もし、真性のクリスチャン(教派ではなく個人という意味)であれば、どの教派に属していても、その教派独自の体質、或は教義等に於いて、夫々の困難さ、簡単さに対面する筈だからです。 私は、教派よりもむしろ個人を見ます。 信仰は教派ではなく、個人の問題だからです。そうでしょう? つまり、私にとって「◯○派」と言う意味そのものが無いのです。 しかしながら、私たちは肉体をもち、3次元の空間という限られた世界の住民でもあります。 そうした状況下で、「個人で活動」というのはあまりにも現実離れしすぎている様に思うのです。 その場合、いずれにせよ、どこかの教派、或は主義主張をもった”団体”に属する事になるでしょう。 個人的な理想としてはどの教派も不完全な教えを掲げていると思っています。それでも、こと”活動する”という部分に重点を置く場合、教義や教派の姿勢は無視できない問題でしょう。 もし私がセブンスデーアドベンティスト教会に属して活動するとしたら、E.G ホワイトを預言者だと宣言すべき立場に立つ事になりますが、今の私がそれを出来るとは到底思えません。 毎週教会に通い、椅子に座って説教を聞き、友達や知人との会話を楽しむだけのクリスチャン生活ならどの教派でも問題はないでしょう。 しかしながら、活動となると話は別です。 自分の口で宣言する事は、神がお聞きになっているからです。 知らない事を知っているとは言えませんし、信じていないものを信じているとも言えません。 そうでしょう? これらの事から、No.1さんの仰る、「自己解体」とか「解消」という表現に私は同意していると言えるでしょうか? 質問文の中に、今回ここに書いた事を書いていれば、もう少しスムースに話が進んだかも知れませんね。 ご協力感謝致します。 引き続き、私の質問に対する回答をお待ち申し上げます。 ありがとうございました。
次のパウロの言葉に忠実であるでしょうか? ▲ 《コリント前書》 ~~~~~~~~~~~~~~~ 3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。 3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。 3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。 3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。 3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。 3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、 3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。 3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。 4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どの宗派・教団も 忠実ではないと言わざるを得なにではないでしょうか。
補足
ご回答、ありがとうございます。 しかしながら、仰っている程度の事は当然の事として踏まえた上での質問でございます。 言葉足らずで申し訳ありませんでしたが、質問文があまりにも長くなってしまうのであえて省かせて頂いたのです。 教派間での党派心争いをするつもりは全くございません。 ある程度の常識は踏まえた上での質問である事をご理解頂いた上で改めてのご回答をお待ちしております。 最後に、ご回答真にありがとうございました。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 お教え頂いたWEBサイトを見ました。 今私が居る施設は、ネットを使用できる時間が少ない事、他にも色々とする事があり、比較的忙しくしている事等から、ほんの一部を読んだ程度に過ぎませんが、あまり回答が遅くなってもこの件を忘れられてしまいますので、この辺りで失礼致します。 代作については、こちらの施設の先生も認めていますが、引用にしろ、代筆にしろ、最終的にEGWの確認が入っているため、彼女の理性、霊性等に合致しているものである。つまりこの意味で彼女の著作と受け取って宜しいという説明でした。 Webサイトをお教え頂いた後、色々と同じ様なサイトを見つけました。 それらに一環して言える事は、EGWを批判しているその根拠そのもの自体が聖書批判にもなっているという事です。 ご存知だと思いますが、聖書それ自体、いくつかの矛盾記事を含んでいます。※少なくとも人間(私)の目にはそう映ります。 EGWを批判しているその材料そのものが根拠として立つ事が出来ない状態になっており、いわば自爆行為に留まる、或は波紋を投げ掛けているだけで留まり、それ以上の”決定的”な根拠に欠けているように見えるのです。 ※もちろん、全部読んだわけではないので、現時点での感想ではという意味です。 あるケースがきっかけで、私はとりあえずSDAの施設からは放免される事となったため、もうSDAの教えを押し付けられる事はないでしょう。 聖霊の導きかもしれませんね :-) 結局はSDAを知った直後の感想と今の感想は同じです。 「証拠が無いので何とも断言はしかねるが、私の独断として、学ぶものも実際多いが、預言解釈や幻については恐らく彼女の思い込みかなにかであろうし、他の部分についても彼女の激しい感情移入後の小説に過ぎないとも言えるクオリティである。デボーションとしてならまだしも、聖書と同格に置くのは誤りである」 何故なら、いくつか、或は多くの間違いが含まれていたとしても、たった一つでもそこに真実が書かれているなら、それを無視は出来ないという事です。 例えて言うなら、あらゆる彼女の預言解釈や幻は誤りであったが、たった一つだけ、土曜日礼拝に関してだけは真実だったとしたら、私たちはそれを守らなければなりません。 つまり、”誰が正か否か”ではなく、”何が正か否か”であるという事。 オオカミ少年の童話から私たちは学べますね♪